投稿日: 2026/03/17

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り
フランシス・ベーコンの『新機関』(ノヴム・オルガヌム:Novum Organum)の口絵
フランシス・ベーコンの『新機関』(ノヴム・オルガヌム:Novum Organum)の口絵

 「白い山の戦い」(1620)が発端となって三十戦争が勃発し、ドイツにおけるバラ十字運動の開花に終止符が打たれた。しかしながらバラ十字会の著作物はすでにヨーロッパ中に行き渡っていて、数多くの哲学者たちがそれらのメッセージに気づいていた。その中でもルネ・デカルトは最もたびたび言及されていた人物であった。秘伝主義の歴史家たちの多くが、デカルトを全く完全な意味においてバラ十字会員であるとしようとしていた。この状況に最も責任があった人物の一人は、アヴランシュ(仏北西部)の司祭であったピエール・ダニエル・ユエ(Pierre-Daniel Huet,1630-1721)であった。1692年にG・ド・ラ(G. de l’A)のペンネームでNouveaux Mémoires pour servir à l’histoire du Cartésianisme(デカルト哲学史に役立つ新回想録)を出版した。これはデカルトに関する暴露を主張していた諷刺本であった。ここでは我々は、デカルトがバラ十字思想をフランスに持ち込んだのであり、バラ十字会の視察官の一人であったと知らされるのである。ユエはまた、この哲学者は500年間生きることを保証されていたため、1650年に没したのではないのであり、むしろバラ十字会を指導するために自分をラップランド人たちの中に隠遁させたのだと主張した。全くありそうもないことが書かれたこの本は、デカルトに関するバラ十字伝説のあるものを生じさせた。もっと近年になって、シャルル・アダム(Charles Adam)もまた『デカルト全集』の中で、哲学者デカルトはバラ十字会員であったと主張した。

ルネ・デカルト (René Descartes)

 三十戦争直前の時期に、ルネ・デカルト(René Descartes,1596-1650)はバラ十字会に関心を抱いていた。デカルトは1617年に軍隊に入隊し、その職業によってオランダとドイツに赴いた。デカルトはこの旅の間に、占星術や錬金術、カバラに興味を抱いた優れた数学者ヨハン・ファウルハーバー(Johan Faulhaber)と出会った。彼は1615年にバラ十字会員に捧げた本の最初のもののひとつだった『算数的神秘あるいはカバラと哲学の考察』の題名の本を出版したが、それは新しくて賞賛されるべき高尚なもので、それによると数が合理的に秩序だてて計算されるのであった。それはバラ十字の兄弟たちに誠意を持って謹んで献呈されていた。

 ルネ・デカルトはまた、オランダ人医師で哲学者で数学者であったイサク・ベークマン(Isaac Beeckman)とも親交があった。彼が後者に向けて1619年に書いた通信はデカルトが秘伝主義科学にも、とりわけコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパとレイモンド・ルーリーに興味を抱いていたことを明らかにしている。おそらくデカルトは、ファウルハーバーとベークマンを通してバラ十字宣言書を知ったのであろう。デカルトの伝記作家アドリアン・バイエ(Adrien Baillet)は、デカルトが『バラ十字の兄弟たち』の名で数年間ドイツに設立されていた賢者たちの友愛組織によって保持されている特別な知識・叡智を褒め称えていたと伝えている。『彼は<真実>を探求する手段について最も関心があった時にそのことについて聞いたので特に感動した。このバラ十字への競いの気持ちが自分の中に感じられた』のだった。彼らによって刺激されてデカルトは自分の探求をはじめることを決意したのであった。

 1619年の3月にデカルトはボヘミアへ向けて旅立ち、8月にその地に到着した。それからフランクフルトでスティリアのフェルディナンド王(Ferdinand of Styria)の戴冠式に参列した。ある歴史家たちは、デカルトはその機会に近くのハイデルベルグ城に旅したが、その訪問については彼の著書Traité de l’HommeとExperimentaに触れられており、宮殿の庭園にあるサロモン・ド・コーによる自動人形についての記述が見られるようである。この場所は広く知られていてあらゆる知識人たちが訪れていたので、おそらく我らが哲学者デカルトにとってもそうだったのであろう。さらにフランシス・イェーツ(Frances Yates)が指摘するように、ルネ・デカルトが晩年近くに抱いたハイデルベルグの宮廷への関心は、過去の栄華をデカルトが十分承知していたことに我々を思いおよばさせ、バラ十字思想のメッカのこの宮廷とデカルトとの関係はどのようなものだったのであろうかとの疑問が湧き起こってくる。

ルネ・デカルト
ルネ・デカルト

三つの夢 (The Three Dreams)

 この時期ルネ・デカルトは学問に没頭していた。昔からどの学者も誰一人として解くことができていなかった数学的問題三題のうちの二題に解答を見出した。すなわちそれは、立方体を二倍する問題と内角を三等分する問題である。1619年の3月デカルトは友人イサク・ベークマンに、『あらゆるタイプの問題を解くことを可能にする全く新しい科学・・・数学を超えた普遍的方法を確立しようと研究しているのだ』と発表した。彼は精神の歓喜に満ちた高揚を感じ、すばらしい知識の基本を見出したことに完全に満足して幸福であった。デカルトは探求している事柄について11月9日に黙想していた。ウルム市近郊にいたその夜の事、デカルトは人生を混乱させることになった夢を三つ見た。最初の夢は、不思議な大学に向かって激しい風に押し流されて、そこで一人の男からメロンをもらう夢であった。デカルトはそこで目覚めると、この夢は悪霊の仕業だと恐れおののいて一心に祈り始めた。再び寝たところ、たちまち第二、第三の夢を続けて体験した。それらの夢の中で辞書と、叡智と哲学がちりばめられている詩集とが提示された。これを調べて次の言葉を偶然発見した。『私がたどるべき人生の道とは何であろうか?』

