投稿日: 2026/01/14

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り

スピリチュアリティの基礎
The Basis of Spirituality

ラルフ・M・ルイス、バラ十字会AMORC元代表)
By Ralph M Lewis

目を閉じて胸に手を当てている女性

スピリチュアリティ(訳注)、つまり精神の崇高さというテーマに取り組んでいると、スピリチュアリティという概念は明確な定義を持たないように思えてきます。ある人は、スピリチュアリティのことを人類に固有の現象と考えます。一方で、スピリチュアリティとは超越的な原因によるもの、つまり神が与えるものであると捉える人もいます。また、スピリチュアリティとは心理的なものであり、客観的な経験と主観的な経験の両方から生じる心の状態であるという考え方もあります。

(訳注:スピリチュアリティ(spirituality):心の深奥の性質や、真理、道徳的善、芸術などに見られる崇高さ。崇高な精神性。霊性と訳されることもある。)

スピリチュアリティについては、このように多様な考え方がありますが、それを一つの概念に統合できるという考えが強く示唆されています。言い方を変えるなら、スピリチュアリティとは、これらの多様な概念に共通するある性質を少なくとも部分的に含んだものです。かつて、ある著名な哲学者はこう述べました。

あなたは宇宙の他の部分から切り離された孤立した個人では決してない。あなたは常に周囲の世界と関係している。人間の全体は個々の人間の総和よりも大きい。人間が自己実現を見いだす現実は、常にその人を超越したところにある。

私たちは孤立した存在ではなく、何らかの形で他のすべての存在と密接に結びついているという理解が、スピリチュアリティすなわち精神性の基礎になります。自分という存在は自分にとって現実ですが、自分が経験することもまた現実です。私たちが知覚する外界のさまざまなものは、さまざまな形で私たちに影響を及ぼしており、時に恩恵をもたらし、時に恐怖や苦悩を引き起こします。

そのため、こうした外界からのさまざまな影響を受けて、太古の人々は、外の世界のさまざまな要素の価値を評価することを始めたのだと推測することができます。この評価は、人間が生まれつき持っている感受性に基づいており、この感受性には、知覚したものすべての価値を評価するためのたった2つの性質があります。それは苦痛と喜びです。

私たちが経験するすべてのことには、その経験に伴う苦痛と喜びを基準として最終的な価値が決定されます。しかしこの2つの感覚は、何が原因かも、その強さも異なります。生理的欲求を満たすことによって得られる身体的な喜びもあれば、知的探求による抽象的な喜びもあります。また、自己の全体が調和しているときに感じる、神秘的で非日常的な喜びもあります。この喜びは強い幸福感と高揚が伴う状態であり、あらゆる刺激への反応から解放された状態です。さらにこの感覚は五感の外的な感覚のいずれとも関係しておらず、まるでそのすべてを超越しているように思えます。美術や文化に関する追求で何かを達成すると、しばしば、自己の全体に及ぶこうした強い喜びの状態が生じます。

宇宙のイメージ

善とは何か

しかし人間は集団として、勝手気ままに、これまでに経験してきて今も感じている喜びのすべてに「善」という性質を付与してきました。身体的な追求でも精神的な追求でも、期待された喜びを十分に満たすものはすべて、善(良いもの)であると言われます。たとえば良い職人とは、仕事を立派に遂行する人のことであり、善い市民とは、望ましい市民として要件を誠実に遵守する人のことです。

自然現象は、太古の人間の心にどのような影響を与えたのでしょうか。私たちの大昔の祖先の間には、物活論(hylozoism)という考え方が広まっていました。これは、すべての天体現象には生命が宿っているという概念です。惑星などの天体には生命があり、思考する、人間より優れた存在であると考えられていました。一部の天体には、人間にとって善であり有益であると考えられる想像上の性格が割り当てられ、他の天体には、反対の悪の性格が割り当てられました。善(良い)という観念からは、当然、その反対の善ではないという観念が示唆されるのは論理的なことです。したがって、何らかの形で不都合なことや困難なことや、苦痛を伴うことは、有害であり悪であると考えられました。

私たち人類の知性と感情が進化している途中のある時点で、善という性質を持つと考えられた男神たちや女神たちの振る舞いをまねることが、最善の行いであると考えられるようになったのだと思われます。ここで次のような疑問が生じます。内在する善を象徴する存在である神々は、その善の行いからどのような利益を得た(と古代人は考えていた)のでしょうか。人間は、さまざまな種類の喜びとして善を経験します。これに対して、天上の存在が経験する善の喜びとは何だった(と想定されていた)のでしょうか。その喜びは物質的な何かを手に入れることを通したものだったのでしょうか。あるいは、何らかの行為を成功させたことによるものだったのでしょうか。

天上の存在は有限の命を持つ人間のために善い行いをして、人間はそのような行為から恩恵を受けると考えられていました。しかしこれらの神々自体も、自分たちの行為に個人的な満足を感じていたのでしょうか。ここで、太古の人間が善の性質を探究していたときの思考の道筋について少し考えてみましょう。苦悩している人を助けたときに経験する善は、集合的な記憶にはっきりと残ることでしょう。助けられた人が感謝を表現すると、それは、感謝を受けた人に強い印象を残します。この喜びの感覚はもちろん感情に属するものであり、身体の物理的欲求を満たす喜びとはまったく異なっていました。善の行ないをなした後に経験するこのような感覚は、感謝を受け取った人の全体に染み渡っていくように思われるものでした。

