以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

バラ十字サロン
The Salons Rose-Croix
リック・コバン
By Rick Cobban

1892年が始まって間もなく、1枚の鮮烈なポスターがパリの街に出現しました。そこには3人の女性が描かれており、1人は裸のまま日常生活の泥沼に沈み、指先からはドロドロとした液体が滴り落ちています。他の2人の女性は天界へと続く階段を上っています。下段に立っている女性は、黒っぽいドレスを着て中間的な位置を占め、その1段上に立っている透明に近い姿をした女性にユリを差し出しています。こちらの女性は、日常の穢れをはるかに背後に捨て去った存在のように見えます。
軽やかで今にも消え入りそうなこの女性は純粋な理想主義の象徴であり、彼女の右手には、くすぶって煙を上げている心臓が乗っています。階段には、聖母マリアの象徴であるバラとユリが散りばめられています。階段の先には山の頂が見えており、雲と星がそれを取り巻くように渦巻いています。ポスターの左右の枠には、十字架に磔(はりつけ)にされたバラが祭壇に置かれている連続模様が描かれており、下部には、第1回『バラ十字サロン』(Salon de la Rose-Croix)の開催が告知されています。
バラ十字サロン
The Salons of the Rose-Croix
ドイツの象徴主義(訳注1)の画家カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe, 1877-1926)が描いたこのポスターは有名ですが、バラ十字サロンにまつわる、秘伝哲学(訳注2)と芸術上の紆余曲折についてはあまり知られていません。バラ十字サロンという異色の美術展を1892年から1897年にかけて6回にわたって主催したのは、1人の著名人でした。その人物とはジョゼファン・ペラダン(訳注3)です。彼は兄のアドリアン・ペラダンから影響を受け、トゥールーズ(Toulouse)で活動していた当時のバラ十字会の神秘哲学(mysticism:神秘学)に深く傾倒するようになりました。

ペラダンは、パピュス(Papus)とスタニスラス・ド・ガイタ(Stanislas de Guaita)とともに、『バラ十字カバラ団』(L’ Ordre Kabbalistique de la Rose-Croix)を結成しました。しかしペラダンは、雑誌「イニシアシオン(L’ Initiation)」の1891年2月17日号に掲載したパピュス宛の手紙の中で、『バラ十字カバラ団』からの脱退を表明しました。理由は、バラ十字の活動の目的と方向性に関する意見の相違でした。そして彼は1891年5月に、自分自身の考え方に基づいた『テンプル聖杯カトリック・バラ十字会』(L’ Ordre de la Rose-Croix Catholique et esthetique du Temple et du Graal)を設立しました。
この会は、侍従、騎士、指揮官という3つの階級に分かれていました。会長のペラダンは、組織の側近の間では「サール・メロダック・ペラダン」(訳注4)と呼ばれていました。派手な紫色の長いマントに身を包み、髭と髪を「アッシリア風」と自ら表現したスタイルに整えたペラダンは、パリの社交界で、尊敬と賞賛と同時に、嘲笑の的として異彩を放つ存在になりました。彼の組織の活動はフランスを拠点としていましたが、やがてベルギーにも広がりました。秘伝哲学的な活動は、大衆向けの芸術・文学活動と同時に進められました。ペラダンは、芸術と音楽が魂を向上させ、今よりも同情心に厚く精神性を重視する世界への変化を促すと考えていました。1891年には『バラ十字の宣言書』(The Manifesto of the Rose-Croix)と『バラ十字サロンの規則と注意事項』(Regulation and Monitor of the Salon Rose-Croix)が発行されました。
