以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

バラ十字宣言書の出版は、ヨーロッパ中に重大な反響を呼び起こした。宣言書は即座に再版が重ねられ、互いに対抗するそれらの中傷者たちや支持者たちによる膨大な量の文学作品を生じさせた。1614年から1620年の期間に限定してみると、宣言書を否定あるいは支持する内容の本が200冊以上が書かれており、この期間を18世紀まで延長してみると900冊にものぼる。これほどの大きな反響から我々は、17世紀にはバラ十字思想がいかに重要であったかを思い知らされるのである。この文学のおびただしい数の中から、これらの文学論争の代弁者として最も代表的と思われる何人かの著者を選んでみよう。
ドイツ人医師、アンドレアス・リバビウス(Andreas Libavius)は、最初にこの論争に加わったうちの一人であった。彼はパラケルスス主義者であったが、パラケルススの理論の魔術的側面には異議を唱えており、彼自身は科学的な錬金術師であると主張していた。1615年から1616年の間に、リバビウスはバラ十字会員たちを異端者と呼び、バラ十字会員は悪魔的な魔術を使用していると弾劾する数多くの本を出版した。これに対してイギリスの医師ロバート・フラッド(Robert Fludd,1574-1637)は、1616年にバラ十字友愛組織に浴びせかけられた不名誉と疑いの汚辱は今や真実の水によって洗い流されたとして、『友愛組織のための簡潔な弁明』を出版してリバビウスに反論した。この本で彼は、バラ十字の魔術はマルシリオ・フィチーノによって定義された意味での<自然の魔術>であり、完全に純粋で理にかなった術であることを示した。ロバート・フラッドはバラ十字友愛組織への入会を求めることでの出版を盛り上げた。
アンハルト(Anhalt)の皇太子クリスチャンの顧問官であったユリウス・スぺーバー(Julius Sperber)は、その著書『神の啓示を受けた輝かしいバラ十字友愛組織のこだま』(1615)でバラ十字会を擁護した。彼によると、はるか昔にアダムに委ねられた秘密の叡智を継承していることから、バラ十字会は最近になって形成された組織ではないというのである。スペーバーはこの叡智はカルデア人とエジプト人の間に代々受け継がれてきたものであり、聖ヨハネと聖ベルナールによってキリスト教世界に伝わったものであると指摘した。彼はまた、ギヨーム・ポステル(Guillaume Postel)ピコ・デラ・ミランドラ、ヨハネス・ロイヒリン、コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパは、この叡智の保護者たちであったことを思い起こさせた。他の著述家でミヒャエル・ポティエ(Michael Potier)のような人物もまた、その著作『新化学論』(New Chemical Treatise,1617)の中でバラ十字会を支持する姿勢を見せた。
ミヒャエル・マイヤー (Michael Maier)
ミヒャエル・マイヤー(Michael Maier,1569-1622)は、ドイツの名高い錬金術師であり、ルドルフ2世の御殿医でもあり、最も熱心なバラ十字会の擁護者の一人でもあった。1617年に彼はその著書、『喧騒の後の沈黙』(The Silence after the Clamors)の中で、バラ十字会に入会したいという望みを公然と表明したが、それに対してなんの回答も得られていない人々の批判に応答した。マイヤーは、それらの人々は、バラ十字会に入会する資格がないと判断されたので、何の回答も得られていないのであると述べた。マイヤーは更に、彼自身もバラ十字会に入会する名誉に価していないと付け加えた。ミヒャエル・マイヤーにとって、バラ十字友愛組織は悪ふざけなんかなのではなく、本当に存在していたのであった。彼はバラ十字会のことを、過去の全時代の全ての人々の中に存在した賢人たちの集まりの一つであると考えていた。このように彼は、古代エジプト文明とバラモン教に起源を持ち、エレシウスとサモトラケの神秘主義、ペルシアのマギ、ピタゴラス学派とアラブ文化に継承された古代の<伝承>の守護者であると主張した。
フリードリヒ・グリック(Friedrich Grick)は、この件に関して更に深い関心を抱いた。彼はイレナウス・アグノストス(Irenaeus Agnostus)のペンネームで、バラ十字会についての賞賛と批判の両方をのせた論文『真実の盾』(The Shield of Truth)を出版した(1618)。グリックは、バラ十字の起源をアダムであるとし、セス(Seth)、フィロン(Philon)、アル・マナル(Al Manor)、ヤコブス・デ・ヴァラジン(Jacobus de Varagin)から1618年の統領ヒューゴ・デ・アルヴェルダ(Hugo de Alverda)に至るまでのバラ十字会の47人の統領の空想的なリストを提示した。