バラ十字会世界総本部秘書役、英語圏本部(北中南米担当)代表ジュリー・スコット
エジプト神話の女神イシスには、様々な姿をした像や絵画がありますが、そのひとつが、バラ十字会の歴史にも登場します。それは1909年8月に、トゥールーズのバラ十字団から、H.スペンサー・ルイス博士とバラ十字会AMORCに伝統が継承されたときのことです。この記事では、英語圏本部代表のジュリー・スコットが、中世以降、バラ十字会の現在の活動がスタートするまでの、「黄金のイシス」にまつわる興味深い逸話の足跡を辿ります。
アンリ・マルタン作『トルバドゥールの前に現れたクレマンス・イゾール』(一部拡大)。トゥールーズ市役所の許可を得て転載。
1909年のことですが、若きH.スペンサー・ルイス博士は、一幅の絵の前にたたずみ、そこに込められている象徴的な意味をじっと考えていました。その絵とは、『トルバドゥール(訳注)の前に現れたクレマンス・イゾール(黄金のイシス)』です。その絵の前にトゥールーズのバラ十字団代表が現れ、H.スペンサー・ルイス博士がバラ十字団の伝統的組織へと入門するための次の一歩を導いたのです。この出来事は後に、バラ十字会AMORCの創設につながることになります。
訳注:トルバドゥール(Troubadours):中世のオクシタニア(後述)で活躍していた吟遊詩人。
長い歴史を持つバラ十字団を、アメリカの地で「バラ十字会AMORC」として再興することになるこのアメリカ人の神秘家に、トゥールーズのバラ十字団の代表が会うことを選んだのが、この場所、つまりトゥールーズ市庁舎内の「著名人の広間」にあるこの絵の前だったのはなぜなのでしょうか。この疑問にお答えするためには、中世の神秘学の伝統にまで遡らなければなりません。この伝統は当会に受け継がれることになったのですが、この絵の中に、とても美しく象徴的に表されています。
クレマンス・イゾールとは何者か
Who Was Clemence Isaure?
クレマンスという名前には、寛容や慈悲といった意味があり、イゾールとは、「黄金のイシス」あるいは「金色のイシス」を意味しています。クレマンス・イゾールが実在の女性であったことを示す資料が何点か残っており、それによれば彼女は、15世紀の後半から16世紀前半にかけて、フランス南部のオック語圏に暮らし、その類まれなる美貌と才能で人々に強い印象を与えたとのことです。その一方で、クレマンス・イゾールとは、過去の時代の古き女性像を伝えるために作り出された架空の人物であったと述べている資料もあります。
クレマンス・イゾール像(アントニー・オーギュスタン・プレオール作(1846年)。パリのルクサンブール公園に立つ、有名な女性たちをモデルにした一連の彫像のうちのひとつ。(撮影:マリー-ラン・グエン 2008年 出典:ウィキメディア・コモンズ)
ある伝説によれば、クレマンス・イゾールは、美しい歌によって彼女を賛美した一人のトルバドゥール(吟遊詩人)と恋に落ちます。彼女も彼を深く敬慕していたのですが、恋人は死んでしまいます。彼女は、生涯純潔を守り、沈黙して生きることを誓いました。しかし、その誓いを立てる前に、1323年に設立された詩人たちの団体「悦ばしき知識団」(Gai Savoir)がかつて行っていた詩歌コンテストを復活させたいと願い、「花合戦団」(Compagnie des Jeux Floraux)という新たな詩人サークルを作るために、トゥールーズ市に財産を寄贈し基金を作ったのでした。
クレマンス・イゾールは、詩歌によって人々の心に駆り立てられる、気高い行いと美と知恵の象徴となりました。しかし、何にも増して彼女という象徴が表していたものは、古代の神秘、とりわけ女性原理と、その中でも女神イシスに関する神秘の数々でした。
謎に満ちたオック語圏
The Mysterious Territory of Oc
中世において、現在の南フランスとモナコ公国とスペインの一部を含む一帯は、オクシタニア(Occitania)と呼ばれていました。それはオック語の文化圏を意味しています。現在では、ラングドック地方(訳注)もしくはオクシタニ(Occitanie)と呼ばれています。
訳注:ラングドック地方(Languedoc):「ラング・ド・オック」(Langue de Oc)、つまりオック語を意味する言葉が短く詰まって作られた語。
この地方の文化は活気にあふれていて、男女同権が認められていました。そして、あらゆる信念や信仰を持つ人たち同士の相互理解と対話を深めることが奨励されていました。さらに、市民には申し分のない教育が施されており、とても平和で満ち足りた暮らしを営んでいました。