第1回の『バラ十字サロン』は、1892年3月10日に有名なデュラン=リュエル・ギャラリー(Durand-Ruel Gallery)で開催され、その年で最も成功を博した展覧会のひとつになりました。雑誌社や新聞社に2,000枚もの招待状が送られ、個人宛ての特別招待状も送られました。来場者の入場票の枚数は22,600枚を超えました。会場の外の通りでは、警察が出動して、展覧会を訪れる客の乗りものの交通規制を行わざるを得ませんでした。展覧会にはパリ社交界の重鎮たちも訪れました。『メルキュール・ド・フランス』誌(the Mercure de France)のレミー・ド・グルモン氏が『本年の最重要芸術展』と呼んだこのイベントには、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes)、ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)、エミール・ゾラ(Emile Zola)、ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)などの錚々たる画家、作家、詩人に加え、作曲家のエリック・サティ(Erik Satie)も参加しました。数百人もの画家がバラ十字サロンに出展しましたが、その中でも全6回にわたって出展した象徴主義の有名な画家として、カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe)、フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff)、ジャン・デルヴィル(Jean Delville)、アルマン・ポワン(Armand Point)、フェリシアン・ロップス(Felicien Rops)、アレクサンドル・セオン(Alexandre Seon)が挙げられます。当然ながら、出品された作品の水準は様々でしたが、優れた作品はいずれも象徴的な意味に富んでいました。

フェルナン・クノップフの絵画『私は自分自身にドアを閉ざす』(1891年作)を綿密に調べると、バラ十字のこの作品には、さまざまなレベル(level:階層)にわたる意味が象徴的に込められていることが明らかになります。この絵を見た観客は、自分が読み取れる限りの理解を得ました。部屋の中の両性具有者を描いたこの絵に対して、誘惑的でかつ貞淑である「ファム・ファタール」(femme fatale:魔性の女)というお定まりのイメージしか持たない人もいました。しかし、より深い洞察の解釈をすれば、外の感覚の世界から内面へと目を向け直し、瞑想にふけるソウル人格(訳注5)という神秘学的な性質が明らかになります。この両性具有者の姿は、男性と女性という二元性を超えているソウルと、瞑想の孤独の中でマグス(魔術師)が獲得した、生死を超越した力を象徴しています。ジャン・デルヴィルの『サタンの財宝』(Les tresors de Satan, 1895)やアルマン・ポイントの『セイレーン』(The Siren, 1897)を見ると、出品作の幅の広さと作者たちの意図の多様さを見て取ることができます。

展示される芸術に対するペラダンの強烈な要求と、展示会を声明文と規則に沿って運営する必要には相反する性質があり、このことによって、彼の創設した当時のバラ十字会とバラ十字サロンの双方にひずみが生じる結果になりました。バラ十字会の活動に対するペラダンのエリート主義的見解(訳注6)の中でも、極めて論争の火種となりそうな見解を、次の発言に垣間見ることができます。
芸術とは、運命づけられた者だけに許される入門儀式であるべきだが、今やその芸術が、大衆におもねる陳腐極まりないものに変わりつつある。
ぺラダンのこうした態度には、サロンに出展する芸術家と彼らの作品に対する、彼の期待と批判とが錯綜した形で表れていました。サロンの厳格な規則を強制されることで、サロンへの参加を断念する芸術家がいる一方で、それに触発される芸術家もいました。
ジャン・デルヴィルは、ベルギーで象徴主義の芸術展とペラダンの作品展を企画しました。ペラダンの考える、サロンにおける芸術の理想的なあり方は、彼の芸術理念を表す次の言葉に要約されています。
芸術作品はフーガ(訳注7)である。自然が主題を提供し、芸術家の魂がその他のすべてを創造する。