まさにその同じ年に、ヨーゼフ・シュテーラトス(Joseph Stellatus)は、<賞賛すべきバラ十字友愛組織>のために、その著書『天空のペガサス、あるいは、エジプト人とペルシア人の間では以前<魔法>と呼ばれていた真の叡智の概要、しかし今日では尊ぶべきバラ十字友愛組織に受け継がれ、その正しい名称はパンソフィアである。』で支持を表明した。この「秘密の哲学の熟達者」は、一連のバラ十字宣言書の注意深い読者であった。しかしながら、彼はその後すぐにバラ十字会を複数の著書の中で攻撃したため、友愛組織の擁護者たちから数多くの反発が起こった。彼はF.G.メナピウス(F.G.Menapius)のペンネームで1618年に『バラ十字友愛組織についてのヴェルギリウスによる詩文』(Cento according to Virgil on the Brothers of the Rosy Cross)、そして1619年に『バラ十字会のメナピウス、あるいは全体的な<組織>の考察..』を出版した。これらの本は、一つの重要な疑問を生じさせたのである。それは、バラ十字会は本当に存在したのか、それとも単なる幻想だったのであろうか?ということである。
多くの著作家たちが、バラ十字会を擁護した。フロレンティヌス・デ・ヴァレンティア(Florentinus de Valentia)(別名ダニエル・モーグリン(Daniel Moglin))は、『メナピウスによるバラ十字友愛組織への誹謗中傷の写し』に関する『我々にとってイエスがすべてなのである!あのバラは開花している…』を出版した。ミヒャエル・マイヤーはどうかと言えば、1618年に『輝かしいバラ十字会友愛組織の法と法令、つまり黄金の掟』(Golden Themis, or the Laws and Ordinances of the illustrious R. C. Fraternity)を出版して友愛組織が実際に存在することを実証しようと試みた。この本の中でマイヤーはバラ十字会会員たちの集会所についてベールをかけて不鮮明にして述べた。フランセス・イェーツによると、それはドイツのハイデルベルグ城を思い起こさせるのであるが、この城についてはこの後すぐに検討することにしよう。
1618年にハインリッヒ・ノイハウス(Heinrich Nehaus)は、その著書『バラ十字会員に関する敬虔で大変役立つ説諭。バラ十字会員は実在するのか? 彼らはいったいどのような人々なのであろうか?』の中で、もし友愛組織の兄弟たちがもはやヨーロッパの中で出会うことがないとすれば、それは彼らが東方(オリエント)へ移住するために立ち去ってしまったからであると述べた。この当時氾濫していた数多くの出版物の、どの著作家たちもバラ十字会を自己の利得に結び付けようとしていた。このことに関して、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、その著書『バベルの塔』(Turris Babel,1619)の中で、一連のバラ十字会宣言書の出版後に生じた混乱について考察した。

ロバート・フラッド (Robert Fludd)
バラ十字運動の出現がみられた年々の間、特にミヒャエル・マイヤーとロバート・フラッドは、バラ十字友愛組織の最も熱心な擁護者であった。しかしながら彼らは、二人とも、一度としてバラ十字会の会員であると主張したことはなかった。とりわけ、幅広い興味を持つ知識人であったロバート・フラッドは『ヘルメス錬金術大全』の叡智に精通しており、また、マルシリオ・フィチーノの著書や、ヨハン・ロイヒリンやヴェネツイアのフランチェスコ・ジョルジ(Francesco Giorgio of Venice)のようなクリスチャン・カバラ研究者たちの著書にも詳しかった。フラッドは医師と錬金術師の両方であったので、パラケルススの概念に強い興味を抱いていた。おそらくフラッドはバラ十字運動への入会を説得された初めの頃に、ドイツのバラ十字会と親交を深めていったのだが、しかしこの交流はミヒャエル・マイヤーが1611年から1613年にかけてイングランドを訪れた時にようやく発展したのかもしれない。確実に言えることは、このイギリス人医師の著書の数々が1617年に出版され始めたということである。それらの著書はパラティネート(Palatinate,神聖ローマ帝国内の宮中伯の領地)の中にあるオッペンハイム市の印刷業者ヨハン・テオドール・ド・ブリ―(Johann Theodor de Bry)によって出版され、ブリーはこの出版費用も負担した。これらの著書には、マチュー・メリアンの見事な版画が使われたことが注目された。この点では、ロバード・フラッドの著書は正真正銘の傑作ぞろいなのである・・・表題ページは壮麗な版画で装飾されており、著者の意図が要約されて示されている。
