投稿日: 2026/03/17

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り
1618年テオフィルス・シュヴァイガルト(ダニエル・メークリングの別名)の『薔薇十字団の知恵の鏡』に描かれた薔薇十字団の目に見えない学院
1618年テオフィルス・シュヴァイガルト(ダニエル・メークリングの別名)の『薔薇十字団の知恵の鏡』に描かれた薔薇十字団の目に見えない学院

 バラ十字宣言書が出版される直前、ヨーロッパはその道徳的危機によって生み出された不安と争いにとり憑かれていた。誰もが「新たなる改革運動」を望んでいた。このような社会的背景の中でバラ十字会員たちは、調和を回復するための新たな方法の提案の呼びかけを世に送り出したのだった。概して、バラ十字会はヨーロッパを取り巻いていた危機の解決としてヘルメス主義を主張したのだと言える。こうした意図を念頭において、バラ十字会は1614年にドイツのカッセル市にある印刷会社、ウィルヘルム・ウェイゼル(Wilhelm Wessel)社から、通称ファーマ・フラテルニタティスと呼ばれている無記名の宣言書を発行した。しかしその完全な題名は、『全世界中の普遍的、そして一般的改革運動~バラ十字の褒め称えられるべき友愛組織のファーマ・フラテルニタティスとともに、ヨーロッパのすべての知識人達と統治者達に向けて書かれた~また,イエズス会に捕らえられ,ガレー船漕ぎの刑を受けさせられたハスルマイヤー氏(Haselmayer)による短い答弁。いまや出版されて、すべての真実の心の持ち主たちに通知された。』この文献の中央部分をなすファーマ・フラテルニタティスはすでに1610年以来ドイツで手稿として出回っていた。その上、これはこの宣言書の現代に残存している版では唯一の部分である。

パルナッソスからの告知 (The Advertisements of Parnassus)

 短い序文から始まるこの最初のバラ十字宣言書は、三つの明確な主題から構成されていた。第一は、世界の全体的な改革の必要性を詳しく述べていた。そこには指摘されていなかったが、これはトライアノ・ボッカリーニ(Traiano Boccalini)の『パルナッソスの告知』からの「注告77」のドイツ語訳であった。この文献は一般にはほとんど知られていない。しかし、苦悶するヨーロッパの再編成の必要性を述べることで、これは内容的にバラ十字の計画を指摘したことで重要なのである。このようなことから我々がここで著者の意図を提示することは、理に適ったことである。ボッカリーニはガリレオの友人で、ベネチアの愛国者で政治家のパオロ・サルピ(Paolo Sarpi)の反ローマ教皇派に属していた。1612年に出版されたボッカリーニの風刺作品は,キリスト教ヨーロッパで政治的指導権を握ろうとしていたハプスブルグ家の企てを攻撃していた。これはジュルダーノ・ブルーノの『Spaccio』のように神話的会話の形式で書かれている。

アポロンの改革 (Apollo’s Reform)

 『パルナッソスの告知』はアポロンが、地球の住人達がお互いに争い、絶え間のない反目による巨大な絶望に悩んでいることをユスティニアヌス1世 (Emperor Justinian)から教わったことを述べている。アポロンは、人類にすばらしい道徳を教える数え切れないほどの指導者と哲学者を送り込む努力を惜しまなかった。そして彼は人類を元来の純粋さに戻すための誘導力のある全般的改革を計画することを決断した。この目的を完遂するために、彼はパルナッソスの地にカトー(Cato)、セネカ(Seneca)、ターレス(Thales)、ソロン(Solon)、などのギリシアの7賢人を招集した。それぞれの賢人達は、自分の考えを提案した。ターレスは、偽善といつわりが人間の間での基本的な悪の原因であると考え、人間関係に誠実さと透明度をもたらすために人々の心に小さな窓を開けることを提案した。即座に反論が挙げられた~もし各人が世界を支配する王子たちの心を見ることができたら、彼らはとても人々を治めることなどはできなくなる!と。それでターレスの案は即座に棚上げとなった。

