投稿日: 2026/03/17

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り
ガリレオの『天文対話』の扉絵。アリストテレス、プトレマイオス、コペルニクスが議論をしている
ガリレオの『天文対話』の扉絵。アリストテレス、プトレマイオス、コペルニクスが議論をしている

 バラ十字思想の起源を調査することにあたって、我々は西洋秘伝主義の根源を探求した。しかし、十字の上にバラの花が咲くようにした背景については、今まだ検討しなくてはならない。たしかに我々には、バラ十字運動が発達した時代の全体の概要を描き出す必要がある。それによって、我々はバラ十字宣言書がヨーロッパ文明に与えた驚くべき影響を理解できることになるだろう。17世紀の初めに、ヨーロッパは完全に変容しつつあった。この状況を言葉にすれば、「ヨーロッパ意識の危機」という言い回しがしばしば使用されてきている。A・コイレ(A.Koyre) は、「ヨーロッパの精神は深い精神的な大変革を経験もしくは完了したが、その大変革は我々ヨーロッパ人のあり方の土台や、思考の構造までをも変えてしまった。」と書いた。我々はヨーロッパの歴史のなかでバラ十字思想が演じた独自の役割と、そしてバラ十字会の著作物が如何にしてその当時のヨーロッパが直面していた危機に可能な解答を提供するように思えたかを指摘するためにこれらについて述べることにする。

無限の宇宙 (The Infinite Universe)

 新しい宇宙論の発達は17世紀を特徴づける混乱と全く関係がないわけではなかった。実際、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus, 1473-1543) の地動説の発見後間もなく、天文学はそれまでずっと君臨していた天動説を放棄した。閉ざされた世界のイメージは、地球~そしてその結果の人類~がもはや世界の中心ではなくなった無限の宇宙へと置き換えられた。一瞬にして、天動説で惑星の運行を説明していた周転円の理論はこれによってくつがえされてしまった。この無効な理論は、コンフェシオ・フラテルニタティスの第13章であざ笑われていた。

 この新しい世界観は、三つの相反する立場を擁立した。第一は、ガリレオ(Galileo, 1564-1642) によって、世界が幾何学的な次元へとまとめられ、宇宙観を合理的な世界へと導いた新たな科学的な態度が打ち立てられ、広められた。最近のオランダの発見を活用して、ガリレオは数学と観測とを結びつけることができるようした望遠鏡を発明したのであった。我々は聖書とは全く正反対であるガリレオの世界観に直面したときのキリスト教会の態度を容易に想像できる。教会関係者達は地動説を非難し、ガリレオは直ちに地動説の理論を放棄するように強いられた。この出来事は、カトリック教会と科学の亀裂を浮かび上がらせ、独断的な狂信によって科学的な研究が押しつぶされていく長い時代の始まりとなった。ジョルダーノ・ブルーノとガリレオはこの非難の矢面に立たされた。

 ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630) は、第三の道を示した。ガリレオと同時代のケプラーは、ドイツのヘルメス、ルドルフ2世の宮廷でティコ・ブラーエ(Tyco Brahe)の助手をしていた。ケプラーの異なる宇宙観は、ルネッサンスのヘルメス思想と太陽中心の思想を結合させたものであった。彼の「宇宙の神秘(Mysterium cosmographicum, 1596) で、ケプラーは世界のソールの中心を太陽とし、太陽は各惑星のソールに動きを与える源であるとした。

 この新たな宇宙のビジョンはもともとデモクリトス(Democritus)によって主張されていた概念~宇宙は真空の中で運動している~が再び突然持ち出されたことになった。アリストテレスの時代から、この主題は重要性がないとして、ほとんど顧みられてこなかったが、ここ16世紀になって異なる視点から見られた。全能の神に挑戦するこの理論は、現在でさえ論争の的である。ファマ・フラテルニタティスの「真空は存在しない」という声明はこの理由によるものに疑いない。これらの全ての要素によって、人類と宇宙との関係は変化した。後者はもはや神話的ではなくなった。というのは今や宇宙は、良識をもって詳細に調査されうる、膨大な歯車から成る複雑なひとつの機械として見られていたのである。

世界の目録 (The Catalogues of the World)

