The Wonderful World of Stained Glass
ボブ・コーゲル
By Bob Kogel
自分の写真のファイルに目を通していて、これまでの旅行でステンドグラスの窓をずいぶんと数多く撮影していたことに気づきました。その多くは、フランスとイギリスのゴシック様式の大聖堂を訪れた時のものです。「もしかしたら」と、ここである考えが浮かびました。「ステンドグラスについて調べて記事にするのがいいかもしれない。記事に添える写真には困らないし。」
私のいるグランドロッジ(訳注)から車道を挟んだ向かいに、ステンドグラスの教室を開いている会社がありました。この教室は大盛況だったため、最近もっと広い建物に移転したのでした。感動的なステンドグラスの窓を過去に生み出した創造的な精神は、現代でも生き生きと保たれています。かつてはとても高価で時間のかかる芸術であったステンドグラスですが、今日の職人さんは、昔は手に入れることができなかったようなガラスやガラス切断用の道具を使うことができます。ガラスを適切な形にしたり様々な加工を施したりする仕事は、より速く簡単に、そしてより手頃な費用で行えるようになってきました。
(訳注:グランドロッジ(Grand Lodge):バラ十字会では、各国本部のうち規模の大きいものをこのように呼んでいる。)
ガラス作りの歴史を調べると、その技術はローマ人によってエジプトから伝えられたと考えられており、初めて窓ガラスが用いられたのはローマ帝国時代であるとされています。大英博物館には、ローマ時代の傑作である「リュクルゴスの聖杯」(Lycurgus Cup)と「ポートランドの壺」(Portland Vase)の2点が所蔵されています。前者は、くすんだ淡緑色をしていますが、光に透かすと赤紫色に輝きます。後者は、濃紺のガラスの表面に乳白色のガラスのレリーフが浮き上がるように施されています。
西ローマ帝国が滅亡した(西暦476年)後も、窓ガラス製作の技術は、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルで生き続け、6世紀ごろにはステンドグラスの製造が始まりました。長い進歩の道のりを経た後に、ゴシック様式の大聖堂においてその技術は頂点を極め、ヨーロッパの各地に、アーチ型の高い天井を持つ大聖堂が建てられるようになったのでした。
フランスのシャルトル(Chartres)、トロワ(Troyes)、ランス(Reims)、アミアン(Amiens)、ルーアン(Rouen)などの都市の大聖堂を訪れる機会があれば、どうかたっぷりと時間をかけて見学してみてください。心を満足させてくれる興味深い体験をすることができます。天候によりますが、大聖堂の周りを回る太陽の動きに合わせて、ステンドグラスを通して内部に映し出される色彩の位置や大きさが変化します。私はその趣が大聖堂ごとに異なることを実感しました。それは本を読んだり動画を見たりしても把握できるようなものではなく、実際にその場に身を置いてみなければ感じ取ることができません。
色彩の爆発
Explosion of Colour
色彩が爆発しているような新しい種類の窓が作られるようになったのは13世紀のようです。色彩のまだら模様を持つ窓は、ますます大きくなり、ますます濃い色が用いられるようになりました。濃い色、特に青系統が流行した時期には、かなりの量の光が遮られてしまうこともありました。しかしその目的は、J.セドン(Seddon)とF.ステファンス(Stephens)が述べているように、大聖堂を暗くすることではなく(結果的にそうなってしまうこともたびたびでしたが)、光に神秘的な性質を与えることでした。
素晴らしい大聖堂を建設しようという気運が高まるにつれて、窓の作成費も高騰したに違いありません。何しろ赤や黄色などを作り出すために使われる2つの主原料は、金と銀だったのですから。言い伝えによれば、あるガラス職人が着ていたシャツの銀製のボタンが取れて、焼成前のガラスの中に落ちたのだそうです。焼成が終わり粗熱が取れたガラスを見ると、ボタンの落ちた部分がほんのりと明るい黄色に染まっていたのです。