この言葉は、20世紀のモダニズム(訳注8)の多くの側面が発展を遂げる際の指針となる考え方であった可能性があります。実際に、モダニズムの発展に後に大きな役割を果たすことになる数人の芸術家が、6回の展示会のうち少なくとも1度は出展しています。ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)はフォーヴィスムの偉大な孤高の画家の一人となり、エミール・ベルナール(Emile Bernard)はナビ派を牽引する存在となりました。アントワーヌ・ブールデル(Antoine Bourdelle)はロマン主義的な様式を持つ彫刻家となり、フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler)は表現主義の道へと進みました(訳注9)。また、ヤン・トーロップ(Jan Toorop)はアール・ヌーヴォーを代表する画家の一人となり、フェリックス・ヴァロットン(Felix Vallotton)は客観的リアリズムの独自の表現方法を編み出しました(訳注10)。
象徴主義者たち
The Symbolists
文学の世界で象徴主義が台頭したきっかけとなったのは、ジョリス=カール・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans)が書いた『La-bas』(邦題『彼方』)と『A Rebours』(邦題『さかしま』)という2つの小説です。そこで扱われているテーマはデカダンス、ダンディズム、オカルティズム(訳注11)ですが、こうしたテーマは、同じ象徴主義の小説でも、ペラダンの『至高の悪徳』(訳注12)とは対極に位置します。『至高の悪徳』の主人公は、達人の神秘家であり、自分の持つ能力を最高の理想のために用います。詩人のジャン・モレアス(Jean Moreas)は、1886年に『フィガロ』(Le Figaro)紙に「象徴主義宣言」(Le Symbolisme)を掲載し、象徴主義運動の理念や目的を明確にしました。アルベール・オーリエ(Albert Aurier)は象徴主義を、無形で目に見えないものを象徴する「内面的観念」を描くことであると定義しました。象徴主義は、行き過ぎたロマン主義や、写実主義や印象主義(訳注13)の持つ唯物的な考え方に対する反動でした。
象徴主義の画家であるギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)とオディロン・ルドン(Odilon Redon)はバラ十字サロンへの招待を受けましたが、集団を好まない彼らは2人とも辞退しました。モローが神話や聖書の出来事に触発されて描く象徴主義の絵画は、19世紀後半のフランスを覆っていた世紀末(fin-de-siecle)的雰囲気をよく表しています。モローの作品『サロメ』(Salome)と『夕べの声』(Voice of Evening)では、宝石のような光を帯びた光景が、象徴の持つ「イメージや感情を呼び起こす力」で鑑賞者を魅了すると同時に、ベールに隠された現実のあり方を示しています。モローの教えと芸術は、ゴーギャン(Gauguin)やマティス(Matisse)といった芸術家たちに、新たな芸術表現を生み出すためのインスピレーションを与えました。

偉大な壁画家であったピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Cha-vannes)は、自然を模倣することに関心がありませんでした。彼は、1つの作品に1つの出来事を描くことで、普遍的な象徴の持つ雰囲気を捉えました。彼は広大で静謐な情景を淡く落ち着いた色使いで丹念に描くことで、圧倒的な力を持つ作品を生み出しました。そのような壁画の優れた習作のひとつに『パリに物資を運び入れる聖ジュヌヴィエーヴ』(Ste. Genevieve ravitaillant Paris, 1897-98)があります。この作品は、メルボルンのビクトリア国立美術館で見ることができます。また、絵画『貧しき漁夫』(Le Pauvre Pecheur, 1881)には、淡い色彩と無骨な対角線の構図、漁師の祈るような姿から醸し出される瞑想的な雰囲気が感じられます。
こうしたすべての要素によって、描かれた場面の崇高さと鑑賞者の心がひとつになります。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Puvis de Chavannes)は、彼の芸術に見られる形而上学的な「静けさの力」によって、精神の崇高さを描き出そうとするすべての画家たちから密かな尊敬を集め、同時に彼らに強い影響力を与えました。この「静けさの力」は、イタリアのシュールレアリスム(訳注14)の先駆者であるジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)が形而上絵画(訳注15)を生み出すと、再び注目されるようになります。

