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自分とは何か-自己の本質の瞑想

2015年5月29日


 

こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。そろそろ梅雨が近いのでしょうか。東京板橋は、今日は午後から雨になっています。

そちらは、いかがでしょうか。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

この数週間ほど、「無我」という事柄について調べていました。このテーマは、さまざまな思想に関連し、探究されてきた歴史も長く、まだ調べ尽くしたというにはほど遠い状態なのですが、それでも興味深いことがいくつかありますので、今回、できるだけ分かりやすくご紹介させていただきたいと思います。

まずは「我」という言葉についてです。現代の日本語では「我を張る」とか「我が強い」というように、自身の意見に凝り固まっている、いわゆる“エゴ”のことを指す場合が多いようですが、古代の中国語では、「我」と「吾」はいずれも、単に自分という意味だったとのことです。

そして、現代の仏教用語の「無我」の中の「我」という語は、この2つともやや異なり、「永遠不変の実体」というような意味で使われています。

つまり、人間という存在や物事の根底に、「魂」や「神」といったものを人は考えがちですが、そのような永遠不変の実体は、実際には存在しないという見解を「無我」という言葉は表わしています。

 

中村元(なかむらはじめ)さんは、20世紀の中頃に活躍された哲学者で、特にインド哲学と仏教哲学の大家でした。彼の行なった仏教文献の研究によれば、「無我」という漢語に翻訳された最初期の仏教の考え方は、先ほどのような現代の意味とも大きく異なります。

「無我」の元々の意味は、次の2つのアドバイスだということです。

1.財産、地位などを自分に属するものだと考えたり、執着したりしない。

2.ほんとうは自己の本質でないものを、自分自身だと考えない。

 

このうち1の意味は、仏教以外のさまざまな伝統思想でも述べられている、割と分かりやすい事柄です。ある品物を特定の個人のものだと定めたり、ある集団での立場や地位をある人にあてがうのは、単なる社会的な取り決めです。

このことを忘れて、財産や立場や地位のことを、何か永久に自分に属するものだと考え、それと自己を心理的に同一視してしまうと、状況の変化によってそれが奪われたときに大きなショックを受け、なかなか立ち直れなくなることがあります。

「万物は流転する」、「諸行無常」というような言葉の通り、この世の状況は常に変化しているため、このような心理状態からは「苦」が生じるので避けなさいと、原始仏教は教えています。何と健全な、素晴らしいアドバイスでしょうか。

仏教寺院と石庭

 

さて次に、第2の「ほんとうは自己の本質ではないものを、自分自身だと考えない」というアドバイスについて見ていきましょう。

 

まず、考えていただきたいのですが、ほんとうの自分とは、自分の身体のことでしょうか。

一例として、自分の手足などは自分の一部のように思えますが、たとえば、不幸な事故によってその一部を失ったとしても、自分の真の本質、つまり自分が自分であるということには、何の変わりもありません。

しかし、脳はどうでしょうか。脳の働きがすべて損なわれてしまえば、私たちは生きていることができません。そこで、脳という物質からなるシステムの働きが、ほんとうの自分だと考えることは、それほど非論理的なことではないように思われます。それどころか、実際にこう考えている現代人は、かなり多いのではないでしょうか。

 

原始仏教の文献には、このような唯物論に対する批判がすでに見られます。この場合唯物論とは、身体のことを自分自身だと見なす考え方を指します。そしてそれは、仏教の教えをまるで理解していない愚かな人の考え方だと説かれています。

ちなみに、身体という物質からなる現象だけで、人間という存在が説明できるのかという議論は、現代までずっと続いていて、結論がまだ得られていない大問題です。

 

さて、以前にこのブログでも話題として取り上げましたが、私たち人間は、物質からなる現象そのものを知ることはできません。五感の働きによって、物質から発した振動を心に捉えることができるだけです。

そこで、見方を変えて、心の中にある要素をひとつずつ取り上げて、それが真の自分かどうかを調べてみるとどうなるでしょうか。

 

まず、心の中には、今ご説明したように、感覚によって引き起こされるイメージがあります。五感に対応する、視覚イメージ、聴覚イメージなど5種類のイメージが主ですが、それ以外にも、内臓の感覚、平衡感覚、筋肉の緊張などが作り出すイメージもあります。