 これらの三つの夢の解釈は多数のコメントをもたらした。多くの著述家たちが指摘してきているように、デカルトがこれらの三つの夢の中で体験した出来事は、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』の中のある挿話とよく似ていた。ルネ・デカルトは一つの急進的な体験をしていたことに気づいて、すぐさまそれを分析しようとした。彼はこれらの夢をたいへん重要だと判断したので、『Olympica』と題する本の中にひとまとめにして書き残しておいた。デカルトはこの夢の中での体験によって自分が正しい道におり、そして数学は、<創造>の神秘を理解するために必要不可欠の鍵であるとの確信を得た。カール・ユングの同僚マリー=ルイーズ・フォン・フランツ(Marie-Louise von Franz)によれば、デカルトの体験した啓示は、数によって伝達された原型の直観的理解に彼を導いたユングの集合無意識の打開であったと見ることができるのではないかと考えられた。デカルト自身もそれは『私の人生の中での最も重要な事柄』に関したものであり、自分が死に至るまでこの文献を手元に置くと言っていた。四年後の1623年にデカルトはパリ市に戻った。その時に彼の名前はバラ十字と関連付けられるようになったのであった。

パリ市内の貼り紙 (The Posters in Paris)

 同じ年、パリ市内の壁々に『目に見える、そして目に見えない』バラ十字会の存在を知らせる貼り紙が貼り出された。ガブリエル・ノデ(Gabriel Naudé)は著書Instruction à la France sur la Vérité de l’Histore des frères de la Roze-Croix(1623)の中に、以下のように述べられているこの貼り紙の内容を提示した。『目に見える、そして目に見えない形で現在パリ市に逗留している我らバラ十字大学本部の代理人たちは賢者たちの心が振り向く至高の存在の恩寵により、我々が滞在することを選んだすべての国々の言語の話し方で、書物や象徴の助けを借りずに話す方法を教え、死の過ちから我々の同胞たちを救い出すのである。』この貼り紙は直ぐ二枚目が続いており、以下の抜粋のように述べられていた。『・・・しかしこれらの驚くべき知識を理解するに至るために我々は読者に警告するものである。我々は彼の思考を見抜くことができるのであり、単なる好奇心から我々に会おうとするものは決して我々と連絡を取り合うことはできないが、もし我々の友愛組織に名を連ねたいとの熱意ある固い決意にかりたてられているのであれば、我々はそのような人物には我々の約束の真実を発現させる、それによって我々は決して滞在場所を明らかにはしない。と言うのは、読者の決意の意思に結合した単純な思考は我々を知るのに十分であり、彼は我々の前に明らかになるのだからである。』

 これらの貼り紙は相当な物議をかもし出した。ガブリエル・ノデは、『もし我々が国中に吹き荒れているこの突風の正確な出所を探求すれば、この友愛組織はドイツから国外へ迅速に広まったとの報告を見出すことになるであろう・・・。』と書いた。すぐさまバラ十字会員たちを攻撃する小雑誌が出回った。この友愛組織は世界中に36人の代理人を送り込んでいて、そのうちの6人がパリ市内にいるのだが、彼らと連絡を取るのは思考による以外の方法では不可能だと主張されていた。彼らは皮肉を込めて『見えざるものたち』と呼ばれていた。ガブリエル・ノデはEffroyables pactations faites entre le diable et les prétendus Invisibles(1623)(悪魔といわゆる『見えざるものたち』との間に交わされた恐るべき盟約)といったような刺激的な題名の著書によって、バラ十字会員たちへの攻撃を増加させた。しかしながら後年になってノデは、著書Apologie pour tous les grands personages qui ont été faussement soupconnés de magie(不当に魔法の疑いをかけられていた偉大な人物たちへの謝罪)が示すように、より友好的な態度へ転じた。

 これらの貼り紙の出現がデカルトの帰国と同時に起こったという事実は何人かのパリジャンたちの想像力をかきたてるのに十分であった。首都パリ市内では、ルネ・デカルトはこの友愛組織の一員になったのである-そしてこの不可解な貼り紙は彼の仕業でさえあるのだとささやかれていた。噂の芽を摘み取るために、この哲学者は友人たちを一堂に集め、彼は『見えざるもの』ではないし貼り紙とも何の関わりもないことを示した。彼はドイツで実際にバラ十字会員たちを探したが、バラ十字会員には一人も出会わなかったと述べた。デカルトは真実を語ったのだろうか、それとも自分自身を守ろうとしていたのだろうか?真実がどうだったのであろうと、たとえ彼がバラ十字会員に出会っていたとしても、(これは可能であったと思えるが)当時の状況からして彼は沈黙を守っていたに違いないのである。

 実際、この時代のフランスはバラ十字会員たちに対して全く友好的ではなかったのである。この点に関連してフランセス・イェーツは当時国中に蔓延していた「バラ十字の脅威」について話していたのであった。カトリック教会はプロテスタントの陰謀を密かに探り、バラ十字会を邪悪な組織だとみなしていた。貼り紙事件が起こった同じ年、ルネ・デカルトの友人にして哲学者で碩学の大修道院長マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne,1588-1648)は、バラ十字思想を猛烈に攻撃していた。彼はQuestiones celeberrimae in genesim…を出版してその中でルネッサンス期のヘルメス哲学とカバラに異議を唱え、それらを表象する様々なものに対しても同様に扱った。メルセンヌは特にイギリスのバラ十字会員ロバート・フラッドに対して欠点を指摘していた。実際、メルセンヌは自分が知らなかったことに対して恐れを感じていたし、彼の秘伝主義への理解には笑えるものがあった。彼は「目に見えざる魔法使いたち」がフランス中にはびこっていて邪悪な教えを広めていると想像していたのであった。

 メルセンヌの親しい友人の一人、哲学者で数学者のピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi)もまたロバート・フラッドに敵対した。この同じ時期に、フランソワ・ガラッセ(François Garasse)はLa Doctrine curieuse des beaux esprits de ce temps(1623)を出版し、その中で「バラ十字教派とその秘書官ミヒャエル・マイヤー」を糾弾した。また1625年には、パリ市の神学教授陣はハインリヒ・クンラートの『永遠の知恵の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae Aeternae)を公然と非難した。

パリ市内の壁々に『目に見える、そして目に見えない』バラ十字会の存在を知らせる貼り紙が貼り出された
パリ市内の壁々に『目に見える、そして目に見えない』バラ十字会の存在を知らせる貼り紙が貼り出された

国際人ポリュビオス (Polybius the Cosmopolitan)