エリック・サティ(Erik Satie)やクロード・ドビュッシー(Claude Debussy)といった作曲家は、象徴主義の芸術家と同じ方向性を持ち、心の深奥の崇高さを音楽で表現しようとしました。サティは、1892年春に開催された第1回サロンの開会式のために、ハープとトランペットの曲『バラ十字のファンファーレ』Les Sonneries de la Rose-Croix)を作曲しました。しかし、彼の代表作と言えば『3つのジムノペディ』(Trois Gymnopedies)と『グノシエンヌ』(Gnossiennes)です。エリック・サティの影響は、フィリップ・グラス(Philip Glass)やマイケル・ナイマン(Michael Nyman)といった現代ミニマリズム(訳注16)の作曲家たちの作品に受け継がれています。オディロン・ルドン(Odilon Redon)の版画、絵画、デッサンは、夢や無意識のイメージからインスピレーションを得ています。彼の作品を鑑賞するには、象徴主義の美術や詩の多くがそうであるように、作品の意味を解釈し直観するプロセスに鑑賞者が積極的に関わることが重要になります。そうすることで、鑑賞者は神秘的で幻想的な体験へと導かれます。ルドンは、視覚的なインパクトに加えて、短い詩のようなタイトルを添えることがよくありました。石版画『眼は奇怪な気球のように無限に向かって浮遊する』(The Eye floats towards Infinity like some Weird Balloon, 1882)というタイトルは、ある種の幻視体験に鑑賞者を確かに導いてくれます。彼はまた、『沈黙』(Silence, 1911年)という絵画で、神秘的な沈黙の神ハルポクラテス(Harpocrates)を描いています。ハルポクラテスは唇に人差し指を押し当てる仕草をしていますが、この仕草はバラ十字会の神秘家にとってなじみ深いものです。最も偉大な謎は、結局のところ言葉で表現できないものであるということを彼は私たちに思い起こさせてくれます。それは知性も、いかなる象徴的表現をも超えています。


ナビ派
The Nabis
1898年以降、ナビ派(ヘブライ語、アラビア語で「預言者」を意味する)が象徴主義の主唱者となるにつれて、バラ十字サロンは歴史の中に消えて行きました。ナビ派の代表的な芸術家は、エミール・ベルナール(Emile Bernard)、モーリス・ドニ(Maurice Denis)、ポール・セリュジエ(Paul Serusier)、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard)、エドゥアール・ヴュイヤール(Ed-ouard Vuillard)、ポール・ランソン(Paul Ranson)といった顔ぶれです。彼らは多様な画風と信条を持つ芸術家集団で、「斬新かつ現代的、しかも崇高さを帯びた芸術の創造」をモットーに団結していました。
彼らは作業着を身にまとったまま自宅やアトリエに集まり、食事を共にし、芸術、哲学、宗教、神秘哲学について語り合いました。創造行為の真髄は、芸術家自身とその芸術に触れるすべての人の精神を向上させることであるというのがナビ派の考えでした。そして、神聖幾何学(訳注17)と知覚対象の抽象化を用いて自らが創り出した理論と表現方法によって、20世紀に爆発的な隆盛を極めたモダニズムの、まさしく「ナビ」(預言者)になったのでした。しかし、ロバート・ピンカス=ウィッテン(Robert Pincus-Witten)は、その時代になってもなお、バラ十字サロンの残響が聞こえていたと指摘しています。

1899年、ナビ派の展覧会の後にデュラン=リュエル・ギャラリーで開かれた『オディロン・ルドンへのオマージュ』(Homage to Odilon Redon)展が好評を博しました。モーリス・ドニはタヒチのゴーギャン(Gauguin)に手紙を送り、翌年に開催予定の『象徴主義、点描主義(訳注18)、バラ十字サロンの画家たち展』(Symbolist, Pointillist and Rose-Croix painters)という展覧会への参加を要請しました。残念ながら、この頃にはすでに多くの画家が作風を変え、パリの別の画商たちとの関係を築いていました。その結果、この展覧会が日の目を見ることはありませんでした。