 ソロンは人間の間の激しい憎悪と妬みによって、混乱が生じたのだと感じた。ゆえに、ソロンは人間の間に慈善と愛と寛容が広められるようにと助言した。彼は、もし資産がもっと公平に分配されたならば、人生は今よりよくなるだろうと付け加えた。しかし再び、厳しい批評家たちが異議を唱え、パルナッソスの賢人達はソロンの提案は「ユートピア的である」と言った。カトーは極端な解決方法を提案した~新たな洪水によって悪人達をすべて一掃してはどうかと。最後に、賢人たちが全員それぞれの考えを表明したのち、「アポロンの全般的改革」の企画は、豆とアンチョビーの価格を定めることによって終了された。この風刺を通して、トライアノ・ボッカリーニは,いかに宗教・政治・あるいは哲学の団体が人類に進化や発展をもたらす能力がないかを例示した。

ファーマ・フラテルニタティス (Fama Fraternitatis)

この最初の文献に引き続いて、ファーマ・フラテルニタティス(『バラ十字友愛組織の声明』)自体が発行される。この文学作品は極めて短いもので、全部で147ページの一冊の本の中のわずか30ページからなっていたが、ファーマ・フラテルニタティスは最初のバラ十字会の宣言書の最重要部分になっている。ファーマ・フラテルニタティスの中ではバラ十字友愛団の兄弟たちは、ヨーロッパの支配階級と聖職者達と学者達に訴えていた。彼らは啓発された精神の人々によって成された数多くの発見を見たそれぞれの発展した時代に敬意を示した後で、不運にもそれらの発見は人類が望んでいた光と心の平安をもたらすことはなかったということを強調した。バラ十字友愛団は、その能力を人類の奉仕に活用するよりもむしろ個人的な成功を獲得することのほうにより腐心していた学者達を非難した。同様にバラ十字友愛団は法王1の支持者達やアリストテレスの哲学とガレーヌスの医学の擁護者達のような古い教理に固執している人々をも指摘した。言い換えれば、権威に対して疑問を抱くことを拒否した人々であった。バラ十字会員たちは、神学と物理学と数学の間に拡がっている論争を思い起こさせた。彼らの態度は、コルネリウス・ハインリッヒ・アグリッパが魔術を定義した方法と類似していた。アグリッパは、魔術を真の科学として論述した。彼の最初の著作、『秘伝哲学について』(De Occulta  Philosophia)の初めの方に、彼は魔術をすべての科学の極致であるとした。つまりすべての哲学はお互いに補完している知識の三つの枝~神学・物理学・数学~に分かれているからであった。

 彼らの時代のこの目録作成の後でバラ十字会員たちは再生された知識を同時代の人々に提供することを提案した。この確実な原理の知識は、バラ十字友愛組織の創立者、師父C.R.から彼らにもたらされたもので、彼は何年も前に「全般的改革」のための基礎を築いたのだった。

 この神秘的な人物、師父C.R.とは、いったい誰だったのだろうか?この質問の答えがファーマ・フラテルニタティスの残りの部を占めている。それはコンフェシオ・フラテルニタティス(バラ十字友愛団の信条告白)によって我々の知るところとなった、1378年生まれの若いドイツ人、クリスチャン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreuz)のことからなっている。彼は貴族階級の両親の許に生まれたが、5歳のときに孤児となり、修道院に預けられた。彼はそこでギリシア語とラテン語を習った。16歳のときに彼の教育係だった一人の修道僧と共に、エルサレムの聖墓所へと巡礼の旅に出た。この東方への旅は、若いクリスチャンにとって真の入門儀式的な旅であった。しかしエルサレムへ向かう途中、キプロス(Cyprus)で彼に同行していた僧は亡くなってしまった。

 興味深いことに、伝説によると、キプロスはヘルメスと結婚して両性具有の子供、ヘーマフロダイト(Hermaphrodite)を誕生させたアフロディーテ(ビーナス)が誕生した地である。クリスチャン・ローゼンクロイツの伝説におけるこのキプロスについての記述には、錬金術的含蓄が一杯に詰まっており、そしてのちに発展させられた『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』(Chymical Wedding of Christian Rosenkreuz)の様々なテーマの前触れとしての役割も果たした。

クリスチャン・ローゼンクロイツの墓で発見された祭壇板を描いた17世紀初頭の作品。ファーマ・フラテルニタティスに記されている複雑な象徴性を示している
クリスチャン・ローゼンクロイツの墓で発見された祭壇板を描いた17世紀初頭の作品。ファーマ・フラテルニタティスに記されている複雑な象徴性を示している

幸福のアラビア (Arabia Felix)

