カタリ派とは
カタリ派とは、12~13世紀にヨーロッパで栄えたキリスト教の一派です。以下の記事で説明されているように、グノーシス主義(Gnoticism)から強い影響を受け、善悪二元論と禁欲主義を特徴としていました。
主流派のキリスト教会から異端であるとされ、十字軍による討伐と改宗運動により15世紀に完全に消滅しました。「カタリ」という言葉はギリシャ語の「Katharos」(清浄)に由来するとされています。
アルビジョア十字軍とは
アルビジョア十字軍とは、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけで組織され、1209年から1229年に派遣されたキリスト教アルビショア派を討伐するための十字軍です。アルビショア派とは南フランスのアルビ地方、特にその中心都市であるトゥールーズで活動していたカタリ派の一派です。
アルビジョア十字軍によって、何百人ものカタリ派の人々が火刑に処せられたことは、人類の歴史に残る大きな汚点になりました。
以下は、バラ十字会の日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事「カタリ派の人々」を、インターネット上に再掲載したものです。
記事『カタリ派の人々』(The Cathars)
エイルサ・デ・モット
By Ailsa de Motte
◆ モンセギュールの大虐殺(Massacre at Montsegur)
フランス南部のラングドック地方にあるモンセギュール(Montsegur)村の山頂の“聖なる”城塞は、1244年に225人のキリスト教の異端者が死刑に処せられた場所です。それは、一万人の兵士による10ヵ月間の包囲戦の末のことでした。
処刑されたのは、カタリ派の「完徳者」(訳注)と呼ばれる人たちであり、キリスト教会の教義に反する異端の説を唱えたことが罪状でした。異端者の火刑は、要塞のふもとの今ではのどかに感じられる草地で行われました。この場所は現在では、「火刑の原野」(Field of the Burned)と呼ばれています。
火刑に用いられた薪の山から発した炎は、ラングドックの田園にその光を投じただけでなく、今日でも私たちの意識の中で燃え続けています。それ以来、「防護の山」を意味するモンセギュールは、歴史遺産として重要な場所になりました。カタリ派に対して行われた十字軍の戦いは、最悪の不寛容さと狂信の表れであり、同胞である人間への、あまりにも不当な行為の一例でした。
訳注:完徳者(Perfecti):ラテン語で、「完全さを持つ人」もしくは「選ばれた人」を意味する。カタリ派の高位の聖職者に与えられた称号。
1930年代にオットー・ラーン(Otto Rahn)が率いるナチスの考古学探検隊がこの地で発掘を行ったことで、この要塞が注目を集めるようになりました。探検隊は聖杯や他の秘宝を探したと言われています。しかし彼らが探していたものが何であれ、それを見つけることはできませんでした。しかし、モンセギュールの遺跡の真下にある洞窟の壁には聖杯の彫刻が残されていました。
包囲戦が行われたことと、大虐殺という結末が生じたことから、この事件には多くの人が注目しています。カタリ派の思想と活動の全体、カタリ派の信者と信仰を根絶やしにすることが計画的に実行された原因となった当時の状況に、深い関心が寄せられています。フランス南部、特にラングドック地方では、中世の終わりごろ、この地を支配する君主や領主が、領民の思想と行動に対して際立った寛容の精神を示していました。
ちょうどこの時期に、キリスト教会はヨーロッパ全土に対して統一教義を制定しました。しかしこの時期はまた、村の貧しい司祭から司教、ひいては大司教や枢機卿にいたるまで、キリスト教の多くの聖職者に、堕落と不道徳が蔓延していました。
「ボンサム」(bonshommes)、すなわち「善良な人たち」として知られていた“キリスト教”のカタリ派の人々は、教会のこの風潮に反発を感じていました。やがて、この地域で起きたいくつかのできごとが、異端とされた思想が広まる原因になりました。ラングドック地方は、遠く離れたフランス北部よりもスペイン北東部のアラゴン地方と密接な関係にあり、フランス北部よりもはるかに開放的で、自由で、洗練された地域社会でした。実際のところ、ヨーロッパで最も文化的な土地でした。
「スペインや中東のイスラム教スーフィー派の共同体、そして周辺都市に住むユダヤ教のカバラの研究者と緊密なつながりがあったという証拠がある。聖杯伝説、騎士道的恋愛、トルバドール(吟遊詩人)、グノーシス主義のカタリ派はすべて、寛容なトゥールーズ伯や他の領主たちの治世下で花開いた」と、ある歴史家は語っています。