 ソフィー・ジャマ(Sophie Jama)が没頭していた、デカルトの三つの夢についての研究の中で彼女は、デカルトの生涯の中のこの挿話に立ち返った。これを行っている時にまだ出版されることのなかったデカルトの初期の論文 Tresor mathematique de Po1ybe 1e cosmopo1ite(国際人ポリビュオスの数学的財宝)を考察した。ルネ・デカルトはすべての数学的障害を解決しようと試み、この仕事は「世界中の学問のある人々、とりわけG.(ドイツ)国内でよく知られているF.R.C.(バラ十字の兄弟たち)のため」であることを示した。バラ十字宣言書の呼びかけに応じて本を出版した17世紀の他の思索家たちと同様に、ルネ・デカルトは疑問の余地なく心の中に同じ目的を抱いていたのだと、ソフィー・ジャマは感じていたのだ。ボヘミアの白い山の戦い以後の劇的な数々の出来事と、フランス国内で反宗教改革運動に従事していたカトリック教徒に蔓延していた分派主義が、デカルトにこの計画を急がせることになったのはまず間違いない。デカルトの友人ヨハン・ファウルハーバーがバラ十字会に献呈した著書 Mysterium arithmeticum…の目的とデカルトの論文の目的はよく似ていることをここに付け加えておこう。

 デカルト自身は如何なるバラ十字会員にも出会ったことはないと否定しているが、デカルトがバラ十字の諸概念に固執していたことについてよく考えてみる必要がある。バラ十字宣言書の中の顕著な諸概念と、デカルトのOlympicaや他の著作を比較してみると、バラ十字の諸概念はデカルトにとって些細なものどころか、デカルトの哲学的思索をより豊かにしていることをソフィー・ジャマは著作の中で示している。ジャマはまた、デカルトがドイツでバラ十字会員には誰一人として出会っていなかったとしても、三つの夢などの予見的体験を通して<バラ十字>に出会っていたのではないかとまで示唆している。

オランダ (Holland)

 ルネ・デカルトはフランス国内を圧倒していた不穏な社会的動揺を不安に思っていた。そこで静穏の中で研究に没頭するため1628年にオランダのライデン市近郊に移った。ある確実な歴史的資料が、オランダ国内にバラ十字思想が急遠に広まったことを示している。前回の記事で述べたように、フリードリヒ5世が「白い山の戦い」(1620)の後に避難所を求めたのもまさにこの地であった。ファマ・フラテルニタティスは早くも1615年にオランダ語版 Fama Fraternitatis Oft Ontdeckinge van de Broederschap des loflijcken Ordens des Roosen-Cruyces(Gerdruckt na de Copye van Jan Berner, Francfort, Anno 1615)に翻訳された。この翻訳版には、アンドレアス・ホーヴァーヴェシェル・フォン・ホーヴァンフェルト(Andreas Hobervesche1 von Hobernfeld)がバラ十字会に入会を請うている一通の手紙が含まれていた。もともとプラハ出身のこの人物は、ハーグ市に亡命したフリードリヒ5世に随行してきたのだった。また、オランダにバラ十字会員が存在していたことは、アントワープ市の有名な画家ピーター・ポール・ルーベンス(Peter Paul Rubens)からニコラス・クロード・ファーブリ・ド・ペレシュス(Nicolas-C1aude Fabri de Peiresc)に宛てて書かれた手紙によってもわかっている。ルーベンスの1623年8月10日付の書簡には、バラ十字会員たちはアムステルダム市ですでに何年にもわたって活動していると書いてあった。しかしながらこの情報は、バラ十字会がハーグ市の一つの宮殿を所有していたというオルビウス(Orvius)の声明と同様に、オランダ国内でのバラ十字運動の真の発展を画くにはあまりにも不確かなものである。

 しかし確実に言い得るのは、1624年に治安判事裁判所関係者の間で交わされた手紙の中で、ハールレム市のバラ十字会の集まりが糾弾されたことである。ライデンの神学者たちは、ある組織が現れて教会の清廉さについて議論していると嘆いていた。神学者たちはその一団が政治的および宗教的な問題を引き起こすと感じたのであった。そして翌年の6月に政務官が調査を命じた。オランダ宮廷はライデン市の神学者たちにコンフェシオ・フラテルニタティスの分析に取り掛かるよう依頼した。この調査はJudicium Facultatis Theologicae in Academia Leydensi de secta Fraternitatis Roseae Crucis という報告書になり、これによりオランダの役人はバラ十字会員を狩り出すこととなった。

 そしてすぐに、鎌金術を行っていた画家のヨハネス・シモンズ・トーレンティウス(Johannes Symonsz Torrentius)がオランダのバラ十字会員たちの指導者であると明らかにされた。トーレンティウスは友人のクリスチャン・コッペンス(Christiaen Coppens)とともに1627年8月30日に逮捕された。法的措置が決定されるまでの5年間、この画家は苛酷な尋問を受け続けた。しかし苛酷な拷問にもかかわらず、彼はバラ十字会員であることを否定し続けた。それにもかかわらず火刑の判決がなされたが、その後すぐに20年の投獄に変更された。しかし彼にとって幸運なことに、ほんの2,3年投獄されただけだった。画家仲間の支援とイギリス王チャールズ1世の仲裁により、彼は1630年に釈放されてロンドンに居住することが許された。同じ年、ピーター・モルミウス(Peter Mormius)はライデン市で Arcana totius naturae secretissima, nec hacenus unquam detecta, a collegio Rosiano in lucem produntur (自然の秘密の全て)を出版した。この本はドーフィネ生まれのフランス人、フレデリック・ローズ(Frédéric Rose)によるバラ十字運動の発足について述べていた。この主題については今後また取り上げることにしよう。

錬金術の誘惑 (The Alchemical Temptation)