この地域には神秘学の古い伝統があり、それに大いに助けられて、12世紀の始めにカバラの文献の翻訳が行われ、カバラに関する極めて古い書物がいくつか作られました。また、11世紀初頭には、ラングドック地方と、他のヨーロッパのいくつかの地域に、カタリ派という神秘哲学を信奉するキリスト教の一派が暮らしていました。カタリ派の信仰の起源が、古代ヨーロッパの伝統思想とマニ教(ペルシャのグノーシス派)にあることはほぼ確実です。
『恋人に愛をささやくトルバドゥール』。トゥールーズ市庁舎にある「著名人の広間」には、恋人に歌いかけるトルバドゥールの絵が3点飾られている。ひとつの絵には若者、ひとつには中年(この絵)、そしてもうひとつの絵には、初老のトルバドゥールが描かれている。一方、女性は、変わることのない伝統知識を表しており、3枚とも永遠の若さを持つ女性が描かれている。(バラ十字会AMORC所蔵の写真)
当時は別国であった北フランスの歴代の王や、ローマ・カトリック教会は、ラングドック地方の財宝と土地を手に入れたがっていました。また、ラングドック地方の人々を、特にカタリ派の人々を改宗させることを望んでいました。そこで、この二大勢力はオック語圏に攻め込み、大規模な迫害を行い、1200年代には、オクシタニアの伝統の数々がほとんど消滅し、少なくとも表面上は姿を消しました。20年にわたるアルビジョワ十字軍(訳注)とその後1世紀続いた異端審問によって虐殺されたキリスト教徒、ユダヤ教徒、そして他の神秘家を含むラングドックの住民の数は、50万人にも上りました。
訳注:アルビジョワ十字軍(Albigensian Crusade):11世紀にフランス南部アルビ地方に起こった、カタリ派の一派であるアルビ派を討伐するための十字軍。
オック語で歌っていたトルバドゥール(吟遊詩人)は、オクシタニアの伝統とその起源である古代の神秘哲学をなんとか末永く守ろうと、ある秘策を考え出しました。それは、象徴的な歌詞を用いるという方法でした。トルバドゥールの詩の内容は、表向きは、ある男性が女性に捧げる愛の歌なのですが、実は、神秘学的な愛の法則が歌われていたのです。彼らが表現していたのは、〈創造主/神〉とひとつになることの喜びであり、その交流から生じる心の平安でした。この神秘的な合一を求める魂の叫びを表現するためにトルバドゥールが用いた象徴のひとつにバラがありました。
「悦ばしき知識団」と「花合戦」
The Gai Savoir and Jeux Floraux
厳しい異端尋問が続いた後の1323年、「7人のトルバドゥール」として知られている、トゥールーズのトルバドゥールたちが、「悦ばしき知識団」(Compagnie du Gai Savoir)という名の神秘学の団体を結成しました。この団体の目的は、表向きは「詩歌を通して、より幸福でより良い世界を築くこと」でしたが、いかに上手なカムフラージュを施そうとも、本質を見抜く力を持った人の目には、彼らの詩の背後に、神秘学的な意味が隠されていることは明らかでした。
7人のトルバドゥールは、一通の手紙をラングドック地方のほとんどすべての詩人たちに回覧し、翌年(1324年)に開くコンテストで自作の詩を披露してほしいと打診しました。7人の審査員によって、勝者が数名選ばれ、スミレの花(花弁の紫色は、神秘学における最高位を象徴します)、マリーゴールド(哲学上の黄金、すなわち哲学を極めたものを意味します)、そして野バラが授与されました。
「悦ばしき知識団」は、「愛の法則」と名付けられた方針と規則に基づいて運営されている団体でした。彼らは、数世紀の間に散在してしまった、古代から伝承されてきた神秘学の知識を、再び一つにまとめ上げて保持し、秘密裏に後世へ伝えたのでした。
1500年代のフランスは、ユグノー(Huguenot)と呼ばれるカルヴァン派プロテスタントとカトリックとの間の、おぞましい宗教戦争の時代でした。「悦ばしき知識団」は、この時期に活動を休止していました。その後、ある墓が発見されたという比喩的な意味を持つエピソードが広まり、この団体は「花合戦団」(Compagniedes Jeux Floraux)として再び歴史に姿を現します。この出来事は、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓が発見され、発掘されたというエピソードとよく似ています。