 同行した僧の死にもかかわらず、クリスチャン・ローゼンクロイツは旅を続ける決心をした。しかし、彼は目的地をダムカール(Damcar)へと変更した。この市は、しばしば述べられていたことに反してダマスカスのことではなく、メルカトルの世界地図(Mercator’s Atlas,1585)に示されていたように、むしろアラビアの南西部のあるひとつの町であった。ダムカールはまた、アブラハム・オルテリウス (Abraham Ortelius)によって『Theatrum Orbis Terrarum』の中では幸福のアラビアの中に位置する市であったと述べられていた。この地域は『ヘルメス錬金術大全』を保存していたとして知られていた。ダムカールには、少なくとも500人以上の学生が学ぶ大学があった。イエメンのこの地方は、その香で名高く、イスラム教分派のイスマイリ (Isma’ili)の中心地であった。「バスラの兄弟会」(the Brothers of Basra)の促進の下に、ここではあらゆる種類の知識~科学的そして秘伝的の両方の~が集められたある重要な百科事典が編纂された。ヘンリ・コービン (Henri Corbin)は、この秘伝主義の色合いの濃厚なイスラム教分派に極めて興味をそそられ、「R.C.の兄弟たち」とバスラの「純粋な心の兄弟たち」との間の会話を想像して楽しんだ。コービンは、これらの二つの友愛組織に類似した目的があることを見出した。その少し前には、エミール・ダンティン(Emile Dantinne)が同様の線に沿って解説していた。

 ダムカールでクリスチャン・ローゼンクロイツは、とりわけ彼に物理学と数学において重要な知識をもたらしたマギとの親交を深めた。このため、彼は『Mの書』(Book M)をラテン語に翻訳することができた。三年間の勉強の後、クリスチャンはもう一度旅立った。そしてしばらくエジプトに滞在した後、彼はフェズに到着した。

黄金の都フェズ (Fez, City of Gold)

 16世紀の地理学者レオ・アフリカヌス(Leo Africanus)によると、モロッコの市フェズは重要な知的中心地であった。壮大な図書館を所有するこの市に、学びに来る者たちが群れをなしてやってきた。ウマイヤド王朝(661年)以来、その諸学校はアブ・アブダラー(Abu-Abdallah)とイマム・ジャファー・アル-サディフ(Imam Jafar al-Sadiq)とジャビール・イビン・ハヤン(ゲベー) (Jabir ibn Hayyan,Geber)の錬金術を教えており、更にアリ・アシュ・シャブラマリシ(Ali-ash-Shabramallishi)の魔術と占星術も教えていた。レオ・アフリカヌスは、フェズでは神業的な形の魔術で、地面の上に五線星形を円で囲んだ図形を描くことから始まってその実践者達に目に見えない世界に近づくことを可能にするものが行われていた、と述べていた。

 ファーマ・フラテルニタティスは我々に、フェズの住人たちの魔術は完全に純粋なものではなく、彼らのカバラは彼らの宗教によって汚されてしまっていたと知らせてくれている。それにもかかわらず、永続する印象をクリスチャン・ローゼンクロイツに与えたのは、この都市の学者達の間に優勢であった分かち合う精神であった。これはドイツではほとんどの学者達は自分たちの秘伝をしっかりと守り続けていた傾向とは対照的であった。フェズでクリスチャン・ローゼンクロイツは、歴史的周期の調和についての知識を完全なものにした。彼はまた、すべての種子は胚として木になる要素を持っており、同様の形で小宇宙(人間)はすべての構成要素(本質,言語,宗教,医学)からなる大宇宙を内包していることを理解した。ファーマ・フラテルニタティスの著者達は、この視点をパラケルススから借用したのだったが、パラケルススはその著書、『哲学的洞察』(Philosophia Sagax)にはこのように述べている~「・・・この意味において人間もまたひとつの種子であり、世界はそのリンゴである。そしてリンゴの種子にとって真実であることは取り巻いている世界の中の人間にとっても真実なのである」

 フェズでクリスチャン・ローゼンクロイツは、学問のすべての分野を統べる法則の全体は聖なるものと調和していることを理解するようになった。彼は数学と物理学と魔術の学習を完了したのち、フェズの要素的住人たちと知り合いになったが、彼らは数多くの秘密を彼に明かしてくれた。後者はおそらく、パラケルススがその著書、『ニンフ(妖精)、シルフ(空気の精)、小人、火の精そしてその他の存在についての論文』(Treatise on Nymphs,Sylphs,Pygmies,Salamanders,and Other Beings)の中に述べていたものたちのことであろう。パラケルススが見たと言っていたこれらの存在は、人間の形をしているけれどもアダムの子孫ではなく、異なる先祖を持っていた。そういった存在と接触することによって、人類は自然の秘密を学ぶことができたのであった。