12世紀の第1四半期、あるドイツの修道士がテオフィルス(Theophilus)というペンネームを使って、ステンドグラスの制作技法に関する著作を残しました。そこに書かれた基本的な製法は今もほとんど変わっていません。ガラスは、珪砂にソーダ灰(炭酸ナトリウム)と石灰(炭酸カルシウム)を混ぜたものを、土で出来た坩堝の中で熔解して作られました。中世後期には、ガラス製造に欠かせない材料であるケイ酸(珪砂)を容易に調達できる場所にガラス工場が作られていました。ケイ酸を溶かすには極めて高い温度が必要ですが、すべてのガラス工場がそれを実現できたわけではありませんでした。カリ(炭酸カリウム)、ソーダ(酸化ナトリウム)、鉛などの物質を加えることで溶解温度を下げることができます。また、石灰のような他の物質を添加することで、添加物で弱くなったシリコン原子と酸素原子のネットワークが補強され、安定したガラスを作ることができます。
ガラスの着色は金属酸化物を加えて行います。たとえば、赤色には金を、緑色には銅を加えるといった具合です。これを「ポット=メタル・ガラス」(pot-metal glass)と呼びます。中世に入ると、コバルトを添加することで青色のガラスが作られました。ソーダ石灰ガラスにコバルトを0.025%~0.1%添加すると、シャルトル大聖堂の特徴になっている鮮やかな青色が得られます。ちなみに、ステンドグラスの製造は各地で行われていましたが、シャルトルはその最大の中心地であり、他の追随を許さない高品質のガラスが製造されていました。ポット=メタル・ガラス、特に赤いガラスの多くは、暗すぎて、あまり多くの光を通しませんでした。そこで、色被せガラス(flashed glass)が作られました。これは、吹き管(注:溶融ガラスを集めて吹く金属製の管)の先に付けた透明な溶融ガラスを、赤色の溶融ガラスの入った坩堝に浸した後に、吹いて作られます。この方法によって、透明なガラス板の表面に赤色の薄い膜を作ることができます。その後、砥石で削って赤色の膜の一部を取り除くと、一片のガラスに赤と透明の2つの色の部分ができあがります。
当時、羊皮紙は極めて高価であり、紙は不足していたため、ステンドグラスの図案を作る際には、テーブルを白く塗り、そこに直に原寸大の下絵を描きました。下絵には、図柄の主な輪郭線、使用する個々のガラス片の形と色、ガラス片同士をつなぎ合わせるための鉛製の桟(came:ケイム)の位置などの指示が書かれます。鋼鉄製のガラス切り(grozing iron)を用いて色ガラスの小片が切り出され、下絵の上に置かれます。顔や手、衣服の襞といった下絵の細部がガラス越しに見えるので、それをなぞるように酸化鉄の顔料をガラスの表面に塗って絵付けします。すべての小片の絵付けが済んだら、それらを小さな竈の中でじっくり時間をかけて熱します。顔料がガラスの表面に溶け込んだら、再びテーブルに配置します。次にガラス職人が、断面がH型をした鉛製の桟の両側の溝にガラスを嵌め込み組み立てて行きます。鉛の桟が強度と柔軟性を兼ね備えた接合の役割を果たしてくれます。組み立てが終わったら、桟と桟の接合部にハンダ付けを施し、水を通さないようにするために油性セメントを接合部に塗り込みます。完成したステンドグラスは、建物の窓の開口部に据え付けられ、壁面の鉄格子によって固定されます。
窓は、それを取り付けるための空間にぴったりと収まり、風雨に耐えなければならず、また、特に大きな窓であれば自重を支えなければなりません。大きな窓の多くは、戦争や革命、そして長い歳月という試練に耐えながら、中世後期から、ほとんど無傷の状態に保たれています。西ヨーロッパにおいてステンドグラスは、現存する絵画芸術の大きな割合を占めています。
中東に目を向けると、シリアのガラス産業はイスラム帝国の時代も続き、ラッカ、アレッポ、ダマスカスが主要な製造拠点でした。最も重要な製品は着色ガラスではなく、透明度の高い無色のガラスと金メッキを被せたガラスでした。
西南アジアでは、古代からステンドグラス作りが行われていました。紀元前7世紀に古代アッシリアの都市ニネベ(Nineveh)の遺跡から発見された、この地域で作られる色ガラスの製造法を記した極めて古い記録が残っています。西暦8世紀の錬金術師ジャービル・ブン・ハイヤーン(Jabir ibn Hayyan)の著作だとされている『大いなる慈悲の書』(Kitab al-Durra al-Maknuna)には、古代バビロニアやエジプトの色ガラスの製造について述べられています。同書にはまた、色ガラスの製造の具体的方法や、高品質のステンドグラスから人工宝石を作り出す方法も記載されています。ステンドグラス製作の伝統は現在も生き続けており、イスラム世界の全域で、モスクや宮殿、公共施設などがステンドグラスで飾られています。イスラムのステンドグラスに描かれる図柄は、通常は絵ではなく完全な幾何学模様です。しかし、花をモチーフにしたデザインやアラビア文字をあしらったものもあります。
