こんにちは。バラ十字会の本庄です。
台風シーズンに入ったせいでしょうか、大雨が多いですね。各地の土砂崩れや浸水のニュースを見ると心が痛みます。
週明けに、またひとつ台風が来るそうです。くれぐれもお気を付けください。
さて、札幌で当会のインストラクターをされている私の友人に寄稿をお願いしたところ、実に本格的な文章をお寄せいただきました。
小説の中には、作者が自分の命を削るようにして創作されたものがあることが思い起こされます。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(17)

『弥勒』-稲垣足穂(たるほ)
物語の始まりは、「江美留には、或る連続冒険活劇映画の最初に現れる字幕が念頭を去らなかった。明るいショーウインドウの前をダダイズム張りの影絵になって交錯している群衆を見る時、また夏の夜風に胸先のネクタイが頬を打つ終電車の吊革の下で、そのアートタイトルは──襟元にただよう淡いヴァイオレットの香りといっしょに──なかなかに忘れがたかった。」と述べられます。
この部分では映画の大画面に映し出されたであろうカリグラフィーなタイトル文字を描写しています。
映画のタイトル画一つを説明するのに視覚や触覚を細かに陳述し、あまつさえ嗅覚をも呼び起こします。読者は一気に作品世界へ取り込まれていくことになります。
物語は短編の連なりのように紡がれていき、それらがひとつの体系となるセル(胞)群であることに気付いていきます。
あたかも巨視的には人間の魂(ソウル)の遍歴のように、それぞれの人生も一生という単独のようでありながら、ひとつの書物のページのように繰られることで輪廻転生が続いていくのです。
全編に散りばめられた未来都市と孤独な飛行機乗りを夢見た主人公の幻想譚。そしてフランスの神秘家ギュイヨン夫人とモンテクリスト伯、さらにベルグソンへの憧憬などがゼンマイ仕掛けのように、星々の軌跡とポン彗星(ポンス・ヴィネッケ彗星)の周期のように訪れます。
我々読者は鼻の奥がつんと来るような想い出に襲われながら、ノスタルジーに埋没するのではなく、そこから飛翔するビジョンを顕現させるのです。
主人公の江美留は自身の幻想が幾多の登場人物と入れ替わっていきます。
「イリュージョンが過ぎ去ろうとして彼は彼女の胸に倚(よ)りかかって、静かなハートの音を聴いていた。それは恰(あたか)も新世界の偉大な呼吸に通じているのかと訝(いぶか)しまれた。『や!』と彼は叫ぶ。『貴女の胸の中でプロペラーが唸っている』」
こんなゾクゾクする描写を提示されて読者としては抗えるはずもありません。
稲垣足穂(1948年)、朝日新聞社 [Public domain]
江美留は菩薩の写真を見せてくれた夫人にこう伝えるべきだったと気づきます、「(前略)弥陀の声が筬(おさ)のように行き交うている虚空の只中で、この銀河系は何十回も廻転しました。地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった。(後略)」と。
ここまでが物語の第一部です。この作品は二部構成になっており、第一部はいわばマクロコズム(宇宙)的想像で、第二部はミクロコズム(人間・個人)的思索です。そして神秘学的に言われる「上のように下にも(as above, so below)」に相通じる作りになっています。
マクロコズム世界とミクロコズム世界が二元的に存在していますが、時々マクロコズム世界の裂け目からミクロコズムの世界が覗けたり、飛び込んできたりします。さらにそれは逆の立場でも起こり得ています。
なんとなれば主人公の江美留は著者の足穂でもあるからです。たとえば作中のH・S氏は作家の佐藤春夫であり、実際の足穂とのエピソードが盛り込まれています。
作品冒頭には次の文章が置かれています。
「この未来の宇宙的出来事が間違いなく起こるということは、哲学にとっても将又(はたまた)自然科学にとっても疑問の余地がない。何故なら、如何なる進化も、進化としてはその概念の性質上、一つの終局を有(う)たなければならない。即ち、その目標に、その目的に到達しなければならないからだ。」
これは人類の存在証明の定理となりうるのではないでしょうか。
木造弥勒菩薩半跏像(国宝・広隆寺)、小川晴暘・上野直昭 [Public domain]
第二部において、絵美留は古びたアパートの二階の一室、それも墓地のほとりに暮らしています。暮らしぶりは赤貧洗うがごとしです。いや清貧です。
文中では「(前略)そしていまや身辺皆無という処だが、しかし実際は、身につけている筒袖の単衣と、腰に巻き付けた布製バンドと、他にタオルと洗面器と枕と、傷んだ字引と、下駄、これだけが彼の所有品であった。」と説明されます。
彼はもはや死ねないから生きている、死を迎えるためだけに生きているというような胸中になっています。救いは微塵もないかのようです。
終盤、彼の所有物はさらに無くなっていきます。我々読者は怒濤のごとく繰り出される極貧ぶりに精神的苦痛までも沸き起こります。
ところが江美留は、自死は言語道断とばかり退けます。「自殺者は途中で放棄したのだから、却って出発点まで自分を引戻してしまう」と喝破します。
彼は清貧ゆえに何度も何日間も断食状態に陥り、幻覚を体験します。
私の妻も体調がすぐれず落ち込んで引きこもって寝ていたとき、視界に入る天井の火災報知器に貼られたラベルが天然色の『生命の木』に見えてくる、いやそれにしか見えないと言っていました。
文中では、「魂は苦悩と悲哀とによって鍛錬されねばならない。われわれは魂の向上の妨げになるものに対しては戦い続けねばならぬのであるが、これも、より上位な霊の加護がなくては為し能(あた)わない。」と述べられています。
そして「『それが即ち汝』(Tat-tvam-asi)」という言葉が彼の心に響き続けたのです。
彼は1920年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士』(Das Cabinet des Doktor Caligari)を何度目かに観たあと、「これは出来すぎている、ここに在るのは映画ではなくて一つの自然である」という思いに駆られます。
そしてショーペンハウエルにインスパイアされて、「既に意志に隷属するのではない。人間とは認識にまで到達すべきである」、つまり認識する主体に到達すべきという考えに至ります。
情念の為すがままでは悲観主義に落ちて行ってしまいます。困難も幸福への道程たり得ます。人生を能動的に見つめ『自分の人生を支配する』という解に至るのです。
江美留はいみじくも思い見ます、「目指す人間とは何であるか? それは自分自身である」。これらの結果、ついに彼は、菩薩は「そうしてまたこう考えている自分の大脳の中にも、おそらく数ミクロンの光束となって納まっている?」と自分の使命を悟ります。
五十六億七千万年後に訪れるのは自分自身でなければならないと。
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ふたたび本庄です。
蛇足かもしれませんが補足しますと、仏教の説話では、ゴータマ・ブッダの入滅後56億7千万年が経つと弥勒菩薩が地上に現れ、悟りを得て、人々を救うとされています。
下記は、森さんの前回の記事です。
では、今日はこのあたりで。
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