ロバッド・フラッドはそれらの著書の中で、大宇宙(世界)と小宇宙(人間)との間の調和を提示することに自らを捧げていた。膨大な知識を持つ彼は、諸惑星と天使たちと人間の体の各部位と音楽やその他諸々のものとの間には調和的な対応が存在していることに関心を抱いた。彼は全ての知識を統合しようと試み、そして著書『神学・哲学的論文・・・』(Theologico-philosophic treaties…, 1617)の中では、<アダムの陥落>以降も存在し続けた古代の<叡智>の断片を提示していた。この本はバラ十字友愛組織の捧げられていることも、ここに記すべきであろう。1617.年にロバード・フラッドは、『形而上学的歴史、物理学とあの世界ともう一つの世界の技術、偉大なるものと小さきものを知る・・・』(Metaphysical history, physics, and technique of the one and the other world to know the great and the small…)を著し始めた。この全ての分野の知識を包含する文字通りの百科事典の中においてバラ十字宣言書の中で宣言された宇宙的復興を統括する<普遍的宇宙の叡智>を明らかにしようと努めた。彼は宇宙創造が<世界大霊>(The World Soul)によってどのようにして発生されたかを示そうと試みた。この<世界大霊>から、<創造>の調和の上で統括している数学的モデルが発生したのであった。彼の論証は、ヴェネツイアのフランチェスコ・ジョルジによって著された『世界の調和について』(De Harmonia Mundi)と、マルシリオ・フィチーノによって出版されたプラトンの『ティマイオス』の翻訳と注釈に基づいていた。フラッドはまた、数および<世界大霊>について書かれているキケロの『スキピオの夢』についてマクロビウスが書いた注釈からフィチーノが引用した諸原理を想起させている。
フラッドの<世界の大霊>についての見解は、天文学者ヨハネス・ケプラーやフランスの哲学者で数学者で医師であったピエール・ ガッセン(Pierre Gassend, 1592-1655)と対立する結果となった。また、フランスの哲学者で碩学の、ルネッサンス時代のヘルメス哲学を過激に酷評していた修道士マラン・メルセーヌ(Marin Mersenne, 1588-1648)からの非難も免れ得なかった。このルネ・デカルトの友人は、ロバート・フラッドがイエス・キリストと天使たちと<世界大霊>を同等の水準に置いたとして、ひどく非難した。このイギリス人医師の著書に対する反発の拡大の大きさは、彼の著作がヨーロッパ中に広く知れ渡っていたことをしめしており、そしてこの時代の大きな論争の中心にあったことも示していたのであった。

ヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler)
チュービンゲン大学の卒業生であったヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,1571-1630)は、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエのもとをたびたび訪れていた。1600年から1612年の期間中ケプラーは、ルドルフ2世の『魔術の宮殿』(Magical Court)の一員であり、大天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)の助手も勤めていた。ルネッサンス期の新プラトン主義とピタゴラス主義に強く影響を受けたケプラーは、その著書『宇宙の神秘』(Mysterium cosmographicum,1596)の初版の中で、<世界大霊>の仕組みについて繰り返し述べていた。しかし1606年にこの著作を書き直したとき見解を変え、この概念を<力>(Force)の概念に置き換えた。ケプラーによれば、諸惑星の運動は<世界大霊>によって管理されているのではなく、むしろ<力>によってであった。ヨハネス・ケプラーは後にロバード・フラッドの『形而上学的歴史・・・』に対抗する著作を出版した。ケプラーはこの著書『世界の調和』(Harmonices Mundi,1619)で、その論旨は数学に基づいており、ロバート・フラッドの著作のヘルメス思想を拠り所にはしていないと言明したのであった。彼はまた、フラッドがヘルメス思想と数学を混同していると非難した。
ロバート・フラッドは直ちにVeritatis proscenium(1621)でこれに反論し、彼の理論はヴェネツイアのフランチェスコ・ジョルジやバラ十字会員たちの理論を踏襲したものであることを明確に主張した。それに対してケプラーはApologia(1621)で反論し、さらにロバート・フラッドは1622年にMonochordum mundi symphoniacumで応酬した。アイザック・ニュートン(Isaac Newton)の著作がケプラーの理論を直ぐ確認していたが、最終的な分析では用語<世界大霊>は、用語<力>にとって替えられているが、この<力>の起源については全くの謎に包まれたままなのである!