聖なる霊の館 (House of the Holy Spirit)

 この入門儀式的な東方への旅の後、クリスチャン・ローゼンクロイツはヨーロッパへと戻った。帰途、彼はスペインに立ち寄り、彼がこの旅で学んだものをスペインの学者達と分かち合うことにした。ファーマ・フラテルニタティスによると、彼は学者達に「古い哲学とは一致(調和)しない新たな発展と新たな果実と獣を見せ、全ての物事を完全に元通りにする新たな公理を規定した。しかし学者達はそれを笑い飛ばしてしまった。彼らには新しいことであったので彼らの名声が損なわれることを恐れたのだった。・・・」クリスチャン・ローゼンクロイツはすぐに、この学者達は自分達の知識に疑問を持たれたくないのだと悟った。ファーマ・フラテルニタティスの著者にとってスペインの学者たちは、疑問を持たれて彼らの権威が疑われる危険にさらされることを望んでいない、ある教理に固執していた人々を象徴していた。 

 スペインの学者達の閉鎖的な態度と、また他の国々でも同様の批判に遭い、クリスチャン・ローゼンクロイツは絶望してドイツへ帰国した。そこで彼は東方で入手してきた知識の概要を書き記すことに着手した。彼の狙いは、ヨーロッパの王子達が光の指導者になるよう教育できる社会をつくることであった。五年の仕事の後、クリスチャン・ローゼンクロイツは彼の計画を援助する最初の三人の弟子たちに囲まれていた。このようにして、バラ十字友愛組織が誕生した。この<達人>と弟子達は一緒に、『Mの書』の最初の部分を書いた。次にさらに四人の兄弟たちが加えられて友愛組織が拡大された。そして「サンクティ・スピリタス(Sancti Spiritus、聖なる霊の館)」と呼ばれた新しい建物に引っ越した。この友愛組織は控え目であり続け、クリスチャン・ローゼンクロイツは1484年に106歳でこの世を去った。

 最初のバラ十字会員たちのグループが亡くなってから長い年月が経った1604年、会の兄弟たちはバラ十字の建物の土木工事をしていたとき偶然にクリスチャン・ローゼンクロイツの墓を再発見した。墓の扉の上には、「120年後に 私は開く」との碑文が刻まれてあった。「宇宙の概要」として考えられたこの洞窟の中に、彼らはそれまでに知られていなかった科学的な多数の器材と、彼等の<達人>によって集められた知識のすべてが収められた幾つかの文献を発見した。

ヘルメスのエメラルドタブレット
ヘルメスのエメラルドタブレット

クリスチャン・ローゼンクロイツの墓 (The Tomb of Christian Rosenkreuz)

 数多い古い手稿が保存された神秘的な墓の発見は、錬金術文献ではしばしばあるテーマである。バシル・ヴァレンティ(Basil Valentine)の例では、ドイツのエルフルトにある教会の祭壇の下から文献が発見されたとされており、これはメンデスのボロスの例を思い出させる。さらにもっとよく知られているのは、ティアナのアポロニウスによるヘルメス・トリスメジストスの墓の発見である。この後者のほうでは、彼はこの墳墓を発見したとき、一人の老人が王座に腰掛けていて、有名なエメラルド・タブレットの文が刻まれていたエメラルドの碑石を持っていたと言っていた。更に、彼の前には人々の創造の秘密と万物の原因についての知識を説明する一冊の本があった。この象徴的な体系は、どのようにして「哲学者の石を発見することによって地球の内部を訪れる」ことができるかの概念に触れていた。ゲルハルト・ドルン(Gerhard Dorn)はその著書、Congeries Paracelsicae Chemiae (1581) で、「エメラルド・タブレット」と題される錬金術の図画とヘルメスが関連付けられていることから、この意味を同様にヘルメス・トリスメジストスに密接に結び付けられている「硫酸(Vitriol)」という言葉に与えた。更にヘルメスがその両手に持っていたエメラルド・タブレットは、クリスチャン・ローゼンクロイツの「Tの書」(BookT)の前兆であるかのように見受けられる。