善の中心としての心臓

怒り、恐怖、その他の感情的な反応は、心臓を中心に起きているように思われます。ストレスを感じたときや喜びを感じたときに、心臓の鼓動が速くなったり、どきどきしたりすることを考えてみれば、このことがよくわかります。それと同じように善という喜ばしい感覚も、心臓を中心にして生じるのでしょうか。心臓は、かつて生命の源と考えられていたため、思わず行なった善の行為とそれに伴う喜びの感覚も、生命の中枢である心臓を中心にして生じていると考えられたのではないでしょうか。

長い歳月を経て導き出された結論は、生命という繊細な知覚作用は、宇宙という無限の大海に浸るように存在しているという見解でした。宇宙という非日常的な領域から人間へと流れる「何か」が、つまり目に見えない力が存在していました。それを経験することは善の一種であり、どのような思考や人間の行動が善を表しているのかということが熟慮されました。目に見えない力による衝動と動機づけこそが、人間が意識するようになったスピリチュアリティ、すなわち精神性でした。

しかし、人間を満たしているこの神聖な力には、何らかの具体性、すなわち人間の精神が理解できる何らかの形が必要でした。そのためこの力は、「呼吸」によって運ばれ、呼吸によって生命が体内に入り、体外へと出ていくと考えられるようになりました。したがって、「スピリチュアリティ」という言葉の本来の意味の一つは、「空気を呼吸する行為」を意味していました

目を閉じている男性

魂の概念

しかし、空気そのものがスピリチュアリティという性質の本質ではなく、空気は、この「本質」を宇宙から人間へと運ぶ媒体に過ぎないと考えられるようになりました。ここから、神学や関連する分野で魂(soul:ソウル)と呼ばれる概念が生じました。魂という概念はその性質や人間で果たす役割に関して、さまざまな変遷を経てきました。最もよく知られており根強い概念は、個人の魂は一種の天上界の実体であり、人が生まれる時にスピリチュアルな源(Spiritual Source)または神聖な源(Divine Source)によって、その人に吹き込まれるというものですが、それ自体が多くの解釈の対象になってきました。

この「非物質的な実体という概念」は、自分の魂の性質を意のままに操れるという考え、つまり自分の行為によって魂を堕落させることも、魂を更生させて本来の神聖な状態に戻すこともできるという考えに結びついてきました。したがって、この概念によれば、魂の性質は変化することができます。

また、東洋と西洋の神秘家が共通して抱いている「神秘的な概念」もあります。伝統的に魂と呼ばれているものは、極度に、または高度に発達している宇宙そのものの意識の崇高な状態であるという概念です。言い換えれば、人間の意識が取ることのできる一連の状態の中でも、究極に高度な現れに相当します。一般的に、意識というこの性質は根源的生命力に満ちあふれており、根源的生命力は、ひとつひとつの細胞の中に固有の要素として存在し、生命の活力になっているので、宇宙そのものの意識は、すべての人間の中に存在しています。どのように表現されるのかが異なるだけであり、人間の中で、宇宙意識の質に違いはありません。この崇高な意識の状態に気づけるようになればなるほど、私たちは「スピリチュアリティ」と呼ばれる善を示すようになります。

個人のスピリチュアリティ

しかし、このスピリチュアリティ、すなわち〈絶対なるもの〉あるいは私たちが理解する創造主として経験される一体性(Oneness:ワンネス)は、どのように表現されるべきなのでしょうか。人間の論理的思考は、自らの内に宿るスピリチュアリティを知覚するための自己鍛錬の規則を、一般的で理解しやすい言葉で表すために、多大な努力を行ってきました。簡単に言えば、真のスピリチュアリティに対応する人間の善を確立しようとする試みです。

しかし、人間の論理的思考がもたらす結論は、必ずしも同じものではありません。この啓示を受けて、個人的な悟りを得た人は、他の人も同じ経験ができるよう支援する義務があると感じました。彼らは、神秘的で非日常的な喜びに満たされた状態をわかりやすい言葉や行為に置き換えようと試み、それが信仰や宗教的実践の核になりました。善意に基づいて行われたにもかかわらず、多くの場合、この過程から真にスピリチュアリティだとは言えない教義や実践が生じ、不寛容、固執、誤った形の献身がもたらされました。

スピリチュアルな善の物質的な側面や解釈によって、スピリチュアリティへと直接導いてくれる、決定版の道筋などというものは存在しません。実際のところ、精神の崇高さへと向かう指針が、スピリチュアリティの本当の姿から逸脱しているような道が数多くあります。真のスピリチュアリティに相当する善は、議論や教義の強制的な受け入れによっては理解されません。スピリチュアリティという善の理解は、主観的な到達でなければなりません。たとえば、美は見る者の目の中にあると言われるように、スピリチュアリティもまた確実なことに、完全に個人的な性質のものです。

他の人がスピリチュアリティという究極の体験に達するための支援をしたいと善意で望むのであれば、この自己実現を達成できる神秘学(mysticism:神秘主義)の手法をその人に紹介することができます。神秘学の基礎を教える宗教を通じて、あるいは、バラ十字会のような神秘学の教えを伝統的に継承している組織を通じて、それを伝えることができます。私たちは真のスピリチュアリティの意味を、自身の理解の範囲を通して、その範囲が他の人の理解と一致するものであるかどうかにかかわらず、その範囲を通して学ぶことを自身に許容するべきです。結局のところ、どのように表現された夕日の描写であっても、自身の夕日の認識にかなうものはありません。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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