フリードリヒ5世 (Frederick V)
バラ十字運動の展開は、プファルツのフリードリヒ(Frederick of the Palatinate)の出現によって決定的な転機を迎えた。その理由を理解するためには、この時代のボヘミアの状況の要約を述べる必要がある。神聖ローマ帝国領のこの州は、フェルディナント1世(Ferdinand I,1503-1564)の時代にハプスブルグ家の領土となっていた。その息子で王位継承者である皇帝マクシミリアン2世(1527-1576)はカトリック教徒であったが、新教徒(プロテスタント)信者には寛容であった。ジョン・ディーからMonas Hieroglyphica(1564)を献じられていたことからもわかるように、この皇帝は秘伝主義にさえも開放的であったようである。マクシミリアン2世の死後、その息子ルドルフ2世が王位を継承した。このハプスブルグ家の支配者は、まさしくカトリック教徒でスペイン王であった甥のフェリペ2世を遠ざけ、その宗教的熱狂に不満を表した。ルドルフ2世は洗練された人物で、科学、芸術、ヘルメス思想に夢中になっていた。ルドルフ2世の宮廷では、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、ミヒャエル・マイヤーらの重要な人物たちが親交を深めていた。この宮廷にはヨーロッパ中からマギたちが訪れ、特にジョルダーノ・ブルーノとジョン・ディーの両者は頻繁に出入りしていた。ファマ・フラテルニタティスは、この君主の治世の間に執筆され、ドイツ国中に写本が出回り広まったのであった。
1621年にルドルフ2世が没すると、無能な弟マチアス(Matthias)が王位を継承した。このときルドルフ王の『魔法の宮廷』は四散し、宮廷に出入りしていた学者たちは、ルドルフ王と趣味と同じくする新教徒の諸公たちのもとへとそれぞれ庇護を求めて離散した。その中のある一団は、イギリス国王の義理の息子で選帝侯フリードリヒ5世のハイデルベルグの宮廷に腰を落ち着け、別の一人はフリードリヒの顧問官アンハルトのクリスチャン候(Christian of Anhalt)の宮廷に加わった。アンハルト候の御殿医はパラケルススの優秀な弟子の一人、オズワルド・クロル(Oswald Croll)であった。最終的にミヒャエル・マイヤーやその他数人は、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツ公の宮廷へ行った。おそらく後者はバラ十字運動の推進のために重要な役割をはたしたものと考えられる。実際、最初の二つのバラ十字宣言書を出版したウィルヘルム・ウェツゼルは、まず、ヘッセン=カッセル方伯の許可を受けなければ何一つとして印刷することができなかったのであった。先皇帝の寛容さを新しい君主が持ち合わせていなかったため、皇帝マチアスの治世では、カトリック教徒と新教徒の争いに再び火がついた。この時期にファマ・フラテルニタティスが出版され(1614)、それから第二の宣言書コンフェシオ・フラテルニタティスが執筆され出版された。第二の宣言書には、迫り来る大変動を予感した悲観主義がみられる。
プラハ窓外放てき事件 (The Defenestration of Prague)
マチアス皇帝は、帝国の重要な地位から新教徒を徐々に退けていった。そして1618年にはプラハ市のプロテスタント教会の一つを閉鎖した。この出来事が火薬樽に火をつけることとなった。プラハ市民たちは宗教の自由を求めて反旗を翻し、5月23日には新教徒たちが三人の皇帝の代表者たちを窓の外に放り出した。一般に「プラハ窓外放てき事件」と呼ばれるこの事件は30年戦争(1618-1648)の発端となり、争いによりこの帝国はみるみるうちに荒廃していった。その翌年の1619年3月のマチアス皇帝の死は、ますます状況を悪化させるばかりであった。すでに1617年にボヘミア王を宣言していたマチアス皇帝の甥、スティーリア(Styria)のフェルディナントが皇帝の座についた。イエズス会の司祭たちから教育を受けたフェルディナントは新教徒の信仰を廃止する諸手段を講じて、ルドルフ2世がみせた宗教的寛容を終わりにした。
