
年末年始にかけて、般若心経に触れる機会があり、個人的に「空(くう)」というものについて色々と考察してみました。
一般的な解釈としては、
すべては「空(実体がない)」であり、それゆえに、「物事に執着」したり、「与えられた価値観」に捉われてはならない。
と説明されたりします。

ただし、般若心経には様々な解釈があり、大乗仏教的な解釈、時代性の反映など、たった一つだけの解釈が成されているわけではありません。
そして、そもそも、その解釈さえも「空(くう)」であるとも言えます。
ただ、このことについて思索するうちに、この世界には越えるべきものが数多くあり、「これは大変だ」と正直思うようになりました。
そして、般若心経の最後は、
即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
と締められるわけですが、最後の「薩婆訶(ソワカ)」は「幸あれ」などのような意味になり、私は、越えなければならない「壁」を感じたときに、この「薩婆訶(ソワカ)」の意味が何となく分かったような気がしました。
しかし、般若心経の全体を通して考察すると、それだけで本が一冊書けてしまうほどですので、少し要点を絞ってお話したいと思います。
色即是空 空即是色
般若心経の最も有名なフレーズだと思いますが、これはそのまま直訳すると
色(しき)は空(くう)であり、空(くう)は色(しき)である
となりますが、
色(現実に認識される区別)は、空(根源的な一つのもの)から生じ、
空(根源的な一つのもの)は、色(現実に認識される区別)を生じさせる
と解釈することができます。

たとえば、この世界から物事を指し示す「名前」がなかったとすれば、人間のコミュニケーションは今のように円滑にはいかないと思われます。
しかし、その「名前」自体は、その物事を本質的に捉えたものでもなく、「虚ろな実体のないもの」だと、般若心経では説かれています。
たとえば、「セロリ」という野菜がありますが、
嫌いな人には大嫌いな野菜ですが、好きな人にとっては大好物な野菜になります。
(こう言いながらも、セロリも野菜も、好きも嫌いも、まさに実体がありません。笑)
ですから、「セロリ」が好きな人と嫌いな人が「セロリ」という名前を聞いて思い浮かべるイメージも、まったく異なるものになります。
そして、「セロリ」というものは、太陽の光を浴び、大地や雨、空気から養分を吸収して成長しますが、私たちが通常認識している「セロリ」というものは、その成長したものから根を切り落としてスーパーに並べられたものを「セロリ」として認識しているのではないでしょうか?
ということは、「セロリ」という名前からは、「セロリ」というものを構成するものや本質については、何一つ語ることはできず、何一つ示すことができていません。
そして、これらは、この世界の言語化されて区分された名前や言葉のすべてに当てはまります。
そしてこのことは、感情を表す「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しみ」などの言葉にも当てはまり、個人個人で感じる度合いはもとより、どこからが「喜び」でどこからが「哀しみ」なのかさえも曖昧で、元々一つであったものを区分することによって、ますますその実体からかけ離れていきます。
元々は、「空(くう)」という「根源的な一つのもの」であったにもかかわらず、人間がそれらを区分して「色(しき)」という「現実に認識されるものに区別」したために、様々な迷いや葛藤が生じているというのが、私たちに起こっている一つの現実ではないでしょうか?

空(くう)の重ね合わせ
たとえば、「〇〇という食べ物は美味しい」という話を聞いて、他の人に「〇〇という食べ物は美味しいらしい」というように話した場合、「〇〇という食べ物」自体の実体を知らないにも関わらず、「美味しい」という、さらに実体のない言葉を重ね合わせていますが、私たちは日々の生活や勉強などにおいても、実体験をせずに、このようにしてしまっていることの多さに気が付きました。
「〇〇という食べ物はどういうものなのか?」「美味しいと感じるのか?」など、実際に体験したものは、自身の現実となりますが、体験しないままだと、いつまでたっても「虚ろな存在」であり続けます。
ただ、この世の中のすべての物や事を自身の現実として体験し尽くすことは、現実的には不可能でもあります。
しかし、たとえ、この世の中が「虚ろな実体のないもの」であったとしても、私たちの前には様々な現実が立ちはだかります。
そして、般若心経は、この世の中は「空」ではあるが、存在するすべてのものを体験し尽くせと示唆しているように、私は感じました。
言うなれば、この世界に存在するものの名前を自身で付けなおすこと、世界を再構築することを自分自身が行い、それぞれの名前に実体を持たせ、自身の現実にすることであると…。
ですから、冒頭で述べたように、「これは大変だ」と思った次第です。
そして、その険しい道を進むための呪文として、
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
というマントラを最後に教えてくれるのですが、
その最後が「薩婆訶(ソワカ:幸あれ)」で締めくくられているのは、まさにこの道の険しさを表わしているのではないかと思いました。

△ △ △
あとがき
ドラマや漫画でも有名な三蔵法師(玄奘三蔵)は、インドから大乗仏教の経典を大量に持ち帰って、中国語に翻訳しました。それが600巻を超える『大般若波羅蜜多経』であり、「般若心経」はその真髄をまとめたものだとされます。
英語では「Heart Sutra」(心の経典)という美しい名前が付けられています。
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執筆者プロフィール
渡辺 篤紀
1972年9月30日生まれ。バラ十字会AMORC日本本部下部組織(大阪)役員。ベーシスト。 TV番組のBGM、ゲーム音楽の作編曲のほか、関西を中心にゴスペルやライブハウスでの演奏活動を行っている。