こんにちは。バラ十字会の本庄です。いかがお過ごしでしょうか。
昨日は、「はやぶさ2」の2回目のタッチダウン中継を見ていました。世界中の人たちの協力でなし遂げられた人類の歴史に残る快挙に感激しました。地球に戻ってくるのは来年の終わりごろのことで、無事な帰還を心から願っています。
さて、札幌で当会のインストラクターをされている私の友人から、親友に勧める酒についての寄稿をいただきましたので、ご紹介します。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(16)
『勧酒』-于武陵
別れの宴には酒が付き物なのかもしれません。中国は唐の終わりごろの詩人、于武陵(う ぶりょう)に『勧酒』という作品があります。友人との別れを惜しむイベント(催し)で、五言絶句の形式を用いて、去りゆく友へ酒を勧め己の心情を吐露する内容です。
まず原文(白文)を見てみましょう。
勸君金屈巵
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離
次に読み下し文です。
君(きみ)に勧(すす)む 金屈卮(きんくつし)
満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
花(はな)発(ひら)けば 風雨(ふうう)多(おお)し
人生(じんせい) 別離(べつり)足(た)る
では、内容を見てみましょう。
あなたに勧めよう、この大きな金の杯を。
杯になみなみと注がれた酒を辞退する必要はないよ。
花が咲くとたちまち雨や風が多くなるように、
人生にも別れは多いものだ。
酒を勧める行為から作者が宴のホスト(客を接待する側の主人)であることが判ります。去って行く友に餞(はなむけ)の気持ちを表しています。「今までありがとう、未来に向かって歩んでくれ。幸運を祈る!」と。つまり、友が去るのは寂しい、しかし、仕方のないことだ、友のために潔く送り出そうということです。
花が咲くと雨や風に曝されてしまうことが多くなるように、誰かと知り合ってその人と絆ができると別れが訪れてしまうのも多いものだ、そう自分にも言い聞かせているわけです。その情景が古い中国映画を観るように脳裡に歴然と浮かびます。
さて、この詩を元に和訳したもので、有名なものが井伏鱒二の作品にあります。それを見てみましょう。
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾ ナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノ タトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
元の五言絶句を日本風の七五調に変えています。当然、日本人にはこちらの方が受け入れやすいと思われます。そしてこれは完全に井伏鱒二の世界になっています。もう別物といってもいいでしょう。
つまりこれはこれで井伏鱒二の作品です。特に「サヨナラダケガジンセイダ」という表現は達観している、というよりちょっと斜(はす)に構えた感じが漂います。原詩にはない世界観です。
井伏鱒二(1952年に撮影)。角川書店「昭和文学全集36巻(1954年5月発行)」より。[Public Domain]
この井伏鱒二版に出てくる「サヨナラダケガジンセイダ」に感化され、寺山修司は『幸福が遠すぎたら』という詩を書いています。その一部を見てみましょう。
さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう
(中略)
さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません
まさに寺山修司らしい詩です。もろに日本人、特に東北人のメンタリティが織り込まれています。引き付けられます。
『勧酒』や寺山修司の詩は、「人生」が主体になっていますが、井伏鱒二の方は「サヨナラ」が主体になっています。これは、井伏版は想像の度合いが大きく、本気度が低いのかもしれません。
なぜなら「別れるために人生がある」とは考えづらいです。結果的に別れが訪れると思われて然るべきです(この観点については禅の思想にも関連するでしょうが、また別の機会に考えてみたいと思います)。
于武陵の原詩を読み解けば、花が咲けば必ず風が吹き雨が降るわけではないように、人生も必ず別れが訪れるわけではありません。于武陵はこの友人と別れることを前提に付き合ってきたわけではないでしょう。
別れは突然で、もしくは判ってはいても、心穏やかならざるものであるということをこの詩に託したのだと思います。
ところで、私自身のことを思い出すと、17~18歳の頃、アルチュール・ランボーがお気に入りでした。
「~一匹の野兎が、岩黄蓍(いわおうぎ)と揺れ動く釣鐘草の中で立ち止まり、蜘蛛の巣越しに虹にお祈りを捧げた」というフレーズが初めの方にある、『イリュミナシオン』に収められている『大洪水の後で』を読んでガツンと頭に一撃を食らった気分でした。
そんな体験を当時、私の倍ぐらいの年齢の大人に話したら、「それって、英語や日本語で読んでないよな。ランボーは原語で読まなくちゃ意味ないよ」と言われてしまいました。私は口惜しいながらもなるほどと思い、ランボーを封印してしまいました(ちょっと大げさ)。確かに彼の言説は的を射ていると言っていいでしょう。
当時、同じように気に入っていた八木重吉の『雲』という詩があります。
くものある日に
くもはかなしい
くものない日に
そらはさびしい
これは日本人が日本語で読むから八木重吉の世界を共有できるのです。20年近く前に『ことばに出して読みたい日本語』というのが、ちょっとしたブームになりました。要は、その言葉と音には強い繋がりとエネルギーが宿っているのです。
神秘学では瞑想の前などに「母音詠唱」を行ったりします。この場合の『母音』はaiueoの母音ではなく、本来の”Vowel sound”、つまり「声として発する音」ということです。「母音」のそれぞれの音にはそれぞれの振動数とパワーがあり、精神にもそれぞれ特有の影響を与えます。
今回の『勧酒』も原詩を見ながら原語の発声で聴くのがお勧めです。
なお、ここ20年ぐらいは、私は積極的には飲酒をしておりません。特に禁酒をしているわけではないのですが、昔から思考が緩慢になるのが好きではないからです。まあ、この詩のように誰かから勧められたら、喜んで戴きますけれどもね。
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ふたたび本庄です。
上の文章には、ランボーの詩集『イリュミナシオン』が登場しました。バラ十字会の通信講座で神秘学を学んでいる方々の多くは、この題名が気にかかったことと思います。
そこでは、「直観」(Intuition)、「インスピレーション」(Inspiration)、「イルミネーション」(Illumination、フランス語読みではイリュミナシオン)という3つの「I」が、神秘体験の3つの種類にあたるという説明がされています。
下記は、森さんの前回の記事です。
では、今日はこのあたりで。
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