 フランシス・イェーツ(Frances Yates)によると、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓が発見された地下の部屋はハインリヒ・クンラートの『知恵の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae, 1609) に描写されていた「イルミナティの洞窟」によって示唆されたものだったかもしれない。安らかなクリスチャン・ローゼンクロイツの体が完全に保存されていた墓は洞窟の中心に置かれていたが、その墓には、七つの壁面があった。その墓は不思議な語句が刻まれた真ちゅう製の銘版で覆われていた。そこに示されていたものの一つには、「真空はどこにも存在しない。」と主張されていた。これは我々がすでに述べた論議について言及しているのであるが、その事実はさておき、この言葉は『ヘルメス錬金術大全』の「論文Ⅱ」の中のヘルメスとアスクレピウスの対話を思い出させる。我々がまもなく理解することになるように、第三のバラ十字宣言書は、ヘルメス・トリスメジストスの作とされる文献からの多くの引喩を含んでいる。

ハインリヒ・クンラートの『知恵の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae, 1609) に描かれた「イルミナティの洞窟」
ハインリヒ・クンラートの『知恵の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae, 1609) に描かれた「イルミナティの洞窟」

パラケルススとローゼンクロイツ (Paracelsus and Rosenkreuz)

 クリスチャン・ローゼンクロイツの墓の中から現れたとされている様々な文献の中でも、とりわけ注目すべきなのはローゼンクロイツが両手に持っていた、『シオフの語彙集』(Vocabulary of Theoph:Par.Ho.)と呼ばれている『Tの書』である。後者の文献は、おそらくはパラケルススの語彙集のうちの一つであろうが、パラケルススの語彙集でとりわけ有名なのは、パラケルススの門人であったゲルハルト・ドルンによって1584年に出版されたDictionarium Theophrasti Paracelsi continens obscuriorum vocabularum….である。ここではパラケルススがファーマ・フラテルニタティスに引用された唯一の著者であることに注目すべきである。さらにはこの宣言書の中で展開された数々の主題は、パラケルススの著作あるいはその弟子達の著作から来ている。前述した『Mの書』は、パラケルススの思想に直接触れている。我々はこの主題についてここで探求することはしないが、それについてはコンフェシオ・フラテルニタティスについて検討する時がより良い機会となるだろう。一方ここでは、とりわけこの最初の宣言書の中に見られるパラケルススの錬金術の概念を指摘しなくてはならない~特にそれが<偉大な仕事>に触れている方法についてである。つまり、バラ十字会員の精神的な手順は『ほとんど重要でない予備的な仕事』とされている点である。この見地に立つと、バラ十字は当時ドイツ国内に普及していた錬金術的方法からそれ自身を分離させていたことになるが、当時のドイツの錬金術は無視できない過剰を引き起こしていた。

 クリスチャン・ローゼンクロイツの墓の中から発見された知識の財宝の数々が集められた後、バラ十字会の兄弟達は再び墓を閉じた。不変の原理に基づいたこの遺産によって強化され、彼らは彼ら自身が、以前に彼らの達人によって想見された「聖なる人道的な全般的改革」をも導く立場にあるのだと感じた。ファーマ・フラテルニタティスは、墓の入り口を隠していた壁を打ち壊して兄弟達が知識の財宝を発見したのと同様に、ヨーロッパは発展を阻む壁のような役割をしていた古い信念を破棄したあと自身を新しい時代に開くことになる事を明らかにしている。しかしながら、ファーマ・フラテルニタティスが述べているように、バラ十字会員達が提案した知識は、「・・・新たに発明されたものではなく、アダムが陥落した後に受け取ったもの」であった。このようにそれは、ある人々が永続させようと没頭している失われた知識を復活させることからなっていた。さらには、最初の宣言書はこの「原初の伝統」の伝達者たちであった様々な人々の名前を挙げていた。それらの名前は、同様の状況下でマルシリオ・フィチーノによって述べられていたものを思い起こさせる。

アダム・ハスルマイヤー (Adam Haslmayr)