 カトリック教会はこの時代、本当に魔法使いたちの紛れもない迫害をしていた。1610年には、ある終りのない裁判の後、ジョルダーノ・ブルーノはローマで生きながらにして火あぶりにされた。すぐその後、ガリレオも迫害された。デカルトは1633年にガリレオの非難を知り、地動説に基づいて宇宙を論じた『世界論』(Le Monde)を破棄しようと考えた。彼は用心するに越したことはないと感じたのだ。また、1637年に完成した『方法序説』(Discours de la méthode)の中では、あえて錬金術師や占星術師や魔術師たちの教理を「悪い教理」であると非難した。1640年7月付けの友人メルセンヌ宛ての手紙でも、デカルトは錬金術と、その秘教的言語を批判した。また三要素~硫黄と塩と水銀~の原理に異議を唱えた。しかしながらデカルトの手紙は、彼が錬金術に興味をもっていたことと、錬金術の諸原理.をよく承知していたことを示している。何年にも渡って彼がこの錬金術の科学に興味を抱いていたのは明らかである。このことに関してジーン・フランソワーズ・メラー(Jean-François Mai1lard)は、驚くべき素晴らしい事実に光を当てた。メラーは、デカルトが1640年頃に友人のコルネリウス・フォン・ホーゲランド(Cornelis van Hoge1and)の実験室で錬金術に没頭していたと報告した。このことに関して彼は、ある誘惑が避けられたのではなく、論理によって抑えられて中止されたのだったことを物語っている。結果的には、『方法序説』の著者の傾注は数学や幾何学、気象学や医学あるいは光学などの他の科学によってさらに拍車がかかっていった。

 しかしルネ・デカルトは錬金術に興味を抱いていたにもかかわらず、その時代の秘教とは距離をおいていたことをここで強調せねばなるまい。デカルトは、類推や類似の理論、象徴主義によって思考することを拒否した。彼にとっては、明確で明瞭なアイデアかあるいは完全に分析できるような概念だけが「真の知識」へと導いてくれるものなのだった。それらは人間に生来備わっている数学的真理であり、人間に世界を理解させてくれるだろうと考えていた。デカルトは更に、もし我々が完全無欠と無限の概念を理解することができるとするならば、それは<創造主>が我々の中にそのしるしを入れたからであると考えた。

 その上デカルトは最終的原因を拒絶したのであった。なぜなら彼は、<創造>と事物の目的を理解する試みの全ても拒絶したからであった。デカルトは、もし彼が物理学を形而上学に基づいたものにしていたとしたら、それは彼は我々のソウルの中にもともとある数学的真理は、自然世界を物理世界を通して説明できるようにしてくれ、人類を『自然の主人で所有者」にしてくれると考えたからだった。デカルトは神秘的な本質の自然界を洗練して自然界は自動機械の模型(モデル)に従った明確化した幾何学的塊りの一連のものであると考え、確実な数学的真理によって知られていて計測することもできる塊りからなっていると考えていた。この機械論的な<天地創造>の概念は、<自然>を、存在する万物の鍵と見て、人間が通じ合うことのできる生ける現実であるとしたパラケルススが提示した概念とは全く異なっている。それでもなお、デカルトのこの取り組み方は人類を回りくどい蒙昧主義の時代から近代科学知識の時代へと導き、人々は危険な先入観や過度の迷信から開放されていったのであった。

 しかし、デカルトの考え方のいくつかの側面はバラ十字の考え方に近いものであることをここに言及しておこう。デカルトが不毛な思索を拒否し、『人生に大いに役立つ知識』を熱望したことは、ファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの根幹をなす要点を思い起こさせる。セルジュ・ユタン(Serge Hutin)はこう指摘している。『「秩序だてて疑うこと」、体験を強調すること、迷信と戦うことの必要性などについては、このような観点はバラ十字思想の一般的なものの見方に極めてよく合っている。』また多くの点で、とりわけ直観と推論がお互いに補い合う役割をしていることや松果腺の機能に関してはデカルトの思想は、近代バラ十字思想の理論に非常に近いこともここに記しておこう。ルネ・デカルトは文字通りの意味においてはバラ十字会員ではなかったが、それでもなお我々は、デカルトがその生涯の一時期にバラ十字会員に関心を抱いていたという範囲において、彼はバラ十字会員であったと考えたい。デカルトのこの関心は彼に哲学体系を完成させた成熟過程によるものだった。

 奇妙なことにルネ・デカルトは晩年、バラ十字会の擁護者であった、不運な王フリードリヒ5世の王女エリザベスのたいへん親しい友人であった。事実、エリザベス王女はデカルトの弟子の一人になったのだった。哲学者デカルトが彼女に献上した著作の中には、『哲学の原理』(Principia,1644)や『情念論』(Treatise on the Passions)があった。三十年戦争を終わらせるウェストファリア条約(1644)が締結された後、王女はボヘミアの領地を取り戻し、デカルトを近くに住むように招いた。しかし不運にもこの哲学者はクリスティーナ女王に招かれたスウェーデン宮廷で1650年の2月にその生涯を閉じ、この計画は実現しなかった。

 バラ十字会は、イングランド国内で並外れた発展を経験した。しかしそれでもヨーロッパが社会的に落ち着いていた時期に起こったヘルメス思想運動よりは比較的控えめであった。しかしながらジョン・ドゲット(John Doget,15C)は、ヘルメス錬金術大全が英国に与えた影響の大きさと、キリスト教カバラ研究家のフランチェスコ・ディ・ジョルジ(Francesco di Giorgio)がヘンリー8世の時代に大いに名声を博したことを明らかにした。実際ヘンリー8世は、アラゴンのキャサリン(Catherine of Aragon, ヘンリー8世の最初の妃)と離婚するための議論に役立つ宗教上の文献をジョルジに探させて、あてにしていた。一方キャサリン妃のほうは、コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパに助けを求めた。トマス・モア卿(Sir. Thomas More, 1478-1535)がピコ・デラ・ミランドラの著作に熱中したにもかかわらず、ルネッサンスのヘルメス思想が英国に影響を与えたのはエリザベス1世の統治時代だけであった。その主だった支持者は、外交官で文人でジョルダーノ・ブルーノの友人であるフィリップ・シドニー卿(Sir. Philip Sidney, 1554-1586)、航海者で文筆家でヱリザベス1世の寵臣ウォルター・ローレー卿(Sir. Walter Raleigh, 1552?-1618)、数学者のトマス・ハリオット(Thomas Harriot, 1560-1621)、そしてジョン・ディー(John Dee,1527-1608)たちであった。コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの著作に強く影響を受けていたディーは、エリザベス朝ルネッサンスの真の指導者であった。ディーが秘伝主義の蔵書を豊富に所有しており、女王は彼の書斎を好んで訪れていた。