ナビ派は、ゴーギャンこそが彼らの理想を代表する偉大な画家であるとして、彼のもとに集結しました。ポール・ゴーギャン(訳注19)の天才ぶりを示す作品の中でも最大の傑作である『我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこへ行くのか』(D’Où Venons Nous? Que Sommes Nous? Où Allons Nous?, 1897)は、人間のあり方に対する彼の神秘哲学的な理解を、極めて生き生きと描いています。彼は、タヒチの先住民が持つ自然のままの感性からインスピレーションを得ました。ゴーギャンはこの絵を見た人が、「まず感情でとらえ、解釈はその次だ」と気づくことを望んでいました。
この作品には、誕生から死に至るまでの人間の変遷が描かれています。右側に描かれている生まれたばかりの赤ん坊から、左側の追憶に浸るやつれた老婆まで、日常生活、あこがれ、喜び、恐れといった、人間のあらゆる要素がこの作品に表現されています。神の存在を象徴する彫像が、絵を見ている人を見つめ返し、ソウル(soul:魂)の象徴だと推測される両性具有者が、経験の果実である知識と知恵をつかみ取ろうとしています。この絵は、すべての人と文化と生命そのものの起源と目的という根源的な問いを投げかけています。この深遠な絵画に価値と意味を与えるのは、この絵を鑑賞する一人ひとりのこれまでの経験です。
ゴーギャンは、単なる説明や描写を望んだのではなく、見る者の心に意味の連想を呼び起こします。
私は死を前にして、全精力をもう一度を注いだ。このような恐ろしい状況において、情熱は痛ましいほど燃え盛り、アイデアとイメージは明確に冴えわたっていた。それゆえに、この絵の中には早熟さなど微塵もなく、生命がそこから開花する。
ゴーギャンは、この作品が「福音書に匹敵する」ものになることを望んでいました。彼はナビ派の理想である「内容と意味を、美的形式と完全に融合させること」を実現しました。この絵について思いを巡らすことは、鑑賞者に何倍もの見返りをもたらすでしょう。ゴーギャンはこの作品を通して、人生の偉大な神秘を解明しようとしていたからです。

バラ十字サロンの遺産
Legacy of the Salons of the Rose-Croix
ジョゼファン・ペラダンの生涯に話を戻しましょう。彼は、神秘哲学を動機に持つ象徴芸術の価値を多くの人に納得してもらうために、最後まで全力を尽くしました。彼は相変わらず紫色のローブを身にまとい、髭と髪を「アッシリア風」に整えていました。彼がカロプロソピー(訳注20)の一環として、意図的に行っていた風変わりな服装選びは、ジャーナリストたちによる風刺の的となりました。しかし19世紀末には、ナビ派を筆頭に多くの芸術家が、従来のブルジョワ社会に対する拒絶の意思を示すために、華美な服装に興じていたのでした。
1918年にこの世を去るまで、ペラダンは秘伝哲学と文学の活動を続け、小説、戯曲、芸術、神秘哲学に関する90冊に及ぶ著作を発表しました。彼の人生そのものが、ある種の芸術作品でした。20世紀に入ると、ペラダンの神秘哲学は、エミール・ダンティンヌ(訳注21)がベルギーの『テンプル聖杯カトリック・バラ十字会』に入門するきっかけの1つとなりました。ダンティンヌは、サール・ヒエロニムス(Sar Hieronymous)という神秘家名(nom mysticum)を名乗り、1930年代にいくつかの神秘哲学の団体を統合する上で主導的な役割を果たしました。
現代アートを注意深く見ると、目の利く人であれば、そこに象徴主義とバラ十字サロンという神秘哲学の潮流が、美学的遺産として息づいていることを感じ取ることでしょう。21世紀の今、音楽と芸術を奨励するバラ十字会の伝統は、米国サンノゼ市のバラ十字エジプト博物館や、パリのバラ十字文化センターなどの、バラ十字会AMORCの各地の拠点で開催される公演会や展示会を通して継承されています。

訳注:
1.象徴主義(symbolism):19世紀後半から20世紀初頭にフランスやベルギーを中心にヨーロッパ全土で起きた芸術運動。物質主義や合理主義が蔓延した時代に、人間の精神性が軽視されることに危機感を感じていた芸術家が、感情や愛や死といった抽象的な観念を、神話や宗教、夢などに登場するイメージ、言葉の音調や連想などを活用して表現することを目指した。
2.秘伝哲学(esotericism):神秘哲学(mysticism:神秘学)とほぼ同じ意味。歴史上の多くの神秘学派が、自分たちに伝わっていた知識を集団の外部の人には公開しなかったことに由来する。