さて、これらのイメージは真の自己でしょうか。感覚遮断と呼ばれる実験があります。自分の体温と同じ温度の液体で満たされた、真っ暗で無音のタンクの中に横たわって浮かぶ実験です。ほとんどの感覚イメージがなくなってしまっても、自分自身は確かに存在しています。ですからイメージは真の自己ではないことが分かります。

 

心の中には、イメージにやや似ていますが、観念もあります。たとえば、「犬」、「ネコ」、「植物」、「動物」のような観念です。ネコのイメージとは、一匹のネコのある具体的な姿や鳴き声ですが、「ネコ」の観念とは、ネコとはどういうものかという一般的な考えです。もっと複雑な観念の例としては、「愛」、「真理」、「平和」などがあり、概念と呼ばれることもあります。

ちょっと想像するのが難しいですが、すべての観念と概念がなくなったら、自分は存在しなくなるでしょうか。そんなことはないように思えるのではないでしょうか。そうすると、心の中の観念も自分自身ではないことになります。

 

次に、心の中には、記憶と想像があります。感覚のイメージが保持されると記憶になり、それらのイメージが、受け取った時とは別の仕方で組み合わされると想像になります。では、何も感じていないだけでなく、何も思い出さず、何も想像していない状態を思い浮かべてください。あなたは自分自身でなくなってしまうでしょうか。そんなことはありません。

ですから、記憶と想像も真の自分自身ではないようです。

 

観念が組み合わされ操作されると思考や判断になります。また、何らかの行動をしようとする心の働きは意志と呼ばれます。思考や判断や意志は自己だと見なすことができるでしょうか。何かを考えているのでもなく、何かを行なうことを望んでいないとしたら、自分自身はなくなってしまうでしょうか。そんなことはないようです。やはり、思考や判断も意志も、自分自身の本質だとは言えないようです。

 

ここで、次のことを行なってみてください。これは、自己の本質を調べる簡単な瞑想の一種です。

 

ひとりになれる静かな場所で、椅子に座ります。できれば部屋の明かりは控えめにします。お好みであれば、お香を焚いてください。両手は手のひらを下にして膝の上に置き、背筋は軽く伸ばします。そして、深呼吸を数回繰り返してリラックスします。

次に、心の中から、イメージ、観念と概念、記憶、想像、思考、判断、意志がすべてなくなった状態を思い浮かべてください。心を落ち着けて、じっくりと探ってみてください。残っているものは何でしょう。

そうです、感情が残っています。だいぶ自分自身の本質に近づいてきた気がするのではないでしょうか。もし、自分のすべての感情がなくなってしまったら、自分はもはや自分自身ではなくなってしまうのではないでしょうか。

可能であれば、さらに先に進んでください。

深い瞑想状態において、感覚や思考を一時停止するだけでなく、同時に感情を静めたとします。実際にこのことを行なうには、通常は練習が必要ですが、想像してみてください。そのときには何が残るでしょうか。

 

イスラム教の神秘学にあたるスーフィーズムの系列に属するハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)という思想家は、このような瞑想体験に関連する、次の言葉を残しています。

「とうとう、あなたを見つけた。私の心の殻の中に、ひとつぶの真珠のように隠れているあなたを。」

 

しかし、この最後に残ったもの、自己の本質だと思われるものを、たとえば「真善美の源泉だ」などと名前をつけて声高らかに宣言することには、心の深奥を探究されている方々の多くが抵抗を感じるようです。

何となく、美しい部屋の白い壁を、汚れた手で触るような違和感があるのです。

この違和感にあえて理由を付ければ、それは、純粋な体験を、単なる観念にしてしまうことで、おとしめてしまい、何かを失うような感覚です。

 

ですから、このような純粋な体験には、名前も付けず、分析せず、あえて体験のままにしておくのが良いようです。

 

いかがでしょうか。今回は、自己の本質を探る瞑想をご紹介しましたが、瞑想には、さまざまな種類があります。瞑想は自己実現の助けとしても、また、何の目的もなくても、さわやかで健康的な習慣です。市販の書籍でも方法が紹介されていますし、当会で学ぶこともできます。まだご経験なさったことがなければ、この機会に取り組まれてみてはいかがでしょうか。

以上、少しでもあなたのご参考になった点があれば、心から嬉しく思います。

 

それでは、また。

 

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