幾千年もの歳月を超えて – 「汝、自身を知れ」という警句を日常生活に応用する
アントニエッタ・フランチニ、医師
有史以前に伝承されていた人類の知識にも、それ以後の伝承知識にも、自己を理解する技法が扱われています。そこで、このエッセーでは、自分自身を知ることによって、私たちは神を知ることになるというデルファイ神殿の警句に示されていた考え方について考察していきます。ノーベル賞受賞物理学者であるエルヴィン・シュレディンガーの見解によれば、遺伝情報が破壊されずに保たれていくのはなぜかという、近代科学の量子論の疑問もまた、古代の対話形式のこの哲学が姿を変えて現れたものです。自分自身を知るということについての古代哲学者の教えを、私たちの現代生活にどのように当てはめることができるかを、じっくりと考察いただければ幸いです。
自分自身を理解することは、私たちの人生の中でも、最も重要で最も難しい作業です。しかしながら、自分自身を理解していないと私たちは、無知の暗闇と不確実性、絶望を体験することになり、人生からは、価値と意味が失われてしまいます。価値観が失われると人生は重要でないものに思われ、人は自身のことを、無慈悲な運命に流される無力な犠牲者であると感じ、この世に起こる出来事という嵐の中に漂う秋の枯葉のように、孤独で見捨てられていると感じてしまいます。
先ほどの古代の警句「汝、自身を知れ」に従って、しぶしぶながらも、自身の心の深奥にある自己を調べる努力を始めると、私たちは同時に、調査する側、調査の手法、そして観察の対象になることになります。それは何と壮大な作業であることでしょうか。
このような高度な意味においては、「知る」という行為は、実際のところ何を意味するのでしょうか。
私は、クイズを解こうとしているのではありません、なぜなら、このことは、私たちひとりひとりの個人的な作業だからです。しかし、幸いなことに、数千年にわたる歴史的な英知である神秘家たちの見解が私たちには与えられています。それら神秘家の言葉が、私たちの心と理解に光を注いでくれますように。
太古の英知
Most Ancient Wisdom
「私とは何者なのか」という問いかけが、最初に人の心に生じたのがいつの時代であるのかを確定するのは不可能なことです。しかし、5000年以上前であると推定することはできます。ちなみに、その問いに対する答えが、エジプトのテーベのルクソールの古代神殿(紀元前1500年頃建設)の石に刻まれています。
「人の体は神の家である。 このことが、『汝自身を知れ!』と言われる理由である。」
この寺院では、次のような助言も発見されています。
「真実についての知識へと到達する、最良の、そして最短の道は〈自然〉である。」
「あなたの体は、知識の神殿である。」
これらの賢人の言葉から、私たちは次のような教訓を導き出すことができます。つまり、自然界と人体の両方の中に、私たちは普遍的真実を見いだすことができるのです。つまり、自然界と自身を理解することによって、私たちは〈創造主/神〉を知ることができます。そのため、現代の「伝統マルティニスト会」(ルイ・クロード・ド・サンマルタンの思想に基づく哲学団体。バラ十字会AMORCが後援している唯一の団体)では今でも、「人間の書」(Book of Humanity:人間という書物)と「自然の書」(Book of Nature:自然界という書物)という言いまわしが使われています。
では次に、「自身を知る」ということが、様々な時代と文化において、どのように理解されてきたのかを見ていくことにしましょう。
古代エジプト
Ancient Egypt
エジプト人にとって、秩序と調和は、神自体が現れたものでした。したがって私たちは、秩序と調和を自身の中に見いだし保つことによって、自身の聖なる本質を明らかにすることができると考えることができます。自然界と宇宙全体の中には、秩序と調和を見いだすことができ、私たちはそれに心を打たれます。人間は自然の一部であり、宇宙の一部であり、そこに相違は存在せず、区別することもできません。
私たちは、自身の本来の姿を正確に探らなくてはならず、自身の外面的なエゴを捕らえている見かけ上の混乱、不安、罪に、気を取られてはならないのです。〈創造主/神〉との結びつきが途絶えてしまったと私たちが感じるときに、混乱、不安、罪という障害が生じます。無知を知識と混同するべきではありません。古代の神秘家は、教えの中で、極めて正確にこのことを述べています。たとえば、時代を超えた価値を有する、あるエジプトの格言は、このように述べています。「知識へと至るための道は狭いものである。」