1198年、この“異端という癌”に悩まされたローマ教皇インノケンティウス3世は、クレルヴォーのベルナルドゥスやグスマンのドミニコなどの多くのローマ教皇特使を送り、この地の人々の改宗を試みますが失敗に終わり、その後、カタリ派に対する厳格な措置を求めました。
そして、ドミニコ(後の聖ドミニコ)が新しい修道会(ドミニコ会)の長に就任したときに、カタリ派を根絶やしにするという明確な目的のために異端審問所が設立され、必要ならば最も強硬な措置を取ることを許可する教皇命令が出されました。数百人が火刑に処せられ、最終的には13世紀から14世紀の初めにかけて異端者たちのこの集団は崩壊しました。カタリ派の信奉者は地下に潜り、自分たちの信仰を包み隠しました。
◆ カタリ派の思想(Cathar Beliefs)
カタリ派の思想にはグノーシス主義(訳注)の影響が認められ、マニ教(訳注)にも極めて近いように思われます。カタリ派の思想は二元論です。つまり、この世界には2つの原理があり、一方は善で、もう一方は悪だとされます。物質世界が悪にあたり、非物質的な世界は完全であると考えられました。マルコム・バーバー博士(Dr. Malcolm Barber)はその著書『カタリ派』(Cathars)の中で、カタリ派の次のような見解について報告しています。
この世界の創造者は「天界の完全性を離れて堕落した存在である。彼は、天界で天使の魂の一部を誘惑して物質世界に閉じ込めた。彼はまた、霊である善なる神からは完全に独立して、永遠にそれと共存する存在であった」。カタリ派の人々は、物質世界を創った悪の創造主をデミウルゴス(Demiurge)、または「レックス・ムンディ」(訳注)と呼びました。
旧約聖書の神は、この物質世界を創造したのであるから悪魔であると、カタリ派の人々は考えていました。そのため、カタリ派では旧約聖書を完全に無視していました。カタリ派の人々は、自分たちが“真のキリスト教徒”であると主張し、使徒や初期のキリスト教徒のような生活を行ない、新約聖書を究極の真理だと考えていました。
訳注:グノーシス主義(gnossticism):古代ギリシャの後期に起こった宗教運動。啓示体験から直観的に得られる英知(グノーシス)を重視する。
参考記事:『グノーシス主義とは? グノーシス派、プレーローマとソフィアの神話を簡単に解説』
マニ教(Manichaeism):ペルシア人マニが3世紀ごろ唱えた二元論(本文参照)の宗教。
レックス・ムンディ(Rex Mundi):ラテン語で「世界の王」を意味する。
対立する2体の神がいる二元的なこの世界において、人間とはどのようなものであるかということについてのカタリ派の考え方は、次のようにまとめることができます。
1.人間とは、本質的に悪である世界に住む異邦人である。人間の最大の目標は、善の性質を持つ自身の魂を解放して、善なる神とともにあるという魂の地位を取り戻すことである。
2.物質世界から逃れ出て、非物質的な天界の住人になるまで、ソウル(魂)は生まれ変わり続ける。ソウルは、多くの人生にわたって多数の肉体に継続的に生まれ変わり、その後に最終的な解放に至る。
3.人間が物質でできた肉体という衣服に捕らえられているという考えからは、必然的に、下記のような多くの結論がもたらされた。
・受胎では別のソウルが肉体に捕らえられてしまうため、生殖のための性交は悪である。このため、夫婦間の通常の性的関係も、それ以外の生殖のための性交と同様に悪であるとされた。そのため結婚は無用であり(そのため婚礼の儀式が存在しない)、一方で避妊は認められていた。同様に、生殖につながらない性交も非難されなかった。
・悪(すなわち物質的なもの)との関わりが少なくなるほど、善良な人となる。畜産物を食べることは忌み嫌われていた。魚は認められていた。魚は性交を行わずに繁殖することができるので、別のソウルを捕らえることがないと考えられたからである。
・肉体はソウルを収容する単なる物質の外皮であるため、自殺は罪と考えられていなかった。カタリ派の中には、エンドゥラ(耐忍)と呼ばれる40日間の断食をして死亡する人もいた。しかし完徳者(カタリ派の聖職者たち)は、このような人生の終わり方を推奨していなかった。完徳者の治療師としての活動、すなわち肉体の命を長引かせるという行ないと矛盾するためである。
・男性が女性より優れていると考える根拠はないとされた。ソウルという本質的な部分は男性でも女性でも同一だからである。男女で異なるのは肉体だけであり、肉体の種類は優劣とは無関係であった。そのため、女性も男性と同等の権利と自由を享受していた。ラングドックの女性の中には、完徳者という高位の聖職者の称号を得た人もいた。このような人の中で最も有名なのは、エスクラルモンド・ド・フォワ(Esclarmonde de Foix)である。