 エリザベス1世の君臨期間に、今日のイギリス文学にも痕跡がみられるほどの秘伝哲学の論争が起こった。例えば、偉大な詩人エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser,1552?-1599)の『妖精の女王』や『四つの賛美歌』はルネッサンスの新プラトン主義とキリスト教カバラ思想に影響されていた。この運動には、クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe,1564-1593)などの反対の立場をとる者がいて、彼の戯曲『フォースタス博士の悲劇的歴史』(The Tragicall History of Dr.Faustus)はヘルメス思想を弾劾するものであった。この戯曲の主人公はアグリッパの弟子として悪魔的な魔術を行っている役であった。この劇は大成功を収め、また同じように成功した『マルタ島のユダヤ人』(The Jew of Ma1ta,1592)はユダヤ人批判を通じてキリスト教カバラ思想の欠点を指摘していた。ベン・ジョンソン(Ben Jonson, 1573-1637)も戯曲『錬金術師』(The Alchemist,1610)でヘルメス思想を攻撃した。一方ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare,1564-1616)は、マーロウの『マルタ島のユダヤ人』に応える形で『ヴェニスの商人』を書き反対の立場をとった。このシェークスピアの作品の中には、フランチェスコ・ジョルジの『世界の調和について』から影響を受けたと見られるものがある。また、『お気に召すまま』や『テンペスト(あらし)』(1611)を含むいくつかの他のシェークスピア作品もそうであったが、これらはコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの『秘伝哲学』(De Occulta Philosophia)から影響を受けていた。『テンペスト』はジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒ5世の結婚の祝祭期問中に上演された。バラ十字の歴史研究の大専門家フランセス・イェーツは、この劇は紛れもなくバラ十字宣言書であると考えていた。

フランシス・ベーコン (Francis Bacon)

 バラ十字運動の発端について語る時、イングランドの大法官で哲学者であったフランシス・ベーコン卿(Francis Bacon,1561-1626)の名が頻繁に出てくる。ベーコンとバラ十字との関連を調査考察している数多くの著述家たちの中でも、非常に多くのバラ十字思想の著書を書いたジョン・ヘイドン(John Heydon)が一番最初であったが、彼の仮説はしばしば行き過ぎていた。ヘイドンの著書『世界の驚異へと導く道の聖なる案内人』(The Holy Guide 1eading the Way to the Wonder of the Wor1d,1662)は、『バラ十字会員の島への航海』(The Voyage to the Land of Rosicrucians)という物語を含むが、この物語はベーコン卿のニュー・アトランティス(New Atlantis)の翻案である。それはファマ・フラテルニタティスからの様々な要素を組み込んでおり、ベーコンが言及していた「ソロモンの館」を「バラ十字会員の殿堂」にするのに何の躊躇もしていないのである。2世紀後、ジャン=マリー・ラゴー(Jean-Marie Ragon)は著書 Nouveau Grade de Rose-Croix(1860)の中でフランシス・ベーコンの様々な観念を「バラ十字会または北の教養人」の源泉にしていた。また、大きな流れとなる程の大勢の著述家たちが、ベーコンがシェークスピア劇を書いたのであることを示そうと最善を尽くしてきている。これらの中で調査を最も徹底的に行ったのは、おそらく『ベーコンとシェークスピアとバラ十字会員』(Bacon, Shakespeare, and the Rosicrucians,1888)を書いたウィグストン(W.F.C. Wigston)であったと思われる。ウィグストンの考えは、ヘンリー・ポット夫人(Mrs. Henry Pott)の『フランシス・ベーコンと彼の秘密結社』(Francis Bacon and his Secret Society, 1892)や、その他数多くの著述家たちによって繰り返し述べられていた。しかしながら、いくつかの興味深い所見を別にしても、後者の思索はしばしば大胆すぎていた。

フランシス・ベーコン
フランシス・ベーコン

神智学協会 (The Theosophists)

 神智学協会の会員たちは、とはいえそのような仮説にはたいへん好意的だったのであり、むしろ次から次へと豊かにして普及させた。このようにして、『師たち』(The Masters, 1912)の中ではアニー・ベサント(Annie Besant)が、フランシス・ベーコンはクリスチャン・ローゼンクロイツの生まれ変わりの一人であり、ハンガリーのラコーツィ王家が発生の起点であった、そしてサン・ジェルマン伯爵も属していた一つの入門形式の組織の系統の会員のうちの一人であったとの考えを提示した。ベサントの会員仲間の一人、マリア・ルーザック(Maria Russak)はすぐその後に、そのような考えを繰り返す連載記事を雑誌『ザ・チャネル』(The Channel)に載せた。同様の方針をもう一つの著作に見出すことができ、フリーメーソン会員で神智学会員とも親しかったレ・ドロワ・ユメー(Le Droit Humain, 正しい人間の意)によって出版された『バラ十字会員』(The Rosicrucians, 1913)の中では、クラーク(H. Clarke)とキャサリーン・ベッツ(Katherine Betts)がフランシス・ベーコンがバラ十字宣言書を書いたのだと主張していた。バラ十字運動におけるフランシス・ベーコンの役割についてのあらゆる説を普及させるのに最も貢献したのは、神智学協会員でベルギーの政治家フランツ・ヴィッテマン(Franz Wittemans)であった。彼の著書『バラ十字の歴史』(Histoire des Rose-Croix, 1919)は、興味深い諸要素と大変論争的な立場を混合したものを提示している。彼はここでウィグストンやポット夫人、スペックマン博士、E.ウドニー(E. Udny)や、某神智学協会員の説を繰り返していた。

 ポール・アーノルド(Pau1Amo1d)もフランセス・イェーツも、ウィグストンの提示した論争点をやわらげて、もっと現実的な見解を採用した。この数十年間に亘るバラ十字の歴史研究家たちの様々な発見によって、バラ十字会の起源はよりよく理解されるように真になってきており、フランシス・ベーコンがファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの著者であったという考えは時代遅れのものとなってきている。しかしながら、このことは我々が17世紀のバラ十字運動の中にこのイギリスの哲学者を位置付けることを妨げるものではない。ある意味で、ベーコンは〈バラ十字の理想〉を普及させることに最も成功したうちの一人であった。ある人々がベーコンを17世紀のバラ十字思想における最重要人物の一人であると見なしたのはこのためであったことは、疑う余地がない。