古代ヴェーダの伝統
Ancient Vedic Traditions
先史時代のほぼ同じころ、インドではヴェーダ(紀元前1500~500年頃にインドで編纂されたバラモン教の文書)の伝承知識が教えられていました。「汝は、『例のもの』である」(Thou art THAT.)という言葉は、ひとりひとりの人の「真の自己」(Real Self)が、「聖なる普遍的な(宇宙の)万物の本質」(Divine Universal Self of All)と同一であるということを意味します。したがって、極めて古いサンスクリット語の伝承によれば、ひとりひとりの人は本質としては清らかな存在であり、不死の魂であり、「ブラフマン」(Brahman)と呼ばれる宇宙の知的機能に永遠に結びついています。
バガヴァッド・ギータ(ヒンドゥー教の聖典)では、次のように述べられています。
「外界と触れあうことに執着していない自己とともに、彼ら(ブラフマンを知るもの)は、普遍的自己の中に幸せを見いだし、ブラフマンについての瞑想に携わっている自己とともに、彼らは、終わることのない幸せに達し、……彼らは、絶対的な自由を獲得し、彼らの罪は滅ぼされ、彼らの二元的な知覚は、ばらばらに引き裂かれ、彼らはすべての生き物の幸せのために、自己を律し、その実現に没頭し……。感覚と知性は、常にコントロールされ、自身の至高の到達点としての解放、すなわち、欲望、恐れ、怒りからの解放を実現し、これらの賢者は、真に永遠に自由である。」
イーシャ・ウパニシャド(Isa Upanishad:仏教の成立直前に編纂されたとされるバラモン教の教典のひとつ)の教えは、ヤジュル・ヴェーダ(Yajur-Veda:紀元前800年頃に成立)に由来しています。
「全てのものは完璧であり、完全に完璧である!
この世界において、生き、動き、
呼吸をしているすべての存在は、
原子から星々の集団にいたる、すべての規模において、その立場において、
完全に完璧であり、的確であり、役割を果たしている。
なぜなら、神の栄光、
統治者、
汝自身、
意識、
源泉、
目覚め、平安、愛から、
『例のもの』が、流出しており、
それゆえに、完璧なのである。
『例のもの』へと、あなたのエゴを捨て去ったとき、
あなたは、真の幸せを見いだす。
他のいかなる男性や女性の立場も
うらやましく思ってはならない。」
最近のことですが、ウパニシャッドの研究家のひとりが、カナダのオタワにあるヒンズー教の寺院でヴェーダ哲学の講義を行い、次のような点を強調しています。
「私が、ありがとうと言っても言わなくても、太陽は輝き、風は吹き、雨は降り、地球は動きます。しかし、この世界のそれらの働きに『ありがとう』と言い、深い感謝の気持ちを表すことによって、真の自己の性質と、この世界での自身の役割の性質を、私は実感するのです。」
「創造されたすべてのものと、自分自身が一体であることを私が実感した瞬間、この人生に、新たな興味、新たな喜び、新たな熱意を私は発見します。他の人を幸せにすることが、自身の幸せでもあることに私は気がつきます。他の人のために尽くし、生きがいの感じられる人生を他の人が過ごすのを手助けすることが、自分の生きがいでもあるということを実感します。」
「存在する全ては聖なるものです。このことが意味するのは、私たちの基本的性質が聖なるものであるということです。自身が聖なるものであるということを気づかずに生きた人生は、実際のところ、取るに足らない人生です。それは、暗やみ、無知、悲しみ、嘆きからなる人生です。 精神的盲目の人生です。そのような精神的盲目の状態に甘んじて生きている人は、実際に自分自身を傷つけているのであり、ウパニシャッドでは『精神的な自殺者』と呼ばれています。」
「誰もが幸せを求めています。それはなぜでしょうか。なぜなら、人の真の性質は、幸せだからです。人は常に自由を求めています。なぜでしょうか。なぜなら、人の真の性質は自由だからです。人はできるだけ長く生きることを望みます。なぜでしょうか。なぜなら、人の真の性質が永遠のものだからです。」
「つまり、人が人生で真に望むことは自分自身であることであり、それ以上のことでも、それ以下のことでもないのです。そうであるならば、唯一である、この自己と呼ばれているものは何でしょうか。それは探究を通して、自力で自分のために見つけなくてはならないものです。このことこそが、人生の最も優先すべき目的であるとウパニシャッドでは言われています。人の真の師は常に、私という自分自身であり、すでに自身の中にいます。」