・物質的なもの(宝石、金銭、聖遺物、聖体、十字架の複製物、教会の建物など)は悪なる神の作り出したものであるため、価値がないと考えられた。肉体が、非物質的で清らかである天界で復活することはない。罪で汚れた世界である悪なる神の創った物質世界に、善なる神が自分の領界から誰か(たとえばイエス)を派遣することはない。
イエスは人間のように見えるが実際には非物質的な存在であり、一種の幻か投影像のようなものであったと考えられていました。それゆえに、拷問具である十字架の上でイエスは死ななかったとされていました。
この世界から脱出する方法は、禁欲的な生活を送って、この世界によって堕落させられないようにすることでした。それが完徳者としての道でした。グノーシス派と同じように、完徳者は、自派の中枢にいる選ばれた者だけに神聖な知識が与えられると考えていました。完徳者は「純粋な存在」(Pure One)であり、偶像、偽り、宣誓、世界への執着を拒絶し、清貧と非暴力を実践していました。
完徳者には、〈慰めの儀式〉(Consolamentum Rite)を執り行うことによって、個人の罪や物質世界とのつながりを拭い去る能力があるとされていました。死期の近づいた人は誰でも、この儀式を受けることができました。死を目前にした人には、スピリチュアリティ(精神の崇高さ)を失う可能性がほとんどないためです。
◆ 異端の根拠となったカタリ派の教義(Cathar Doctrines as Grounds for Heresy)
カタリ派は、ローマ教会の基本的な教義や儀式のいくつかに激しく反対しました。特に、聖体(訳注)の式典を否定しました。その理由は、キリストが実際に肉体を持って地上で生活し、磔にされたことをこの式典が意味しているからです。聖体という考え方にカタリ派の人々は激しい嫌悪を抱きました。天に住まう神が、人間の肉体に宿るために地上に下降すると考えることができなかったからです。
“奇跡”だと主張されたこの秘跡(訳注)が、人が善良であることの必要性を奪ってしまうとカタリ派の人々は考えていました。幼児洗礼、結婚、信仰告白などの教会の他の秘跡も、価値がないものだと見なされていました。中でも、カタリ派が最も強く反発していたのは、聖職者の多くが、他の人々に悪い手本を示していたことです。
キリスト教会に属する聖職者は、不節制でぜいたくな暮らしを行い、虚飾と華美な装飾の中で生活をしていると、カタリ派の人たちは考えていました。さらに、教皇のことは神の敵である反キリストであると見なしていました。最後の審判の教義も否定していました。
カタリ派の考えでは、天使のように清らかであるソウルが、最後のひとつまでこの世から解放されたときにだけ、物質世界が終末を迎えるとされていたからです。カタリ派の人々は万人救済論者であり、すべての人間が最終的には救済されると考えていました。
訳注:聖体(Eucharist):キリストの真の体と血のこと。カトリック教会の聖餐式(ミサ)では、聖なる言葉とともにパンと葡萄酒が聖体に変わるとされる。
秘跡(Sacrament):キリストによって定められた神の恩恵を受ける手段。聖体拝領はそのひとつにあたる。
最後の審判(Last Judgement):ゾロアスタ教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義では、世界の終末に神が直接人間の歴史に介入して、すべての死者が復活し、生前の行いを判定され、天国と地獄のどちらに行くかが定められるとされている。
◆ カタリ派の儀式(Cathar Rites)
カタリ派の儀式には、神秘学派のような特徴があったことを示す証拠がいくつかあります。カタリ派における精神的な進歩は、段階別に規定されていました。最初の段階は、カタリ派に入門して初心者になることでした。入門儀式の目的は、信者の心の準備を整えることと、信者を集団の中に受け入れることでした。
入門した人は、カタリ派の信条に沿った生き方をすることに全力を尽くしました。上級の段階に進むことを望む人も、熱心な信者であることだけに満足する人もいました。クレデンテス(Credentes)と呼ばれた一般信徒の場合は、結婚して子供を生むことも、完徳者のために定められた苦行を行わずに生活することも許されていました。
完徳者となる場合は、〈慰めの儀式〉(Consolamentum Rite)に参加しました。この儀式は、自らを犠牲として神に捧げるための心の準備であり、また、自分の新しい地位を受け入れるにあたり対峙しなくてはならない試練を超えるために、自らに力を与えるための儀式でした。