訳注:中世においてバラ十字団が、ある国で休止していた活動を再開する場合には、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓が発見されたという話が流布され、その墓に秘められた文書によって、発見し発掘した人に、バラ十字団の秘密の知識と活動を継承する権限が与えられたとされるのが通例であった。
トゥールーズで発見されたというその墓は、「花合戦団」(Jeux Floraux)の創始者であるとされるクレマンス・イゾールのものでした。その墓からは花々も見つかったことから、「悦ばしき知識団」が以前は、賞品として花を授与していたのであろうとされたのです。墓があったとされる古いキリスト教の聖堂(basilica)は、「ドゥラード」(La Dourade)と呼ばれ、古代ガリア(Gaul)地方で最初に建てられた西ゴート族の寺院の跡地にあります。そこは、かつてミネルヴァ(イシス)を祭っていた寺院でしたが、現在は「黒い聖母」が祀られていて、その美しい像が中央の礼拝所を見下ろしています。
フランスでバラ十字団がその存在を宣言した日
The Rosicrucians Announce Their Presence in France
バラ十字団は、1614年と、1615年と、1616年に、計3冊の宣言書を世に送り出した後、1623年には、好奇心を誘う謎めいたポスターをパリ中の壁に貼り巡らして、フランスでその存在を宣言しました。
「我々、バラ十字高等学院の評議員は、公然と、また密かに、この街に滞在している。我々は出版もせず、注目も受けない。ただ滞在の地に選んだ国々のあらゆる言葉を話し、我々の哲学を教授するのみである。それは友人を、死の過ちから救い出すためである。」
「ただの好奇心から我々に会いたがる人には、決して我々を見いだせまい。だが、我々の友人として登録されることを真剣に願う人に対しては、我々はその思いを判定し、我々の行う約束が真実であることを見られるようにする。それでも、この街の集会場所は知らせない。なぜなら、探し求める人が心から望むならば、その思いが我々を彼のもとへ、彼を我々のもとへと導くからである。」
この活動宣言に加え、啓蒙運動、ナポレオンのエジプト遠征とエジプト学、フリーメーソン団やルター派の活動、神智学やメスメルのマグネティズム、また他の伝統知識への関心の高まりもあり、19世紀後半から20世紀前半にかけては、バラ十字団の活動がフランスで大きく花開いた時代でした。ラングドック地方のトゥールーズで活動していたバラ十字団や、パリを中心に活動していたバラ十字団も、そのひとつです。
クレマンス・イゾールの肖像画
Clemence Isaure-the Painting
1892年から1897年までの間、「花合戦文芸アカデミー」(訳注)とトゥールーズのバラ十字団の両方に深くかかわっていたジョセフ・ペラダン(Josephin Peladan)の指揮のもとに、パリのバラ十字団が主催するバラ十字サロン(美術展覧会)が開かれました。このサロンには、毎年数千名の客が招かれ、音楽やバラ十字会の儀式が披露されたほか、絵画展も開催されました。有名な作曲家であるエリック・サティもバラ十字会員であり、1890年代の初頭にバラ十字団の音楽監督に任命されたこともあります。また、サティの友人であり、フランスを代表する作曲家の一人であるクロード・ドビュッシーもまたバラ十字会員でした。
訳注:花合戦文芸アカデミー:(Accademie des Jeux Floraux):1694年に、「花合戦団」のコンテストがフランス語で行われるようになった際に、この団体を基礎にしてできた、ヨーロッパ最古の文芸アカデミー。
バラ十字サロンには、象徴主義運動に属する多くの画家たちの作品が展示されました。こうした画家の一人に、トゥールーズ出身のアンリ・マルタンがいます。1892年にサロンに出品した彼は、同じ年に、トゥールーズ市庁舎の「著名人の広間」に飾るための、膨大な数にのぼる絵の制作を委託されました。そこで、彼がテーマに選んだのが「花合戦」(Jeux Floraux)でした。
その時に彼が制作した絵画の一点が『トルバドゥールの前に現れたクレマンス・イゾール(黄金のイシス)』です。絵の中で、クレマンス・イゾールは7人のトルバドゥールに、「花合戦」設立の許可状を示していますが、そこにはバラと十字が記されています。また、彼女の背後には、3人のミューズ(訳注)と芸術の女神ミネルヴァ、すなわちエジプトのイシス神が控えています。
訳注:ミューズ(Muse):文芸を司るギリシャ神話の女神たち
H.スペンサー・ルイス氏と『トルバドゥールの前に現れたクレマンス・イゾール(黄金のイシス)』