 更に、フランセス・イェーツは著書『バラ十字の啓蒙』(Rosicrucian Enlightenment)の中で、フランシス・ベーコンはあえて様々な点において17世紀のヘルメス思想から距離を置き、とりわけパラケルススの思想に反対の立場を取り、人間は小宇宙であるとする概念を拒絶したが、それでも依然としてバラ十字思想に強く影響され続けていたと述べている。バラ十字運動の真の支持者として、ベーコンは諸科学の改善計画~それはすぐにロイヤル・ソサエティー(英国王立協会、すなわち英国王立学術協会の創設へとつながる)を通じて新たな表現を与えたのだった。

『新機関』 (Novum Organum:ノヴム・オルガヌム)

 フランシス・ベーコンの諸計画の元は父ニコラス・ベーコンにあったことは疑うべくもない。ヘンリー8世がローマ・カトリック教会から離脱した後、父ベーコンは大学改革の仕事に任命された。息子フランシス・ベーコンはエリザベス女王に説得を試みた後、諸科学を改革する計画にジェームズ1世を巻き込もうと試みた。ベーコンは著書『学問の促進』(Advancement of Learning,1605)の始めの方に次のような説得力ある王への献辞を載せた。「もし、ある君主が科学の要約を熟考されたり、あるいはその単純な要点をお飲みこみになられたり、あるいは学問を愛されてご賛助されるお時間を得るようにされたならば、それは正に偉大なことになると思えるのですが、特に王としてお生まれになった陛下が、学問の真の泉から知識をお飲みになっておられ、そう、むしろ、陛下ご自身の中に学問の源を持っておられたとすると、それはまさしく奇跡に他なりませぬ。そして更には、陛下のお心の中には聖なる知識と世俗の知識の財宝すべてが結合していることから、陛下はヘルメスのように三重の栄光を纏っておられ、それらは君主の力と区別できない程の偉大さであり、僧の啓示にも哲学者の知識にも劣らないのであることと存じ申しあげております。」ベーコンが設定した計画は、学問の復活だった。べ一コンは学問がもはや暇つぶしの思索の対象ではなく、人類に繁栄と幸福をもたらすための真の道具となることを望んだ。その著書の中で彼は、人類全体に最大の恩恵が得られるようにお互いの知識を交換し合うため、あらゆる国から学問のある人々が集う友愛組織の創設を提案した。この概念はファマ・フラテルニタティスの目的を思い起こさせる。

蜂 (The Bee)

 フランシス・ベーコンは、諸科学を総合的に調査研究する公共団体の設立を望んでいた。そして合理的で秩序だてて機能している研究所の数々を見たいと願っていた。ベーコンの計画は、すぐその後に形成された数々のアカデミーの原型であったと言えよう。彼は古代からの演繹論理学を、新しい論理的思考法、つまり経験主義と帰納論理的なものに替えようと望んだ。学究者の態度を象徴的に表現するのに、彼は蟻と蜘蛛と蜂のイメージを使った。最初の蟻は蓄積し(経験主義哲学)、二番目の蜘蛛は網の中に封じ込め(合理主義哲学)、三番目の蜂はあちこちから花粉を集めてきて蜜を作る(二つの哲学の調和)のであった。『バラは蜂に蜜を与える』とロバート・フラッドも同様の象徴を使って述べていた。イギリスの錬金術師トマス・ヴォーン(Thomas Vaughan)もこのことを、ローマの詩人ウェルギリウス(Virgil)によると蜂たちには最高天から放射されている聖なる叡智のわずかな痕跡があると指摘していた(Anthroposophia theomagica,1650)。フランシス・ベーコンは、その根幹をなす著作『新機関』(ノヴム・オルガヌム:Novum Organum, 1620)ではアリストテレスの古代ギリシアの論理学を排除しようと望んでいた。彼の慎重さと気質に基づいて、著作の中には秘伝哲学的なものはほとんど許されていなかったことは疑うべくもないとここで述べておかなくてはならない。

 しかしながら、フランシス・ベーコンは彼の学問の改革を押し進めることはできなかった。1601年にベーコンの支援者エセックス伯が女王の不興をかって失脚するという最初の不首尾があったにもかかわらず、ベーコンは新王ジェームズ1世の信頼を得た。1617年に国璽官となった後、翌年にはイギリスで臣下として最高の地位である大法官にまで登りつめ、ヴェルラム男爵となった。彼の出世は1621年に中断されたが、それはセントオールバンズ子爵になってすぐに、醜聞の犠牲となり権力ある地位から完全に排除されてしまったからであった。彼が『ニュー・アトランティス』(New At1antis)を書いたのはこの時期である。ベーコンは諸研究団体についてのアイデアを推進させることは出来なかったが、その心を生涯に亘って占めていた主題を理想郷の物語の形で繰り返していた。

ニュー・アトランティスの口絵の詳細
ニュー・アトランティスの口絵の詳細

ニュー・アトランティス (New Atlantis)

 この本は、ペルーを発って中国と目本に向けて航海しようとした旅行者たちを物語っている。悪天候により彼らの船は沈んだ。食料が底をつき、死が近いことを覚悟し始めた時、ついに見知らぬ島を発見する。彼らが島に到着し下船しようとすると、何人かの役人がやってきて、彼らの投宿に関して必要条件が書いてある巻物を渡した。もし彼らがこの国に上陸したいのであれば「異人館」に逗留することに同意しなくてはならなかった。この書類には十字に智天使ケルビムの翼のついた封印がつけられていたが、これはファマ・フラテルニタティスの終りにある表現を思い起こさせた。『エホバよ、汝の翼の下に』である。この島国はベンサレムと呼ばれており、知恵と知識を結合させて成功している一風変わった人々が暮らしていた。学問はこの国の住民にとって目的であるとともに国の社会構造の基本原理をなすものであった。人々は知識の『大いなる復興』を成し遂げていたようであった。彼らは「アダムの陥落」以前の天国のような状態を再発見しており、それはフランシス・ベーコンと一連のバラ十字宣言書が予見していたものであった。旅行者たちは『異人館』に逗留した。まもなく一人の外交官がやってきて、この国は「ソロモンの館」あるいは「天地創造の六日間の聖職者団体」によって統治されていると説明した。このほのめかしは、コンフェシオ・フラテルニタティスの中にある、時代の終末がやって来る前にバラ十字会員たちが『第六番目のろうそく』を灯す祝福された時を思い起こさせる。「〈ソロモンの館〉は・・・、物事の諸原因と秘密の運動を知り、可能な限りの物事の全てを認識するために、人間の王国の境界線を拡大させるという目的をもっていた。」この僧侶・科学者集団は巨大な研究所をいくつも持ち、科学と同様に農業、畜産、医学、機械学、芸術(絵画・彫刻・建築)などの研究に従事していた。そして研究の成果の恩恵は、繁栄と平和のもとに統治されたこの科学の楽園の全ての住民にもたらされていた。