古代ギリシャとローマ
Classical Greece and Rome
中央ギリシャの、パルナッソス山のふたつの山頂の間に建てられた、デルファイのアポロの聖なる神殿には『汝、自身を知れ』という言葉が刻まれています。 神託による予言が行われていたこの有名な聖域における神殿の最初の建設は紀元前800年頃であり、その後、ギリシャ人とローマ人にとって重要な聖地となりました。
しかしながら、すべての人が『汝、自身を知れ』という訓戒の微妙な意味を理解していたわけではありません。たとえば、ローマの詩人ジュベナル(1~2世紀)は、彼の才気にあふれる風刺文のひとつで、ギリシャ語のこの言葉を引用し、自分を理解することは、他の人も同様に理解することであるので、この教訓は天から授けられたものであろうと述べています。
さらにこの詩人は続けて、個人として、さらに深く考察を行うこと、たとえば自分の習慣、癖、性格や、感情をコントロールする能力、様々な行動の様子などをさらに深く知るべきであるということを、この格言は意味しているのであろうと述べています。彼は、買い物や食事などの日常的な事柄においてさえも、そのようなことが重要であると主張しています。
「アトラス山がアフリカの他のどの山よりも、どれほど高いかを知っているのに、小さな財布を持っていることと、鉄製の金庫を持っていることの違いを知らない人を、当然、私は軽蔑する。」
「『汝、自身を知れ』という格言は、天上から我々に授けられたものであり、妻とすべき人を捜していようと、聖なる元老院の議席を望んでいようとも、それは心に刻まれ、記憶に留められなくてはならない……。もしあなたが、壮大で難しい議論を始める準備をしているならば、自分自身と相談し、自分が何者であるか自分に知らしめるべきである。あなたは、偉大な雄弁家であるのか、あるいは単なるおしゃべり屋であるのか……。」
「人は、自分の身のほどを知るべきであり、それに合わせて、ものごとの大小を判断すべきである。たとえ魚を買うときでも、財布の中にイワシのような小魚しか買うお金がないのに、マグロのような大魚に心を動かされないようにするべきである。なぜなら、あなたの胃袋が広がると同時にあなたの財布が空になるとしたら、蓄えが減り、資本や純銀、家畜の群れや土地として保つことができたあなたの財産が腹の中に消えるとしたら、あなたの最期はどうなるであろうか。」
『汝、自身を知れ』という言葉についての意見や解釈には様々なものがあり、人には異なったレベルの理解と進歩があることが表れています。それでも、この訓告は全ての人にとって有益です。ある人たちは、自身のエゴを浄化しようとし、また別の人々は、エゴを超越して〈創造主/神〉の知識へと向かおうとします。しかしながら、これらの2つの方法は基本的には深く関連しているので、日常の個人的なエゴを十分に支配することなしに、心の深奥を探究する道を効率良く進んで行くことはできません。
哲学者たちとオルフェウス教団の参入者
Philosophers and Orphic Initiates
ミレトスのタレス(紀元前625~546年)、サモスのピタゴラス(紀元前569年頃~475年)、ソクラテス(紀元前470~399年)そしてプラトン(紀元前427~347年)などのギリシャの哲学者、そしてオルフェウス教団の参入者は、この訓戒を、最も崇高な意味に捉え、「人間よ、汝自身を知れ、そうすれば汝は、宇宙と神々を知るであろう」と述べました。そして、「自身と神を知るために、我々は何をすべきであろうか」、「このことをなし遂げるために使える、秘密の方法があるのだろうか」という問題を熟考しました。
有史以前から信仰されていたオルフェウス神は、音楽家であり、竪琴の名手であるとされていました。オルフェウスはデルファイの神殿で、アポロ神から直接この楽器を賜ったとされています。美しいアポロ神は、ミューズ(人間の知的活動を司る9人の女神)の統率者であり、芸術と音楽の守護者でした。オルフェウスはアポロの教え子であり、竪琴の音色で野獣を魅了し、操ったり、魔法のような歌声で木や岩を踊らせることができたのでした。