 ファーマ・フラテルニタティスはその刷新された知識を分かち合うことによってバラ十字友愛組織に参加するよう科学者達とヨーロッパの君主達を誘って終わっている。しかしながらこの訴えは、以下のように明記されている限りにおいて特異なのものである。「・・・今の時点では我々は、我々の氏名も集会場所も言及しないが、とは言え、人々の意見は、これまでに存在しているどんな言語であっても確かに我々の許に届くのであり、我々のうちの何人かの名前を、口に出してあるいは何かに書いて(すなわち発行するようなこと)公表しようとする者は失敗に終わることはないであろう。」この陳述は結果的にバラ十字の会は「永遠に触れられることがなく、破壊されることもなく、悪意ある世間には隠されていることになる・・・」ことを示している。このメッセージは伝え聞かれ、バラ十字への公開書簡はヨーロッパの様々な場所で発行された。それらのうちの一つが最初のバラ十字宣言書の終わりに出版された分である。この手紙の原典は、1610年にチロルで宣言書の手稿が出回っているのを読んだ後で、「賞賛すべきバラ十字友愛組織会員の神知論者達への回答」と題するアダム・ハスルマイヤー(Adam Haselmayer)が1612年に出版したものである。著者達の多くは、ハスルマイヤーが架空の人物であると考えていた。しかし、辛抱強い調査によってこのパラケルスス主義者の伝記を再現させることに成功したカルロス・ギリー(Carlos Gilly)によって、ハスルマイヤーは実在の人物であることが証明された。

 アダム・ハスルマイヤーは、膨大な錬金術の手稿の収集家であり、ファーマ・フラテルニタティスに大変乗り気になっていたので、彼は大公マクシミリアンにバラ十字の研究をするために助成金を出してもらうように願ったのであった。彼の「バラ十字宣言書への回答」の本文は「セプテントリオン(北)のライオン」の予言に強く影響されていた。時の終わりが近いと信じていた彼は、バラ十字会員たちは「<創造主>がテオフラスタス的で聖なる永遠の真実を広めるために選んだ者たち」であると感じていた。彼はまた、教会に行くことは無意味であると信じていた。この態度によって彼は異端の嫌疑をかけられることになった。このような声明を撤回することを拒んだため、ハスルマイヤーはとがめられ、1612年の10月にガレー船漕ぎの刑に処せられた。彼はそこに四年半いた。とは言え、彼はこの特別な待遇を楽しんでいたらしく、刑を受けている間中、同じように錬金術に熱心なたくさんの人々と手紙で連絡を取り合っていた。それにもかかわらず、カルロス・ギリーによると、アダム・ハスルマイヤーの熱中度は極端すぎ、バラ十字哲学とぴったり一致してはいなかった。

ファーマ・フラテルニタティス(1614年)のバラ十字の象徴
ファーマ・フラテルニタティス(1614年)のバラ十字の象徴

ヘルメスとローゼンクロイツ (Hermes and Rosenkreuz)

 前にも述べたように、最初の宣言書が、秘伝主義が栄光の位置にあった改革の計画を主張していたのは、この道徳的危機の状況の下においてであった。バラ十字会員達はルネッサンス秘伝主義の主流に自分達を置き、それにさらに特別なあるキリスト教神秘思想を加えていた。我々はまた、この最初の宣言書は、全ての厳格な宗教・宗派に対してと同じように、秘伝主義風を大げさにほめる人々からも距離を置くことをなんら躊躇しなかったことに注目したい。バラ十字会員達はパラケルスス主義に強く特徴付けられた楽観的な企画における科学、秘伝主義、そして神秘主義に近づくことを望んでいた。ルネッサンス主義に定義されていた「原初の伝統」の中にきちんと身を置き、バラ十字会はエジプトを二次的な役割へと追放した。不可解なヘルメス・トリスメギストスは、アイザック・カゾホンによって1614年にその正当性が損なわれ、もっと人間的な人物、クリスチャン・ローゼンクロイツに取って代わられたのであった。このローゼンクロイツなる人物は本当に存在したのか、それともただの象徴として機能したに過ぎなかったのだろうか?この最初の宣言書を書いたのは、誰だったのだろうか? 我々はこれらの疑問に次の記事で触れ、第二のバラ十字宣言書、コンフェシオ・フラテルニタティスについての検証を始めることにする。

次の記事へ:バラ十字友愛組織の信条告白|バラ十字会の歴史と神秘(第6章)

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

体験教材を無料で進呈中!
バラ十字会の神秘学通信講座を
オンラインで1ヵ月間
体験できます

無料でお読みいただける3冊の教本には以下の内容が含まれています

当会の通信講座の教材
第1号

第1号:内面の進歩を加速する神秘学とは、人生の神秘を実感する5つの実習
第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について

無料体験のご案内講座の詳細はこちら