 『ニュー・アトランティス』の核心は、学問の豊かな科学の財産と島国ベンサレムでの暮らしの社会組織について述べていた。この比較的短めの文献は未完成のままであった。これは作者の死後一年すぎた1627年にベーコンの牧師であったウィリアム・ロ一リー(William Rawly)によってやっと出版された。この文献にもベーコンの他の著作にもバラ十字会員(Rosicrucian)という名前は出てこないが、様々な個所からバラ十字の影響を感じ取ることが出来る。この類似点については、多様な著作を通じてこのつながりを強調しつづけていたジョン・ヘイドンの指摘から免れることはできなかった。フランシス・ベーコンはファマ・フラテルニタティスが既に手稿の形で出回っていたことを知らなかったはずはない。ここで、ベーコンは1613年にバラ十字会の擁護者ジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒの結婚の祝祭に関係していたことを思い出さねばなるまい。実際、フランシス・ベーコンはこの時に余興として『神殿法学院とリンカン法学院の仮面劇』を着想していたが、これは結婚式の翌日に上演された。

ドイツ語版のファーマ・フラテルニタティス
ドイツ語版のファーマ・フラテルニタティス

英国王立学士院 (The Royal Society)

 フランシス・ベーコンの没後何年もたたないうちに、諸科学を改革する彼の計画は、英国王立学士院(The Royal Society)に具体的手段を見出した(1660)。1645年には、内戦の真最中に、この学士院の創立をもたらした諸会合が開催されていた。この会合の中心となった参加者の中には、「白い山の戦い」の大惨事から逃げたプファルツからの避難民たちが多く含まれていた。その中には、テオドール・ハーク(Theodore Haak)や、プファルツ選帝公付き牧師であったジョン・ウィルキンズ博士(Dr. John Wilkins)などがいた。ウィルキンズはバラ十字宣言書(manifestos)に述べられている概念を熟知していた。ウィルキンズは、ロバート・フラッドとジョン・ディーの著作に影響を受けて書いた本『数学的魔術』(Mathematical Magick, 1648)の中に、ファーマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスを引用していた。このようなことから、この同じグループのメンバーであったロバート・ボイル(Robert Boyle)が、これらの会合について議論した書簡の中で、バラ十字会員たちを言い表すのに当時よく使われていた『見えざる大学』(Invisible College)という表現を使っていたことは、全く驚くにはあたらない。また、英国王立学士院の創設メンバーで錬金術の熱心な愛好家であったロバート・モーレイ(Robert Moray)が、トマス・ヴォーン(Thomas Vaughan, 1621-1666)の後援者であったことは、興味深い。ヴァーンはユージェニウス・フィラレテス(Eugenius Philalethes)のペンネームで、1652年に『〈声明〉と〈信条告白〉』(The Fama and Confessio)という題名でファーマとコンフェシオの英訳を出版した。

 これらの思索家たちは、それまでの彼等の先輩たちからの哲学的そして宗教的遺産に終止符を打つことを望んでいたのであった。1660年にこのグループの諸会合から王立学士院が生まれた。フランセス・A・イェーツが指摘していたように、王立学士院の主たる目的は科学の発展であつたのだが、つまり普遍的改革あるいは博愛と教育を目的としていたのではなかったが、フランシス・ベーコン自身が触発されたバラ十字の理想の一部を採用した。トマス・スプラット(Thomas Sprat)は、その著書『英国王立学士院の歴史』(History of the Royal society, 1667)の中ではこのことを理解していたと思われる。この本の口絵には、イングランド国王チャールズ2世の胸像が、王立学士院初代会長ウィリアム・ブラウンカー(William Brouncker)とフランシス・ベーコンの間に描かれている。哲学者の上にある翼は、バラ十字の語句『エホバよ、あなたの翼の陰の下に』を思い起こさせる。この版画を製作したジョン・エヴェリン(John Evelyn)は、もともとボヘミア出身であった。)

トマス・スプラットの『英国王立学士院の歴史』の口絵
トマス・スプラットの『英国王立学士院の歴史』の口絵

コメニウス (Comenius)

 王立学士院の創設に関わった人々の中には、ボヘミアのバラ十字運動に直接関わっていた著名な人物が数多く含まれていた。中でも最も魅力的な人物の一人に、チェコスロヴァキアの哲学者で教育者で著述家であり、むしろコメニウスとしてよりよく知られていたヤン・アモス・コメンスキー(Jan Amos Komensky, 1592-1670)がいた。コメニウスは21歳の時、生まれ故郷のモラヴィア(Moravia, チェコ東部)を去りハイデルベルク(Heidelberg, ドイツ南西部)へと移り研究を続けた。彼は次にフリードリヒ5世とエリザベス妃の戴冠式に出席した。コメニウスは生涯を通じてこのハイデルベルクの王と王妃を支持し、「白い山の戦い」(1620)の悲劇の後でさえもフリードリヒ5世が再び王座に復活する希望を抱きつづけていた。「白い山」の悲劇の後でコメニウスの家は焼かれて彼は逃げ出さなければならなかった。そしてその後すぐに妻子を失ってしまった。ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエと友人であったコメニウスは、バラ十字宣言書に詳細に述べられていた改革計画に熱心になっていた。彼の著書『世界の迷宮と心の楽園』(”The Labyrinth of the World and the Paradise of the Heart”, 1623)は、チェコスロヴァキアの偉大な古典文学であり、ある人々によると世界的古典文学でもあるが、この作品は彼がバラ十字思想にかけ続けていた希望を思い起こさせている。この本の内容は、一人の理想家が三十年戦争の勃発によって全ての期待を打ち壊されてしまった話である。第12章は「その巡礼者はバラ十字会員の証人となっている」と題されており、コメニウスはこの中で、1621年のフリードリヒ王の治世の終りに続いた大惨事とそして彼の失脚によって、バラ十字運動によって着手された改革計画について隠された表現で述べたのであった。友人アンドレーエの「クリスティアナポリス」やトマゾ・カンパネッラの「太陽の都市」の理想郷とは対照的に、コメニウスは科学や雇用など万事がうまくいかなくて、そこでは人が平安と知識つまり『心の楽園』を見出せる所は全くどこにもない都市を描いたのだが、これも理解できるのである。コメニウスは、全ての剣が鋤に、あらゆる槍が刈り込み鎌に打ち直される時が来ることを夢みはじめたのであった。