この伝説に加え、オルフェウスはオルフェウス教として知られているギリシャの宗教の創始者であると言われています。この宗教の哲学的な理解によれば、人間の性質の神聖な部分は、古代トラキア人の神であるディオニュソスの火花に由来し、人間の性質の世俗の部分は、ディオニュソスを殺した古代世界の支配者であるティーターン(Titan:タイタン)の肉から取られたのでした。
オルフェウス教では、倫理的で道徳的な行いについて、厳格な基準に従うことが強調され、厳しい修行や清めの儀式も行なわれていました。自身が神であるのを知ることによって、人間の聖なる魂は、ティーターンから受け継いだ性質から解放されるのでしたが、それはオルフェウス神秘学派への参入(入門)を通じて、そして聖なる存在と一体になることを通じて、そして、自体の聖なる源へと完全に帰還するための生まれ変わりの過程を通じて、そうなるのでした。ピタゴラス、ソクラテス、プラトンは3人とも、「汝自身を知れ」ということを意味する、デルファイとオルフェウスの伝承に影響を受けていました。
ギリシャの神秘学を伝承する人々によって行なわれている多くの方法は、自分自身と〈創造主/神〉についての知識を得るのに大いに役立ちます。沈黙すること、心を静かに保つこと、清めの儀式、規律正しい生活、調和、鍛錬、音楽の使用、瞑想、詠唱、そして意識の拡大は、人間の進歩のために極めて有効な方法であることが立証されています。本人の強いあこがれ、変わることのない願い、そして探究者の忍耐が、この作業で実際に成功を得るために不可欠な要素です。
このような生き方は、今日においても、様々な方法で体験することができます。現代のバラ十字会と伝統マルティニスト会の教えは、このオルフェウス神秘学と同じ目標を目指しています。火はまだ燃えています。そしてその炎は、決して消えることはありません。
近代の英知と量子物理
Modern Wisdom and Quantum Physics
私たちの人生と、そして宇宙の神秘についての「知識と知恵と理解」の探究は、西暦2000年を境に視点が変わりました。それでも、かつて常にそうであったように、今でも、この神秘は巧みに姿を隠すものであり続けています。
今日では、私たちの体を作っている基本的要素は、遺伝情報であると科学が指摘しています。つまり、現代の科学によれば、全ての生物は、受け継がれた遺伝情報が見える形で表れたものです。人間とは、いくつかの種類のアミノ酸による物質的な表現であり、それらのアミノ酸とタンパク質は、細胞の核の中で、特定のパターンで互いに関連づけがされています。しかしながら、そのような繊細な相互作用が、どのようにして、幾千年もの間存続し、変わらないでいるかは明らかではありません。
それほど昔のことではありませんが、ノーベル賞受賞の物理学者エルヴィン・シュレディンガーは、このことに関連して次のような問いかけを行なっています。
「遺伝的な性質というものを、我々が話題にしているということだけでも、そのような性質が、ほとんど絶対的に変わらないということを私たちが理解しているということが示される。というのも、忘れてはならないことであるが、両親から子供に渡されるものは、……表現型(phenotype:遺伝子群によって表わされた生物の個体としての特徴)の全体的な(4つの種類がある)組み合わせであり、……そのような表現型は、感知できるほどには変化することなく、幾世代にもわたって再生されている。そして、受精卵細胞を形成するために結合した2つの細胞の核の物質構造によって、遺伝情報が伝達されるたびに、その表現型は生じている。」
「……確かなことに、遺伝子に含まれている原子の数は、およそ百万か、あるいは数百万以上であることはない。 ……その原子の数は、秩序ある、統計物理学の法則に従った挙動を示すには、はるかに少な過ぎる」
「何百年もの間の無秩序な熱運動の影響に曝されているもかかわらず、遺伝子がかき乱されずに保たれている理由をどう理解したら良いのか。」
「……ここで問題にされている物理の法則は、統計学的な法則である。その法則は、ものごとが徐々に秩序を失って(disorder:乱雑になって)いくという自然な傾向に関するものである。しかし、遺伝情報を運んでいる物質が、とても小さいにもかかわらず、極めて変化を受けにくいことと、物理法則が矛盾しないためには、分子が形作られていて、それによって秩序が失われる傾向が回避されていなくてはならない……。生命とは、秩序ある法則に従った物質の挙動のように思われる。それゆえ生命は、秩序から無秩序へと向かう物質の傾向だけに基づいているのではなく、少なくとも部分的には、現在存在し継続されている秩序に基づいているように思われる。……生物には、今のところ未知の『物理学の他の法則』が含まれているようである……」