3.ジョゼファン・ペラダン(Josephin Pela-dan, 1858-1918):詩人、小説家、劇作家、美術評論家、文芸評論家。リヨンの伝統的なカトリック教徒の家庭で育ち、父と兄の影響から神秘哲学に関心を抱く。芸術を内なる発見や内面的な成長の手段として重視し、芸術作品を通じて崇高な真理を表現できるという信念のもとで「美」を道徳的な理想と結びつけ、芸術家が高尚な目的を持ち人類の意識をより高い次元へ導くべきだと説いた。彼の思想はカトリックの伝統に深く根ざしつつも、教会の伝統的な教義には含まれない神秘哲学、カバラ、古代の秘伝的伝統を基礎にしていた。主著は『ラテン的頽廃』(La Decadence Latine)、『死せる学問の階段講堂』(Amphitheatre des Sciences Mortes、バラ十字会の哲学的基盤を築くための著作とされる。)、『薔薇十字の演劇』(Le Theatre Rose+Croix)、『観念と形体』(Idee et Forme)。
4.サール・メロダック・ペラダン(Sar Me-rodack Peladan):サールはアッシリア語で「王」または「君主」、メロダックはカルデアの木星の神。
5.ソウル人格(soul personality):バラの花にたとえられる人間の個々のソウル(soul:魂)には、その薫りにたとえられるソウル人格が付随していて、それが生まれ変わりを繰り返しながら進化して完全な状態に達すると、バラ十字思想では考えられている。
6.エリート主義的見解(elitist view):ペラダンは、芸術や神秘学を理解し実践できるのは選ばれた少数の者であると考えていた。この考えは彼の思想全体に貫かれており、真に内面的な成長を遂げられるのは特別に準備された一部の人だけであると彼は主張した。
7.フーガ(fugue):多声音楽の様式の一つ。主題(モチーフ)が提示され、それに応えるように移調された同形の旋律が現れ先行主題を追いかける形で反復される楽曲。遁走曲。
8.モダニズム(modernism):第一次世界大戦から1930年を中心にした前衛的芸術運動。産業革命以降の社会の変化を背景に出現した。伝統主義を否定して現代的な新しさを追求し続け、洗練された主観主義的表現を尊重する芸術・思想上の傾向の総称。表現主義、シュールレアリスムもこれに含まれる。
9.フォーヴィスム(fauvisme):20世紀のはじめにフランスで起こった絵画運動のひとつ。原色を多用した強烈な色彩と、荒々しいタッチが特徴的な作品の総称。「フォーヴ」(fauves)とは「野獣」を意味するフランス語で、世紀末芸術の陰鬱な暗い作風とは対照的に、目に映る色彩ではなく、心が感じる明るく強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。
ロマン主義(romanticism):18世紀から19世紀にかけてヨーロッパを中心に隆盛した思潮。17世紀以降の、普遍性や理性を理想とする古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものとみなして排斥し、個性や自我の自由な表現を尊重した。知性よりも情緒を、理性よりも想像力を、形式よりも内容を重視し、中世とルネッサンス期の精神や自然との直接的な接触にインスピレーションを求めた。
表現主義(Expressionism):20世紀の初めにドイツを中心としてヨーロッパで展開された芸術革新運動。客観的表現を排し、個人の自我や魂の主観的表現を重視した。人間の内面の表出、非写実的な表現、幻視的な意識など共通した特徴を持つ。
10.アール・ヌーヴォー(art nouveau):ニュー・アート(新美術)を意味する語。19世紀末から20世紀初めにかけてフランスで流行した美術上の一形式。実際の動植物を装飾化し、建築や家具、工芸品やデザインなどに応用。淡い色彩、優美な波状曲線、唐草模様による独特な装飾性を特徴とする。
客観的リアリズム(objective realism):観念的想像的なものを排し、客観的現実を尊重して、描写する対象を様式化、歪曲化(デフォルメ)、抽象化、理想化することなく、対象を正確にあるがままに再現しようとする芸術制作の態度や方法。
11.デカダンス(decadence):19世紀末にフランスを中心とするヨーロッパに起こった文芸の一傾向。既成の価値や道徳を拒絶し、退廃的・虚無的・官能的な美を追求した。