H. Spencer Lewis and the Appearance of Clemence Isaure to the Troubadours
1908年に、当時24歳であったH・スペンサー・ルイス博士は、ある神秘的な体験をし、その中で、フランスのバラ十字会を見つけ出すように指示されます。何から手を付けてよいものか思案に暮れた彼は、神秘学に関する書籍のカタログを最近送ってくれたパリの書店に手紙を書き、力を貸してもらえないだろうかと相談を持ちかけました。すると、書店の主から、パリに来てはどうかという提案が届いたのでした。
その後、偶然の一致を思わせるさまざまな出来事がありましたが、H.スペンサー・ルイス博士がパリを訪れることができたのは、一年半後のことでした。彼は、その書店主と会い、その後、フランスの各地で幾多の試験や審査を通過した後に、意味ありげに一枚のメモを手渡されます。そこには、指定の時刻に、トゥールーズ市庁舎にある「著名人の広間」へ行くようにという指示がありました。また、このことは一切公言しないようにとも書かれていました。
指示された通り、彼はその日、この絵の前に静かに佇み、そこに込められている神秘学的な意味について思いを巡らせていました。すると展示室にいたひとりの男性が、ここまでの道中の他の場所でも見かけたのと同じ合図を送ってきました。それは、バラ十字団員が合図に使う身振りのひとつでした。そこで、H.スペンサー・ルイス博士はこう話しかけました、「失礼ながら、私が今話しかけているあなたは、真理を求めている者にとって有益な情報をお持ちの方に違いないと思うのですが」。
その紳士は、フランス語で「その通り」と答えると、逆に、なぜこの絵を特に選んで熱心に見入っているのかを尋ねてきました。H.スペンサー・ルイス博士はこう答えました、「この絵は、たいそう美しくて素晴らしく、その上、私が存在することを確信しているあるものを表しているからです。私がこの絵に見ているのは、この上なく神秘的な意味と、象徴的に描かれた……」
紳士はこの答えに満足すると、H.スペンサー・ルイス博士に、行くべき場所が記されたメモを手渡しました。この紳士は、トゥールーズのバラ十字団の代表でした。おそらくはクロヴィス・ラサール氏であったと考えられます。彼は、歴史的建造物や古文書の撮影を手掛ける有名な写真家であり神秘家でした。トゥールーズのバラ十字団や、花合戦文芸アカデミー、そして南仏考古学学会を通じてラサールと親交があった人々が、バラ十字団へ入団するための、H.スペンサー・ルイス博士の旅を導いたのでした。先のパリの書店主はその一人です。また後に、H.スペンサー・ルイス氏にバラ十字団の入門儀式を授与することになる人々も、そうした人たちから選ばれたのでした。
1909年8月12日の深夜、H.スペンサー・ルイス博士は、トゥールーズ近郊の古城の内部にしつらえたバラ十字団のロッジ(本部)で、この神秘学派へ入団するための儀式を授与されました。同時に、古代から伝えられてきた神秘学の知識を未来の世代へと伝えていくために、バラ十字団の伝統的な活動をアメリカで再興するための認可状を受け取ったのもこの場所でした。バラ十字団の伝統にとって極めて重要な、この古代からの知識のことを、クレマンス・イゾール、すなわちバラ十字の黄金のイシスのインスピレーションにあふれる姿が、鮮やかに象徴しているのです。
参考文献
花合戦文芸アカデミーについては、 http://jeux.floraux.free.fr を参照(フランス語)
ポール・デュポン(医学博士)著「入門儀式、トゥールーズの神秘思想便覧」(H・スペンサー・ルイス博士バラ十字団入門100周年記念特別号)、AMORCフランス語圏本部、2009年発行
ラングドック地方(The Languedoc)については http://www.midi-france.info/02_intro.htm を参照
H・スペンサー・ルイス博士著『ある巡礼者の東方への旅』「アメリカン、ロザエ・クルーキス」誌(American Rosae Crucis)第1巻第5号12?27ページ1916年5月号
「バラ十字友愛組織の姿勢」バラ十字会AMORC世界総本部(San Jose)2001年発行(日本語版はhttps://www.amorc.jp/manifesto/を参照)
クリスチャン・レビッセ著、『バラ十字会の歴史と神秘』(Rosicrucian History and Mysteries)バラ十字会AMORC世界総本部(San Jose)2005年発行
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