公式ブログ

見たり聞いたりするとは、そもそも

2014年11月21日


 

こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。東京板橋は昨日まで冷たい雨が降っていたのですが、今日は日差しに恵まれました。紅葉したサクラやハナミズキの葉もずいぶんと落ちて、もうすっかり冬の気配です。

そちらはいかがでしょうか。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

この数日、見たり聞いたりするとは、そもそもどういうことなのかという疑問にとらわれています。

それは、「正しく見ることさえできれば、人は大きな誤りを犯すことはない」という、意味深長な一文が、ある本に書かれていたからです。

そこで、認識についていろいろと調べていました。正直に申し上げると、さまざまなことが今、頭の中に渦巻いていて、今日はまとまりの良い話ができそうにありません。

 

まず、常識的な立場で“見る”ということが何かを考えてみましょう。

目の前に大きな木があり、それが太陽に照らされているとします。太陽の光がその木に反射して、その一部があなたの眼に入ります。眼には透明な水晶体というレンズがあり、レンズの後ろ側の網膜には木の像ができます。そしてそこには視神経がつながっていて、信号が脳に運ばれ、そこで解釈された結果、視覚という認識が起こります。

これで、問題なくすべてが解決したのでしょうか。そうならば良いのですが、少し深く考えると、事情はそれほど単純ではないように思えてきます。

この説明では、結局、何が木を見ていると言えるのでしょうか。脳でしょうか。脳が見ているとすると、脳とは、何か頭蓋骨の中にいる「小さな人」のようなものであり、その人が見ているということなのでしょうか。

そうすると、この「小さな人」は、どのようにして見ているのだろうかという疑問が生じ、結局何も説明したことになっていないように感じられてくるのです。

Businessman standing on ladder against scenic countryside with mountains

前回ご紹介した「マインドフルネス」(http://www.amorc.jp/blog/201411141513_520.html)にも関係するのですが、“見る”ということが初期仏教では、この生理学的な説明よりも、かなり良く分析されています。

そこでは、色(しき)という対象が、眼門という感覚器官に入った結果、眼識という認識が生じるとされているのです。

同じように、聞くということは、声(しょう)が耳門に入った結果、耳識が生じたのであると考え、他の五感についても同じように考えます。

 

面白いのは、記憶や想像や観念も、五感の対象と同じような対象であると考えて、これらを「法」と呼び、法が感覚器官である意門に触れると“意識”が生じるとされています。

ちなみに、この意識は、何かに気づいているというごく普通の意味の意識とは異なるので、2つを区別するために、アクセントを変えて「イシキ」と読まれます。若い人たちが「クラブ」とか「ライン」というときと同じアクセントです。

 

そして、心とは実体でなく、結局のところこの6つの識(六識)という現象のことであり、六識が生じれば心が生じ、六識が消えれば心も消えるとされます。

このように考えると私たちの心は、映画のコマ送りのように、ものすごい速さで生じたり消えたりを繰り返していることになります。

この六識には、私たちの生存本能や、過去の体験や教育などの影響から、さまざまな解釈が加えられることになります。そしてこの解釈に、さまざまな誤りが生じるとされています。

 

バラ十字会でも、この初期仏教とよく似た考え方をしています。

まず、この世のすべてが振動であると考え、そのことを「振動の大海」と呼んでいます。確かに、周囲の物体も私たち自身も、見たり聞いたり触ったりして知られるものは結局のところ、すべて振動と言えるのではないでしょうか。

これらの振動には、さまざまな振動数のものがあり、その順にならべると「宇宙鍵盤」(Cosmic Keyboard)と呼ばれるものができあがります。

 

物体とは、あるエネルギーのことだとされています。そしてそこからは、音や光など、比較的低い振動数の振動が放射されています。また、脳波計で確認できるように、脳そのものからも、低い振動数の振動が出されています。一方で、人に宿っている魂は、とても高い振動数の振動の源となる、別の種類のエネルギーです。

この2種の振動が出会うと、そこに相互作用が生じます。この相互作用が心にあたります。

ですから心は、湖などの水面にたとえることができます。水面は、水と空気という異なる2つのものがなければ存在することができません。物体や脳から発している低い振動数の振動が水にたとえられ、魂から発する振動が空気にたとえられています。

すべてのものは常に活動し変化しているので、この水面全体には、いつもさざなみが立っています。しかし、たとえば石を投げいれると、そこからは円形の波紋が広がっていき、この波紋は、水面全体のさざなみとは明らかに区別することができます。これが、あるものを見たり聞いたり、あるいは何かを考えたりしたときに起こることにあたります。

pixta_11022490_S

では、高い振動数の振動の源である人の魂は、どこに存在するのでしょうか。

バラ十字思想に深く通じていた、フランスの哲学者デカルトは、魂が宿っている場所は、脳内にある松果体(松果腺)という器官だと考えていました。

正確に言えば、魂に位置はありませんが、そこから発する振動が物質の振動と最初に接触する場所が、人体では松果体にあたると考えられます。

 

脳の奥深くにあるこの松果体という器官には、多くの謎があります。メラトニンというホルモンを分泌して、体内時計を調整していることと、性欲の抑制にかかわっていることが分かっているだけで、他の機能についてはあまりよく分かっていないようです。

 

今から4億年前ごろ、脊椎動物の祖先には頭頂に眼があり、動物の胎児の成長の研究から、この眼が松果体の起源になったとされています。

頭頂といえば、ヨガの伝統で重視されるサハスラーラチャクラと、東洋医学のツボの百会(ひゃくえ)が思い出されます。この2つはいずれも頭頂にあるとされています。

サハスラーラとは千本のスポークのある車輪のことで、身体の次元を超越するチャクラだと言われます。百会の「百」も「たくさん」を意味し、たくさんの経絡の出会うところにあたります。

 

さまざまな事実のご紹介にとどまってしまい、ほんとうに申し訳ありません。

今回の話に関連して、ポール・マクリーンの提唱している爬虫類脳の話、バラ十字国際大学の生理学部門の脳についての最新の研究などを調べているところです。用意ができましたら、まとまりよくご紹介できればと思っています。

それでも、このつたない文章の中に、何かあなたのヒントなることを見つけていただけたなら、心から嬉しく思います。

 

それでは、また。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。


このページのTOPへ