ダンディズム(dandyism):18世紀末から19世紀初頭に、フランス王朝風俗に影響された華美・柔弱な男子服に対する反動として、イギリスで生れた伊達好みの気風。その過剰な美意識はイギリス本国よりもフランスにおいて広く知的階層の間に浸透し、バイロンやボードレールなどの文学者の反俗物主義にまで発展した。
オカルティズム(occultism):「隠された力」(occulta)を認める思想およびそれに基づくいろいろな行動をさす。通常の認識では解明できない自然現象,人間的事象などを対象とする。何がオカルティズムに含まれるかには多様な意見があるが、通常、占星術、錬金術、神智学、心霊術などとされる。
12.至高の悪徳(Le Vice supreme);『ラテン的頽廃』に収められた小説群の第1話。ペラダンのデビュー作であり、彼の哲学と美学が反映された作品。
13.印象主義(Impressionism):19世紀後半~20世紀初頭にかけて、フランスを中心に全ヨーロッパに起こった絵画、音楽表現上の一傾向。絵画では、対象を精細に写実するのではなく、対象が画家に与える印象を描くべきだとし、物の固定色を否定して色彩と光を重視した。音楽では、楽器によって異なる音の色彩感を重視し、瞬間的感情や雰囲気を強調した。
14.シュールレアリスム(Surrealism):第一次世界大戦後にフランスで起こった芸術運動の一つ。フロイトの深層心理学などの影響を受け、未開の心理や精神病者の知覚などを取り入れながら、非合理なものや意識下の心象を表現することを提唱した。超現実主義。
15.形而上絵画(metaphysical painting):1915年頃に、キリコ、カルラらを中心に発展した美術運動。奇妙な歪みを見せる遠近法や幾何学的形態などを多用し、時間や空間の倒錯や事物の非日常性を描くことで、潜在意識内の世界(超現実)を表現することを目指した。
16.ミニマリズム(minimalism):1960年代に音楽・美術の分野で生じた創作概念。何かを創作するにあたって、装飾的趣向を凝らすのではなく、むしろ非本質的な形状、特徴、概念を必要最小限までそぎ落とすことで本質的なものだけを表現することを目指した。最小限主義。
17.神聖幾何学(sacred geometry):宇宙や自然界、生命の秩序を表す数学的な形状やパターンを探究する学問。特に中世ではコンパスと目盛りのない直線定規だけを用いる幾何学が神聖であるとされた。
18.点描主義(pointillism):点描とは、点または点に近い短線を連ねて描く絵画技法。純色の小さな点を並置することで、それらが網膜上で混合され(視覚混合)、別の色彩のかげりを帯びつつより輝きを増すことを目的とする。新印象主義とも呼ばれる。
19.ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin):フランスのポスト印象派の画家(1848-1903)。彼の絵は印象派の模倣から始まるが、やがて、これまでの伝統的なヨーロッパの絵画が写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに失望。アフリカやアジアの美術に神話的な象徴性と原始的・野性的な活力を見いだしタヒチへ渡り、先住民社会の表現の中に自己発見の道を求め続けた。
20.カロプロソピー(the science of Kalo-prosopie):ファッションや肉体美を含め、人間に固有の美しさを追求するための技術、方法。
21.エミール・ダンティンヌ(Emile Dan-tinne, 1884-1969):ベルギーの神秘家。ジョゼファン・ペラダンの影響を受け、神秘哲学の運動に深く関わる。バラ十字思想の継承、芸術と神秘主義の統合、イニシエーション(入門儀式)の重視、エリート主義など、ペラダンの思想をすべて受け継ぎながら、ヨーロッパにおける神秘哲学の運動に大きな影響を与えた。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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第1号:内面の進歩を加速する神秘学とは、人生の神秘を実感する5つの実習
第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について