14世紀初頭には、ガラスの裏面に銀の化合物を塗って窯で焼成する「銀染色法」(silver stain)が発明され、この方法によって淡いレモン色から濃いオレンジ色まで、さらに多彩な色を1枚のガラスの上に出せるようになりました。16世紀中期からは、さまざまな色のエナメルが使われるようになりました。その結果、窓の絵付けも、画架を用いて描く絵と同じように、長方形をした透明な通常のガラス上に描かれるようになり、鉛の桟(ケイム)は、ステンドグラスに欠かせない絵の一部ではなくなりました。
酸化銅を用いると、条件を変えることで、ガラスにルビー色、青、緑などの色を加えることができます。コバルトは通常、青系の色を出す際に使われます。さまざまな緑色は、クロムと酸化鉄を加えることで得られます。金色にガラスを着色するためには、酸化ウラン、硫化カドミウム、チタンが使われることがあります。また、セレニウムによって明るい黄色や朱色が得られます。ルビー色のガラスは金を加えて作られます。
時代が下るにつれて、より安価な着色剤が発見され、色ガラス工芸に必要な費用も下がってきました。第二次世界大戦後には、大聖堂や小規模な教会を建築したり改築したりするときに、厚さ数センチもあるガラスを使用し、神秘的な雰囲気を残したまま、現代的で印象派の絵画のような装いを施すことも行われるようになりました。興味深いことに、ランス大聖堂の窓を修理したガラス職人は、中世の技術を再現するために、青色の出し方を学び直さなければならなかったということです。
現在では、つなぎ合わせるガラスの一つ一つを簡単かつ滑らかにカットできるようになりました。問題は、それらをつなぎ合わせる方法です。ステンドグラス教室の受講生は、どのようにして、つなぎ合わせているのでしょう。その答えはもちろん、より改良された方法です。何百年もの間、ガラス片同士をつなぎ合わせるためには、断面がH型をした鉛製の桟(ケイム)が使われてきました。この厚くてしなやかな金属が個々のガラス片の端を包み込み、他のガラス片と一緒に保持し、はんだで固定されて、全体で一つの大きな芸術作品になります。この鉛の桟は、芸術作品の図柄の輪郭を際立たせる役割も果たしています。大聖堂のステンドグラス窓では、各ガラス片が大きく、遠くから見られることを前提としているため、この伝統的な方法がうまく機能していました。しかし、ガラス工芸が人気を集め、細かい装飾が施された小さな作品が作られるようになると、重い鉛の桟は、まったくそぐわない方法になりました。
ティファニー・ガラス
Tiffany Glass
1878年、アメリカの芸術家ルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany, 1848-1902)が、ガラスの小片をつなぎ合わせる新しい方法を発明しました。ティファニーは、小さくてカラフルなランプをはじめとする、家庭向けのガラス工芸品を作りたいと思っていました。それを実現させるために彼が考案したのが、鉛の桟の代わりに薄い銅のテープを使う方法で、現在でも「ティファニー方式」と呼ばれています。これにより、小さくて軽く、しかも複雑な作品を作ることが可能になります。ティファニー社の美しい芸術作品は、19世紀末から数十年にわたって流行し、近年再び美術鑑定家の間で高い評価を得ています。
こうした新たな芸術作品は、リーガン(訳注)が「感情と内的なビジョンという心の深奥からの直観」と呼んだものへの賛美として、私たちの生活を豊かにしてくれています。私の考えではステンドグラスは、他のどの種類の芸術よりも感動的で神秘的です。なぜなら、ステンドグラスの魔法には光と影の戯れが含まれているからです。鮮やかな色彩を貫くさまざまな光が、私たちの意識に感動を与え、凝視する私たちを、存在の高いレベルへと誘ってくれます。
(訳注:リーガン(Otto B. Rigan):米国の現代のガラス工芸作家。)
参考文献一覧
“New Glass” Otto B・Rigan著 San Francisco Book Co.刊(1976年)
“Palace Doors” Otto B・Rigan著 Hidden House Publications刊(1982年)
“Stained Glass” George Seddon, Francis Stephens著 Crown Publishers,Inc.刊(1976年)(邦訳『Stained Glass』黒江光彦訳、朝倉書店刊、1980年)
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