 同様の状況が地上世界にも当てはめられた。そしてその限界は1492年のヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見と、1498年のインド航路発見によって広められた。それらの航海は、最初の偉大な地図の進歩に貢献し、1544年に出版されたセバスチャン・ミュンスターの「世界誌」(the Cosmographia of Sebastian Munster) は瞬く間に成功をおさめた。そして、同様に称賛されたゲルハルドゥス・メルカトルの世界地図(Atlas of Gerhardus Mercator) もその一つであった。また、印刷板に文字を彫り込む印刷技術の向上は、科学的な業績の急速な拡大をも導いた。16世紀には世界のたくさんの自然の豊かな財宝を指摘した最初の「目録」が出版された。この運動の代表的なものは、ドイツのストラスブルグのオットー・ブルンフェルス(Otto Brunfels of Strasbourg) とテュービンゲンのレオンハート・フックス(Leonhart Fuchs of Tubingen)によって出版された膨大な薬草の本であった。また同様の業績が、スイスのコンラート・フォン・ゲスナー(Konrad von Gesner) とイタリアはボローニャのウリッセ・アルドロバンディ(Ulisse Aldrovandi) とフランスのギョーム・ロンデレ(Guillaume Rondelet)とピエール・ベロン(Puerre Belon)などによってそれぞれ編集され、膨大な量の本草学書が出版された。この時代、ヨーロッパの王族達もまた、自然の驚異を収集することに熱中した。~このことから、重要な珍しい品々の飾り棚に、様々な風変わりなものが集められていた。この点では、とりわけ皇帝ルドルフ2世はそのような風変わりな品々を所持することはそれらの魔法の力を持つことになると決めこんでいたことで、特に興味深いものであった。

オットー・ブルンフェルス『植物写生図譜』(Herbarium vivae eicones)
オットー・ブルンフェルス『植物写生図譜』(Herbarium vivae eicones)

解剖された人間 (The Dissected Man)

 大宇宙のビジョンが変化したので、小宇宙のビジョンもまた進化した。1543年、コペルニクスの地動説の本が出現した同じ年に、アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius, 1514-1564)は、医学史上の中核を成す偉業、「人間の身体の構造(De Humani Corporis Fabrica)」を出版した。人間の解剖学の礎となったこの書物は、ガレーヌス(Galen,c.131-201) の見解を攻撃し、医学界で主流であった権威的な考えについて熟考を促すこととなった。医学界の改革に強い影響を与えた別のグループの書物は、パラケルススなどの著作であった。1560年からヨハン・フーザー(Johann Huser)は、この医学のパイオニアの手稿の編集に着手し、パラケルススの著作はついには全十巻(1589-1591) にまとめあげられ、出版へとこぎつけた。さらにまた、医学の発展に貢献したのは、ミデルブルフの眼鏡師ザカライアス・ヤンセンによる顕微鏡の発明であった。~この発見は、コーネリス・ドレベル(Cornelis Drebbel)他によるとされる説もあるが。すぐ後に「医学界のコペルニクス」、ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)は、血液の循環に関する彼の発見を明らかにした、「動物の心臓並びに血液の運動に関する解剖学的研究(De Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus) 」を出版した。
 これらの諸要素は、全体として人類の宇宙観を刷新するのに役立った。もはや人類は、執念深い神によって追放された世界の神秘について黙想することはなくなった。神学はもはや世界を理解するために必要ではなくなった。むしろ、人類は万物を支配する様々な力について観察し、計算し、理解した。自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたのである。

アンドレアス・ヴェサリウスの『人間の身体の構造』(De Humani Corporis Fabrica)の人体解剖図
アンドレアス・ヴェサリウスの『人間の身体の構造』(De Humani Corporis Fabrica)の人体解剖図

宗教改革 (The Reformation)

 科学が変容されている間に、宗教は爛熟の危機を迎えていた。これは前例のない出来事ではなかった。というのはキリスト教はすでに1378年に教会の大分裂によって二つに分かれてしまっていた。野心的な枢機卿達の党派によって二人の法王~一人はアビニヨン派のクレメンス7世ともう一人はローマ派のウルバヌス6世~が擁立された。二人とも、敵対する相手の法王を教会から除名していた。この敵対する二人の法王の残念な有様は、1417年まで続いた。その上、印刷技術の発明により、思考の普及がもっと容易になり、ルネッサンスの人文主義思想が、さまざまな精神的な情報源へと活路を開いた。そのような主義は、彼ら独自の宗教を熟考するとき、多くの思索者達の思想にとってはおそらく、的外れではなかった。彼らはそれぞれ、キリスト教会が完成した聖職のあり方と、いかにそれか過度に世俗のことに夢中になっているかに疑問を提じた。
 西洋のキリスト教会の統合は、聖書の精神に還れと主張したルターの宗教改革によってもう一度まっぷたつに分裂した。1517年にルターは、ローマ派によって制定された免償と聖遺物の商業化を非難する95ヶ条の意見書を提示した。宗教改革者達は、救済は個人の働きからではなく、個人の信仰から引き出された神の恩寵であり、人類によって確立された教条を越えた聖書に権威があるのだという事実を強調した。ルターはまた、キリスト教会が人々を誇大な迷信で縛りつけていると非難した。わずかの年月の間に、イギリスはヘンリー8世(1532)の治世にローマから分離し、北欧の国々も同様にローマ法王への臣従の義務から降りた。