「生物の種の寸分違わぬ性質が、遺伝暗号の中に表わされていて、世代を超えてもでたらめなものにはならないことから、未知の物理法則が存在するに違いない」とシュレディンガーは語っています。
シュレディンガーは、生命と健康を維持するためには「負のエントロピー」と彼が呼ぶものが重要であると語っています。「負の符号を付けるとエントロピーは、それ自体が秩序の指標になる。」
「遺伝情報を運ぶ物質が、とても小さいにもかかわらず、極めて変化を受けにくいことと、物理法則が矛盾しないためには……、『平衡』と呼ばれる不活発な状態へと急速に劣化してしまうのを避けることにより、秩序が失われる傾向が回避されなくてはならず、それゆえに、生物の体というのは極めて不可解なものに思われ、あまりにもそう感じられるので……. . 何らかの超自然的な力(たとえば活力(vis viva)とか生命力(entelechi)と呼ばれるような力)が、生物体の中で活動していると昔は主張されていた。」
「生物はどのようにして劣化を避けているのであろうか。……生物体は常に、その(正の)エントロピーを増加させている。……そしてそれゆえに、死という、エントロピーが最大である危険な状態に近づく傾向がある。生物が生きていられるのは、……負のエントロピーが、非常に活動的な何らかの環境から、常に供給されているときだけである。」
さらに自身の仮説を展開して、シュレディンガーは次のように述べています。「……生物体は負のエントロピーを食べることによって生きており、自体に負のエントロピーの流れとでも呼べるものを引き寄せ、自体が生きることにより生じるエントロピーの増加を打ち消している。」
宇宙のエネルギー
Cosmic Energy
このことは、理論として整合していて正しいことは明白です。しかしこの「負の」エントロピー、すなわち「自由エネルギー」はどこから来ているのでしょう。簡潔に答えるとすれば、宇宙のエネルギーです。
しかしながら、ここで私たちは、科学者シュレディンガーの複雑な議論から離れて、私たちがすでに知っているいくつかの言葉でこのことを表わしてみます。「自由エネルギー」とは、光合成という生命を支える現象を進めているのと同一のエネルギーであり、このエネルギーは恒星を輝かせている光から吸収することができます。
アインシュタインが述べているように、E=mc2という公式が成立し、エネルギーは質量に光の速度の二乗を掛け合わせたものとなります。ヘルメス学の用語を使えば、このように言うことができるかもしれません。「意識を有する、永遠の無限の光は、すべての源である。」
科学を古代の英知と結びつけることにより、私たちは次のことを学びます。自然界と私たちの意識の物理的な相互作用は、私たちが「自身を知ること」と、そして健康を保つことに役立ちます。というのも、私たちは実際のところ「例のもの」であり、意識とは「私である」からです。
シュレディンガーは最後に次のように締めくくっています。「客観と主観はひとつのものである。その間にある境界が、物理科学が近年経験したことの結果として破られたと言うことはできない。なぜなら、そのような境界は元々存在していないからである」。シュレディンガーは実際のところ「神を知る」ということについて言及していませんが、このことに極めて接近しています。
日常生活における応用
Practical Application in Daily Life
「汝、自身を知れ」という警句は、とても古いものですが、それにもかかわらず、現代生活にも十分に応用ができます。人間は神聖な存在であり、幸せとは、宇宙との深遠な対話と同調を常に保っていることに他ならないということを私たちは把握しなくてはなりません。私たちが知らなくてはならない「自身」とは高位の自己のことであり、個人のエゴに結びついている一連の否定的要素ではありません。私たちの正体は、身体ではありません。
自身を知るということに関するバラ十字会の伝統
Rosicrucian Traditions Concerning Knowing Oneself
かつてのバラ十字会代表であったラルフ・M・ルイスはこう書いています。「自己分析:……多くの並外れた事柄を行うことを私たちが学ぶのは、まさに、自分自身を見つめ、自身と周囲の事物について分析したいという強い促しが理由です。そうでなければ、私たちは、人間の進歩と社会の発達に、ほんのわずかしか貢献することができません。」