〈慰めの儀式〉は極めて神聖な儀式でした。価値ある生き方をしていることを示し、完徳者として認められるための長い見習いの期間を経て、初めてこの儀式が授けられました。両手をその人の上に置くという、厳粛ではあるが簡単なこの儀式によって、聖霊が天から降りてきて、完全であることを求める志願者に入ると彼らは考えていました。
そしてこの時点から志願者は、完徳者という称号で呼ばれるようになります。このような存在として完徳者は、一般信徒から深く尊敬されていました。一般信徒は完徳者の前で3回ひれ伏して、崇敬の念を示すことが習慣になっていました。規律を厳格に守るか、比較的寛容さを許容されるかという点で、カタリ派には、完徳者と一般信徒という2つの地位がありましたが、さらに、一般信徒のための外的な集会と、完徳者しか参加できない内陣の集会があった可能性があります。
カタリ派ではマニソラ(Manisola)と呼ばれる儀式も行われていました。これは、太陽の位置に関連している神聖な食事の儀式でした。モンセギュールの要塞はこの点を考慮して建造されたと考えられています。マニソラという言葉は、マニ教との関連を示しているように思われます。マニ(Mani)はマネス(訳注)と関連があり、ソラ(Sola)は太陽、さらには真理の光を意味しています。
聖杯とは、カタリ派の人々がモンセギュールで入門儀式の際に用いた神聖な道具であったのではないかと推測する人がいます。フランス南部には、聖杯伝説に関する言い伝えや文献が多数存在しているからです。しかし、この推測に反対する次のような意見もあります。カタリ派はキリストの遺物の収集に反対していたのであるから、聖杯(おそらくマグダラのマリアによってフランスに持ち込まれたと思われる杯)には関心を示さなかったであろうという意見です。
訳注:マネス(Manes):古代ローマの信仰で死者の霊魂のこと。
いわゆる「カタリ派の秘宝」とは、おそらく、モンセギュールのふもとで死刑に処される前の最後の夜に完徳者たちが保管したものであり、カタリ派の聖典や古代の巻物だったのかもしれません。しかしそれは誰にも分かりません。ラングドック地方には隠し場所として用いることができる多くの洞窟が存在します。
◆ カタリ派の弾圧とアルビジョア十字軍
カタリ派をキリスト教の正統派に改宗させる、中世の教会による試みが失敗した後に、ラングドック地方でのカタリ派の弾圧は徐々にひどくなり、モンセギュールにおける教会側の最終的な勝利で最高点に達しました。
皮肉なことに、教会も異端派の抵抗勢力も、その世界観において基本的に善悪二元論でした。しかし、自分たちのやり方こそが善良な人生であると主張するために、どちらの側も、相手と自分の間に明確な線を引かなければならず、他方を憎悪するようになりました。カタリ派は世界を救済するということを望んでいましたが、その希望が、唯一の“正当”な教会を改革するという形で表わされることはなく、キリストの精神を、グノーシス思想で表現する権利を主張するという形を取りました。
他方、カトリック教会は、教会の基礎が脅かされているのを理解することができず、そのような考えは、頑固な異端思想によるものだと考えました。カタリ派を服従させることに失敗したことから生じた異端審問と、カタリ派制圧のためにその後に組織されたアルビジョア十字軍によって、何千人もの命が失われ、何百人ものカタリ派の人々が火刑に処せられました。
双方が宗教的な対立にはまり込んだこの時代には、不寛容から生じた大虐殺という、人類の歴史に残る大きな汚点が残されました。このような対立は過去に何回も起こっているのですが、歴史という経験から、私たち人類は教訓を学んできたでしょうか。もし学んでいないとすれば、人類は過去の過ちをまた繰り返さなければならないのでしょうか。
人類の社会的、精神的進歩において、“善良なる者”たちが消滅するというできごとを、カタリ派の事例で私たちは目の当たりにしました。カタリ派の人々の愛と善良さ、他者に対する慈愛は、間違いなく、私たちに次のことを思い起こさせてくれます。物質主義の世界であっても、たびたび出現する邪悪な時代であっても、真理と、万物の源泉と、宇宙のソウル(魂)を心から追求する人たちの心は、ある神秘的直観(グノーシス)に達することができ、この直観には何らかの形で世界を変える力があります。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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