反乱 (The Revolts)

 不運にも宗教改革は、過剰を引き起こした。すぐに宗教改革はいかにして達成されるべきかについての論争が起こった。1522年と1523年に多くのドイツ貴族達が新しい「真の信仰」を広げようとした。そして高位の権威に叛旗を翻した。すぐそのあと、1524年から1526年にかけて、ドイツで同様に農民達が武器をとり、農民戦争が起こった。この国々の王族と貴族達は、彼らを聖書と直接つながるのを妨げているとの説を信じていて、彼らの使命は真の信仰を回復させることであるとして、その目的に反するものは全て打ち壊すことになんら躊躇しなかった。宗教改革は、神聖ローマ帝国の勢力均衡を驚異にさらす、無数の政治的問題を引き起こした。1556年の後にチャールズ5世の後に即位した皇帝たちは、宗教的寛容(ルドルフ2世)とカトリックの妥協拒否(フェルディナンド2世)の間で動揺した。その状況はついには1618年、帝国の長官たちがプラハ城の窓からプロテスタントの信徒によって外へ放り出された「プラハの窓外放出事件」によって破られた。この行為はドイツを、その約半分の国民が殺されることとなった30年戦争へと引きこむこととなった。

反宗教改革 (The Counter-Reformation)

 カトリック教会はトリエント宗教会議(1545-1563) で新しく発足した反宗教改革をはじめて、プロテスタント達の非難に対抗した。この宗教会議は、厳格な規律によって特徴づけられていた。異端審問所は新たなあり方をとり、「信仰の教理のための新教組合教会派」がつくられた。後者は、禁書目録を出版するように命じられ、その慣例は、ついこの間の1966年にようやく廃止された。ルネッサンス期に書かれた数え切れないほどの秘伝主義と科学的な著作がこの禁書目録に載せられた。そのような出来事によって、秘伝主義の実践者達が部外者を排除した秘密結社をやむなく形成することとなったのは疑うべくもない。

禁書目録
禁書目録

宗教戦争 (The Religious Wars)

 ドイツは再び、1554年と1555年のアウグスブルグの宗教和議によってつかの間の平和を取り戻した。しかし今度はフランスで戦いの火蓋が切って落とされた。1562年フランスでヴァッシーの虐殺が起こり、新教徒が大量に殺されて宗教戦争が勃発した。1572年に起こった聖バルテルミーの大虐殺は、カトリック勢力とプロテスタント勢力の争いに決定的な変化を記した。両方の陣営は防御体制にあり、カトリック教徒はカルビン主義者と戦うために神聖同盟を結び、一方ではヨーロッパ中のプロテスタントの貴族達がその反対勢力として団結した。フランスの混乱は最後にはヘンリー4世の統治のもとで鎮火した。1594年2月に行われたヘンリー4世の戴冠式は、この王が全てのキリスト教徒を和解させることのできる人物であると多くの人々からみなされていたため、大いなる希望をもって望まれた。その支持者の中の一人には、ヨーロッパ中に全般的な改革を説いてまわっていたジョルダーノ・ブルーノがいた。ブルーノは自らの希望をヘンリー3世に託していたにもかかわらず、ヘンリー4世が時の人となることを感じていた。トマソ・カンパネラは、同様にこの王が改革を為し遂げることに全ての希望を託していた。

 そのような状況は当時ヨーロッパ中にある文書が行き渡ることによって支援された。それには、ヘンリー4世はキリストの復活の前にキリスト教徒達の団結を復活させる「新ダビデ」、「古代の予言者たち」の王であると述べてあった。このような声明は、ヘンリー王のプロテスタントの貴族達の同盟をつくる試みで支援されていた。この実現のため、彼はドイツに使者としてギョーム・アンセル(Guillaume Ancel) を送った。ジョルダーノ・ブルーノもまたこの計画でひとつの役割を果たした可能性がある。サイモン・ステューディオン(Simon Studion) はナオメトリア(Naometria, 1604)の中で、1586年にリューネブルグでカトリック同盟に対抗する目的で、Militia Crucifera Evangelicaという福音派の防御同盟を結成するために、ナヴァル王アンリ(後のヘンリー4世)と、スコットランド王ジェームズ4世(後のイングランド王ジェームズ1世)と、ビュルテンベルク王フレデリックの間に同盟を結ぶ密会を取り上げた2 。1610年、ヘンリー4世が暗殺され、この希望は完全に閉ざされてしまった。ヨーロッパに荒廃を横たわらせたこの辛酸な体験は、1612年トライアノ・ボッカリーニによって出版された「パルナサスからの広告」に言及されている。この著作は、ハプスブルグ家によってうちたてられたカトリック教会の指導権に対して非難する論文で、ヘンリー4世こそが真の英雄であるとした。この著者はヨーロッパに平和をもたらす全世界的な改革が為し遂げられるチャンスは、幻影に過ぎなかったことを悟ったようであった。ボッカリーニの著作の「全世界の万人の改革」という題の著作のある章が、いくつかの版のファーマ・フラテルニタティスの序文に載せられていたことは偶然ではなかった。