「私たちの本来の性質のほとんどは、私たち自身の中にあります。それゆえに、私たちはそのすべてに気づいていません。そのような能力を使って、人生で私たちは、いくつかのことをなし遂げますが、その能力をどこから得るかということについては、深く確信しているわけではありません……。」
「自己分析とは、自身の性質を明らかにすることだけを意味するのではありません。私たちの限界、つまり、まだ私たちにはなし遂げることができない事柄も明らかにします。自己分析は、完全な状態であると私たちが考えている理想から、私たちがいかに離れてしまっているかを示します。自身の改善すべき点をはっきりと指摘します。」
「しかし、人にはさらに第2の性質があります……。それはあこがれです。あこがれとは、自己の感情や願いや望みからなり、身体的な情熱とは異なっています。あこがれは、自身で設定した要求や何らかの理想を実現させることに満足を見いだします。自己分析を行なっているときに理性は、私たちに不足している何かを明らかにするかもしれませんが、自身が求めていることをなし遂げ、現在の状態を超えて自身を高めるように私たちが努力するように仕向けるものこそが、あこがれなのです。」
このような分析から、次の5つの真実が明らかになります。
1.自己分析は、自然の要求である。
2.自己分析は、我々の性質と限界を明らかにする。
3.自己分析は、「完全性」という理想であり望ましい状態であるものを私たちに気づかせる。
4.「心の中にあるあこがれ」は、私たちが型にはまった日常から高次の状態に上昇することを促す。
5.あこがれは、高次の理想を実現する喜びである。
神と私たち自身を知る秘密の方法は、もはや秘密ではありません。調和、神聖な音楽、瞑想、内的な沈黙、そして母音の詠唱は、自身の振動の不完全な部分を浄化するのに役立つ道具です。バラ十字の道における基本的な手法には、個人的な進歩を助けるこのような練習を実際に定期的に行うことが含まれています。
これらのテクニックを、ていねいに実践し、私たちは自身の凡庸な波動を徐々に繊細な波動に変えていきます。私たちは、最終的には聖なる波動と同調して、自身の真の性質についての確信を得ることになります。そして、偉大なる喜びと美、そして深遠なる平安に満たされることになります。
しかしながら「知る」という動詞の文字通りの意味に従って言えば、地上で肉体に宿っている人間のソウル(soul:魂)は、宇宙の様々な力の途方もない輝きを、人間の意識に知らせることはできないということを私たちは心得ていなくてはなりません。
肉体を持つ人間は、完全には「神を知る」ことができません。しかしながら、愛とあこがれと純粋な願いとともに、自身の心にある〈創造主/神〉を”知る”ことは確かにできるのです。
粘り強く練習を重ね、自身の波動を洗練したものにして、不必要な心配から自身を解放することによって、私たちは脳のおしゃべりを鎮めることができます。そして、「対象のない」瞑想の完全無欠な静寂の中で、私たちは永遠の輝きを垣間見ることになります。それこそが私たちの真の姿なのです。この素晴らしい経験は、この人生の間にほんの数回しか起らないかもしれません、それでもこのことは、自身の根本が聖なるものであること、そして真の命とは永遠のものであるという「確信」を得るには十分なのです。
そのような体験は、宗教的な文章では「啓示」もしくは「悟り」と呼ばれており、〈創造主/神〉の助けによって与えられる素晴らしい贈り物です。それは、誠実で粘り強い努力を惜しまない熱心な探究者に与えられることを、人類の歴史上に現れた多数の偉大な神秘家が示してくれています。
「自身を知り」、成長し、進歩する機会を私たち与えるために、古代の賢者が、この究極の秘密を明かしてくれたことに私たちは感謝します。 「我々は今、この永遠の中に存在する。
未来は、絶え間なく現在へと変わり、
次に、一瞬にして過去になり、
それは山肌を勢いよく流れ落ちる小川のようである。」
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第1号:内面の進歩を加速する神秘学とは、人生の神秘を実感する5つの実習
第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について