コメニウス(ヤン・アモス・コメンスキー)
コメニウス(ヤン・アモス・コメンスキー)

汎知主義 (The Pansophy)

 この悲惨な時期によって、コメニウスは教育の重要性について深く考えさせられていた。バラ十字宣言書の中に描き出されていた普遍的改革計画の諸アイデアが多分、コメニウスが計画していた大宇宙と小宇宙の関係に基づく汎知(Pansophia)あるいは「普遍的知識」の体系を発生させるのに貢献したところが大きかったといえよう。その当時、コメニウスは彼の主要著書のうちの一冊、『万人に教えられた全ての事柄の普遍的芸術』(Didactica Opera Omnia or the Universal Art of Everything Taught to Everyone, 1627-1632)を書いていた。この文献は哲学的側面と神秘学的側面の部分と、そしてもう一つの教育学的手段とその道具について述べていた部分からなっていた。要するに、コメニウスは教育学を省察することだけに夢中になっていたのではなく、その成果にも関心を持っていたのだった。コメニウスは彼の理論を普遍的歴史の中に含め、そして彼は人間が〈アダムの陥落〉後に失ってしまった純粋さを取り戻すための解決策は教育にあると見ていた。それは人が永遠の生命.にむけて準備できる最良の手段であった。従って彼は全ての人間が、いかなる境遇であろうと、この教育を受けられることを望んだ。この著作の後にヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『勧告』(Exhortaion)という小論が続き、これはコメニウスによって提案された方法を全ての人々が採用するように奨励していた。

 何年もの放浪生活を余儀なくされた後、コメニウスはハイデルベルグ大学の学友であったサミュエル・ハートリッブ(Samuel Hatlib)から教育的改革と博愛主義団体の組織作りの彼の計画に参加するためにイングランドへ行くようにと誘われた。フランシス・ベーコンに心酔していた二人は、白分たちがベーコンの『ニュー・アトランティス』を建設する任務を帯びているのだと感じていた。コメニウスはイングランドで『光の道』(”The Way of Light”,1641)を書いたが、バラ十字宣言書のテーマがあまりにも明白に表されていたので、ある歴史家たちからは『コメニウスのファーマ』と呼ばれていた。コメニウスは1660年にアムステルダムで出版された版の序文には、英国王立学士院の会員たちは〈イルミナティ〉であるとまで述べていた。

光の大学 (The College of Light)

 1645年に開始して、コメニウスは彼の仕事の最高峰ともいえる『人類の諸問題改革についての普遍的協議』(The Universal Consultation on the Reform of Human Affairs)の起草に着手した。この著作の中心的概念となっているのはすなわち、繁栄と平和の時代を築くためには適切な改革が必要であるということで、これはバラ十字宣言書の基本的概念を思い起こさせる。この著作は七部に分けられることになっていたが(そのうちの二部が完成されたのみであった)、この数字の象徴的重要性はこの論文の範囲を超えている。この七つの部それぞれには接頭辞pan(Panegersia, Panaugia, Pansophia, Panpedia, Panglossia, Panorthosia, Pannuthesia)が付けられており、普遍性を強調していた。これらは人類に〈天地創造〉における自身の地位を省察させ、〈普遍的光〉を沈思黙考させ、〈普遍的叡智〉に接するようにさせ、〈普遍的言語〉を採用させ、全ての人々に教育を奨励するなどの独特の科学体系であった。彼はまた、新しい世界の組織として、それぞれの国々が三つの組織~〈光の大学〉と〈聖なる評議会〉と〈国際的平和裁判所〉~に直接指導されることを提案した。これら三つの組織は、何世紀も後に成立した国連やユネスコといった大きな国際的組織団体の原型となったといえる。ヤン・コメニウスはほとんどの仕事をなんとか完成させていたが、その完遂に至る前に没した。

 バラ十字運動はコメニウスを通じて、教育を理解するための新しい方法を確立するのに貢献した。ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)は、コメニウスのことを『教育学におけるガリレオ』と評した。コメニウスに深く敬服していた教育学者ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)は、コメニウスを教育学、心理学、教訓学、そして学校と社会との関係学における先駆者だと考えていた。コメニウスは、その人道主義によって世界的に賞賛され尊敬されている。1956年の12月、ユネスコはコメニウスに公式に敬意を表明した。その時の総会では、コメニウスはユネスコ創設の時にこの組織のきっかけとなるアイデアを提議した先駆的な人物の一人であると紹介された。

啓発 (The Enlightenment)

 お気づきのように、バラ十字宣言書には当時の哲学者たちが関わっていくようになり、ヨーロッパ文化の発展に一役買っていたのだった。この時代の後で、秘伝哲学と哲学と科学(学問)は道を分かち、一方では啓発思潮(Enlightenment)が、もう一方では啓蒙運動(Illuminism)が起こった。これらの接点において、後に西洋秘伝哲学派として長らく特徴付けられることになるいくつかの大きな流派が起こってきた。これ以前には秘伝哲学の支持者たちは、真に組織化された社会的運動ではなく緩やかな集まりを形成していたにすぎなかった。しかし今や、バラ十字会やフリーメーソンなどの入門儀式形式の組織が出現し、入門儀式を受けることができる数多くのロッジが組織された。この主題については、次の記事で考察してみよう。

次の記事へ:バラ十字思想とフリーメーソン|バラ十字会の歴史と神秘(第11章)

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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