キリストに倣いて (Imitation of Christ)

 同じ頃、ヨーロッパでは12世紀以降新たな霊性を形作ろうとの運動が実を結びつつあった。それらの運動には、自由な霊の兄弟会(The Brothers of the Free Spirit) 、神の友の会(the Friends of God)、ベグイン修道会(the Beguines)、ベガーズ(the Beghards)といった団体が含まれていた。ここに挙げられた団体では、マイスター・エックハート(Meister Eckhart) 、ヨハネス・タウラー(Johannes Tauler) 、ハインリッヒ・ゾイゼ(Heinrich Suso) 、ヤン・ヴァン・ロイスブルーク(Jan van Rysbroek)などの哲学的手法と内的平安に関連していた教師たちが数えられていた。オランダで14世紀の終わりに起こったデボーショ・モデルナ(Devotio Moderna) は、敬虔さと内的な禁欲主義を強調する運動で、それはドイツにも広がっていった。この精神的運動は『キリストに倣いて』(Imitation of Christ) という本に結晶し、17世紀のバラ十字会員達にたいへん尊重された。

神秘の結婚 (The Mystical Wedding)

 この新たな霊性の主唱者達の中に、それもとりわけプロテスタント運動の活動家の中に、3人の突出した人物がいたことを述べなくてはならない。第一の人物はヴァレンティン・ヴァイゲル(Velentin Weigel, 1533-1588) で、エックハートらの流れをくむもの、パラケルススの魔術的錬金術運動~心霊論者のシュベンクフェルト(Schwenckfeld)とセバスティアン・フランク(Sebastien Franck)のもの~などの自分と同時代の様々な思想を統合しようと奮闘したことで興味深い人物である。彼は内的な変性と再生の働きを中心としたたいへん内面的な修道方法を説いた。そして古代の碑文「汝自身を知れ」に基づいた知識の理論を開拓した。

 第二の人物は、フィリッペ・ニコライ(Philippe Nicolai, 1556-1608)で、「新敬虔」(new piety) のパイオニアであった。彼も先達者たちのように、神秘的結婚の形を取った再生の過程を力説した。その著書、『永遠の生命の喜びの鏡』(The Mirror of the Joys of the Eternal Life, 1599) の中で、彼はこの再生には7つの段階があると述べた。ニコライはヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(Johann Valentin Andreae) に強い影響を与えていた。

 第三の人物は特に興味深いのだが、ヨハン・アルント(Johann Arndt)で、ドイツ敬虔派の先覚者といえる人物である。彼の著書、『真のキリスト教』(True Christianity) は、300回の再版に及ぶ見事な成功をおさめた。我々はハインリッヒ・クンラス(Heinrich Khunrath) の著作 Amphithearum Sapientiae Aeternae についての評釈は、この神学者であり錬金術師であるアルントに感謝せねばなるまい。『自然の書』(Book of Nature)に関する彼の評釈の抜粋は、ほとんどそのままの語句でバラ十字宣言書の中に見ることができる。二人の先達者たちと同じように、アルントは再生の必要性を強調していた。アンドレーエはアルントを精神的な父親と認めていたのであった。

 我々が注目してきたように、16世紀の宗教情勢は爆発的なものであった。しかしプロテスタントの第三世代においては、疑念は鎮火していた。プロテスタント運動は、その地位を正当化しようとするあまり、全ての責任をカトリックのせいにするという神学上の行き過ぎに落ちいってしまっていた。改革者達は今や、第二の宗教改革の必要性を自らに問うていた。その間にこの状況と平行して、ルネッサンスの秘伝主義がキリスト教神秘学を豊かにしていた。

ヴァレンティン・ヴァイゲルのStudium universaleより
ヴァレンティン・ヴァイゲルのStudium universaleより

次の記事へ:ナオメトリアと聖霊の時代|バラ十字会の歴史と神秘(第4章)

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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