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表現の自由について

2018年2月16日


 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

平昌で行われている冬季オリンピックが盛り上がっていますね。一流のスポーツマンが全身全霊で繰り広げているドラマには人生の縮図が垣間見られるようで、とても不思議な気がしています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、インターネットの普及によって、私たちの誰もが、多くの人に向けて自分の意見や考えを発信することができるようになりました。

そして皆さんも感じられていることと思いますが、このことは諸刃の剣であり、社会に望ましい影響とそうでない影響の両方を与えています。

 

当会のフランス代表が、自身のブログに先週、「表現の自由」についての記事を発表していますので、その翻訳をご紹介させていただきます。

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バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

記事「表現の自由について」

 

まず最初に、これから私が述べることは私個人の意見であり、バラ十字会AMORCの公式見解ではないと言うことをはっきりさせておきたいと思います。

バラ十字会AMORCでは、多様な意見や信念が存在することが、常に歓迎され促されているため、当会のメンバーや指導者の間には、画一的な傾向はほとんど見られませんし、全員が異議なく同じ思想に同意することもあまりありません。

当会には、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、その他の宗教を信奉している人もいますし無宗教の人もいます。また、さまざまな政治的な見解を持つ人もいます。

 

表現の自由は貴重な権利であり、あらゆる人に認められ高く評価されるべきです。

この権利を確立するために、多くの国で、多くの人たちの血と涙が犠牲として必要とされました。

手錠をかけられたペンを持つ手

 

民主主義国家の多くでは、世界人権宣言の第19条を基礎にして、この権利が保証されています。この条項にはこう書かれています。

「意見の自由と表現の自由は、すべての人が持つ権利である。この権利に含まれるのは、妨げられることなくさまざまな意見を持つ自由と、あらゆる媒体を通して、国境に無関係に、さまざまな情報と考えを、調査し、受け取り、伝える自由である」。

この第19条は、表現の自由にかかわる論争に裁定を下すための法律や判例の基準として、実際に広く用いられています。

 

人権宣言や法律によって、表現の自由を保証するこの取り組みを私は高く評価しています。

しかし一方で、それだけでは完璧ではないと考えています。私の意見では、敬意と寛容の精神に基づいた倫理的な要素が、そこに付け加えられるべきです。

 

表現の自由の名のもとに、自分の考えたあらゆることを人が述べたり書いたりした場合には、過激な論争、心と心の間の溝、対立、分断がどうしても生じ、個人や地域社会や宗教や政党などが、互いに力と力でぶつかり合う事態が発生してしまいがちです。

現在の世界は、かつてないほど、和解と協力へと向かう努力をしなければならない状況にあります。そして、対話と意見の交換、合意点を探す努力を促すことによってだけ、和解と協力はなし遂げることができます。

 

表現の自由を最初に主張したのはジャーナリストたちです。この人たちの仕事や使命は表現の自由を行使することが基礎になっていますので、それは当然のことです。

しかし、不要な論争を巻き起こすことを私は望んでいるわけではありませんが、新聞や本に書かれていることや、ラジオやテレビ放送で報じられていることが、事実でなかったり、誤解を招くことであったり、中傷や名誉毀損でさえあることが珍しくありません。

車に殺到する記者の群れ

 

誰にも反論の機会が与えられているという主張がありますが、特にメディアへの反論は、考えているほど簡単なことではありませんし、信用や名誉が損なわれた場合に、受けた被害を完全に回復することはほとんど望めません。

裁判に訴えることができるということも確かに事実ですが、この場合も、名誉が毀損されたという判決を勝ち取るのは極めて困難なことです。

報道ではなく中傷が目的だったということを、被害者側が立証しなければならないからです。

 

インターネットが普及したため、「表現の自由」の名のもとに、極めてやっかいな状況が生じています。あらゆる事柄をあらゆる人に向けて、誰もが言ったり書いたりすることができるだけでなく、匿名でそうすることができるからです。

このことから、道徳にも民主主義にも反する事態が生じています。誰もが知っているように、多くのインターネットユーザーが匿名という隠れ蓑(みの)に守られて、複数のアカウントを使ったりして、噂やウソや中傷を広めたり、憎悪を駆り立てたりしています。

 

このような場合、法的な枠組みはほとんど機能していないので、裁判を起こして勝訴するのは極めて難しいことです。

さらに、インターネットのサーバーが設置されている国ごとに法律や規制が異なっているので、リスクなしに誹謗や中傷を行うことが、ほとんどいつでも可能です。

 

インターネットや他の手段を用いる場合であっても、表現の自由を行使する前に、自分が言ったり書いたりしようとしていることが、健全であり、役に立つことであり、客観的かどうかを誰もが考えるべきです。

もしこれらの基準を満たしていないならば、自分で自分を検閲する聡明さを私たちは発揮すべきではないでしょうか。

 

私の考えでは、「表現の自由」の名のもとに、このような聡明さを多くの人が投げ捨ててしまっています。

そして、“表現”という言葉は、倫理観や聡明さに欠けていることさえ意味するようになってしまいました。

別の言葉を用いるならば、何はともあれ、自由とリバータリアニズム(訳注)が混同されるべきではないと言うことができます。

 

訳注:リバータリアニズム(libertarianism):徹底した個人主義を唱える思想。国家による市場介入・セーフティーネット・富の再分配(リベラリズム)に反対し、共同体の伝統や慣習の重視(コミュニタリアニズム)にも反対する。

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

本稿はそのブログからの一記事。

△ △ △

 

下記は、前回紹介したセルジュ・ツーサンのブログ記事です。

 

参考記事:『エコロジーについて

 

皆さんは、「表現の自由」についてどのようなお考えをお持ちでしょうか。

この記事が、このことについて改めて考えるきっかけになれば、心から嬉しく思います。

 

では、今日はこの辺りで。

また、お付き合いください。

 

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