ボヘミアの国民は皇帝フェルディナントの権威に服従することを拒否し、むしろ新教徒連合の支配者であるフリードリヒ5世を彼の代わりにすることを選んだ。フリードリヒ5世にはフランスおよびイングランドの新教徒の後ろ盾があった。1610年にヘンリー4世が没すると、ある人々は、フリードリヒこそがまさにカトリック教と新教徒を和解させる人物であると考えた。ある人々はまた、その紋章に描かれているライオンを『セプテントリオのライオンの予言』で予言された繁栄の時代のしるしのライオンであると考えるものもいた。歴史家フランセス・イェーツによると、フリードリヒ5世の宮殿は発生期のバラ十字運動の中心であった。1613年にフリードリヒ5世はイングランドのジェームズ1世の王女エリザベスと結婚した。これはヨーロッパの新教徒連合の結束を確かなものとする重要な出来事であった。この結婚はまず始めにイングランドで祝宴が催され、それからハイデルベルグ城で壮麗な祝典が行われた。これらの祝典がヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』に描かれているいくつかの場面のインスピレーションになっていたであろうことは、かなりあり得ることである。この文化の中心地には、サロモン・ド・コー(Salomonn de Caus)によって設計され、いくつものほら穴状建物や「話す像」や自動人形で美しく飾られた庭園があった。この庭園は世界七不思議の次の不思議であるとされた。

白い山 (The White Mountain)
ボヘミアの王位を受け入れることは、すなわちハプスブルグ家勢力と敵対することになるということをフリードリヒ5世は知っていた。運命に翻弄され、彼には王位を受け入れる以外にすべがなかった。彼は1619年11月にプラハの大聖堂で王位についた。しかしハプスブルグ家が勢力を盛り返し、フリードリヒ5世に容赦なく襲いかかってきたため、なんと彼は「ボヘミア冬王」となってしまった。このとき同盟国だったフランスとイングランドの王たちは、スペインと交戦を恐れて関わり合いを避けた。11月8日、プラハ市の近郊で悲惨な「白い山の戦い」が起こった。アンハルト候に指揮されていたフリードリヒ5世の軍勢は、カトリックの軍勢に大虐殺され、フェルディナントがボヘミア王に復位させられた。フリードリヒとエリザベスはオランダのハーグ市に逃れた。この戦いは数多くの悲惨な出来事に彩られた三十年戦争の先駆けとなった。ピエール・ショニュ(Pierre Chaunu)はこの戦争を『他に類を見ないほどの大災害』であったと述べている。P.モルス(P.Mols)は「人口統計学上、ドイツ史上最大の社会的大変動」と呼んだ。この戦争の結果にはびっくり仰天させられる。プファルツは人口の70%、ヴェルテンベルグは82%、ボヘミアは44%をそれぞれ失った。さらにここに2万以上の難民や亡命者を付け加えねばならない。全体的にみると、中央ヨーロッパは三十年戦争によって人口の60%を失ってしまった。このような状況のもとではバラ十字運動の計画が頓挫してしまったのも全く不思議ではない!
フリードリヒが敗れた後ハプスブルグ家は、フリードリヒがバラ十字運動と関係していたことを皮肉った版画を出回らせた。カトリック勢力がバラ十字運動に勝利したということは新教徒とヘルメス思想に異端の宣告がなされたトリエント公会議の意向が継続されたのだとみられた。ある版画には、フェルディナント皇帝を象徴する鷹が、フリードリヒを象徴するライオンの横たわる柱の上に留まっている図が見られる。ここには、ファマ・フラテルニタティスの終わりに書かれているバラ十字会員のモットー「おおエホバよ、あなたの翼の下に」(“Under the shadow of the wings, O Jehovah”)をもじって、「朕の翼のもとにて、ボヘミア王国は繁栄する」というパロディ文が書かれている。

このようにして、バラ十字会員たちが提示した友愛組織の理想は宗教的不寛容さと衝突し、三十年戦争によって真正のバラ十字会組織の創設が阻まれたのであった。この時代にはバラ十字運動が開花することはなかったが、それにもかかわらず、その理想はヨーロッパ中、とりわけイングランドとフランスに広まった。ルネ・デカルト(René Descartes,1596-1650)がバラ十字思想について調査研究を開始したのはこの 荒廃し混乱した時代においてであった。我々はこの後で直ぐ、彼のフランスへの帰還はパリ市内の壁々に貼り出されてバラ十字会の存在を知らせた謎に満ちた告知文と同時のことであったのを知るのである。そしてイングランドでは、バラ十字運動がフランシス・ベーコン卿によってこれまでにない発展を遂げる事になるのである。
次の記事へ:哲学者たちとバラ十字|バラ十字会の歴史と神秘(第10章)
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について





