こんにちは。バラ十字会の本庄です。
東京板橋では、朝晩がずいぶんと涼しくなりました。カエデの葉が見事な赤に染まるのも、あと数週間でしょうか。
いかがお過ごしですか。
もうずいぶんと前のことになりますが、競争よりも平等を重視する、ある小学校の教育のことが報道されたことがあります。運動会の徒競走で、全員が手をつないで同時にゴールするのだそうです。このようなことは、今も行なわれているのでしょうか。
ある学者たちの統計調査によれば、この例のように、競争を否定する何らかの教育を受けた人は、その教育の意図に反して、他の人と協力する度合いも、困っている人を助けようとする度合いも低い傾向があるのだそうです。
この徒競走のシーンを見たときに、正直にいえば、何かが違うと直観的に思いました。しかし、直観はともかくとして、平等を重視しているように見えるこの教育のどこが間違っているのかを、きちんと説明することは、そう簡単なことではないように思われます。
当会のフランス本部の代表であるセルジュ・ツーサンが、自身のブログで、このことに深く関わる考察を行なっていますので、ご紹介させていただきたいと思います。
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バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ
記事「平等について」
自由と同じように平等であるということは、大部分の社会で当然の要求と考えられていて、多くの人が平等であることを望んでいます。しかし、どのような事柄について人は平等であることができ、また平等であるべきなのかという疑問が浮かんでは来ないでしょうか。
実際のところ、人はひとりひとり異なる環境に生まれますし、その後も同じ状況のもとで育つことは決してありません。たとえば、アフリカの小さな村で生まれた子供と、パリ市の快適な地区で生まれた子供の状況の違いを考えてみるだけで、このことはすぐに理解できます。
人は同時に生まれるわけではなく、似たような場所、似たような家族、似たような社会環境などに生まれるわけでもないので、すべての人が平等であることはあり得ません。
さらに言えば、生まれたときから健康状態も、知能も、他のさまざまな才能も、個人個人で異なっているので、身体面でも知性面でも他の面でも、人は平等ではありません。あらゆる人があらゆる面で同じレベルであるということは全く不可能です。
ですから、このような平等を求めるのは、偽善であるか、そもそも、よく考えたことがないのではないかと思います。
神秘学の立場からいうと、人種や国籍、社会的地位、性別が同じであるか、そうでないかにかかわらず、人が平等ではないということには、別の根本的な理由があります。それは、内面的な進歩によって到達している水準に応じて、個人個人に意識レベルの違う魂が宿っているからです。
経験した人生の数が、ある人と別の人では異なっているということから、この違いは主に生じています。また、生まれたときに人は、他の人と同じカルマ(訳注)を持っているわけではないので、これから出会うであろう試練や幸運も、ひとりひとりで異なっています。
実際のところ、日々何を行なっているかと、遠い過去や近い過去に何を行なったかによって、その個人が現在生きている状況が、おおむね定まっています。
(訳注:カルマ(karma):過去の考え、発した言葉、行いが、将来に及ぼすプラスやマイナスの影響のこと。マイナスのカルマは「業」(ごう)とも呼ばれる。)
ご理解いただけることと思いますが、すべての人が平等であることは不可能だと私は考えています。なぜなら、好みや選択を始めとする、きわめて多くの要素があって、理屈抜きに人はそれぞれに異なっているからです。
しかし、法律的には、基本的な権利が誰にも同じように与えられていなくてはならないということに、間違いはないと思っています。別の言い方をすれば、人はそれぞれ、自身の知性や技能や、他の能力を、十分に発揮することができる機会が与えられていなくてはなりません。
この権利と機会を、世界中の人々がもし得ることができとしたら、現在多くの人が感じている不平等感が解消することでしょう。そして、自分は不平等によって苦しめられているのではなく、人と人との間に違いがあるからこそ、人間はお互いに助け合うことができると思うようになることでしょう。
ご存じのように、理論に偏った考え方のいくつかでは、絶対平等主義(egalitarianism)が説かれ、「権利と機会の平等」が「知識や技能や責任などについての結果的な平等」と混同されています。
しかし、すべての人が同時に、似たような場所で生まれることも、似たような文化や社会で育つことも明らかに不可能なのですから、誰一人として、同じように進歩することはなく、同じ喜びと悲しみを感じることもなく、職業で同じ能力を発揮することもなく、同じ家庭環境で育ったりすることもありません。
すべての人は、異なる魂、異なる個性、異なる性格、異なる気質、異なる知性を持ち、異なるカルマを持っているのです。
ですから、国家や政府の廃止を理想と考える完全自由主義者(libertarianism)が自由について述べている極論と、絶対平等主義者が平等について述べる極論はよく似ていて、このような考え方には有益な点が見られないように思われます。
バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン
著者セルジュ・ツーサンについて
1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。本稿はそのブログからの一記事。
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いかがでしたでしょうか。何か少しでもヒントになる点や新しい発見があったと、あなたにお感じいただけていれば、心から嬉しく思います。
それでは、また。
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