投稿日: 2016/05/06
最終更新日: 2026/01/06

 

エディット・ピアフの代表曲

2025年は、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)の生誕110周年でした。

彼女の代表作『愛の讃歌』は、越路吹雪さん、美輪明宏さん、加藤登紀子さん、大竹しのぶさん、宇多田ヒカルさんなど、多くのアーティストによって日本語でカバーされていますし、紅白歌合戦でも何度も歌われています。

2024年のパリ・オリンピックの開会式では、セリーヌ・ディオンさんがエッフェル塔のステージで歌い、話題になりました。結婚披露宴で歌われることもあり、ほとんどの方が耳にしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、下記をお読みいただくと分かるように、フランス語オリジナルの歌詞には不吉な言葉が並び、悲痛さ、不安定さを感じさせるものです。これからご紹介しますが、既婚者であったプロボクサーのマルセル・セルダンとの恋愛が関連しています。

『愛の讃歌』の歌詞の日本語訳

青い空が、私たちの上で崩れ落ちても、大地が砕け去っても、たいしたことではないわ。あなたが私を愛しているならば。私の朝に愛が満ちあふれ、私の震える体が、あなたの両手に包まれている限り、世界のことなどどうでもいいの。何が起こってもかまわないわ。愛しい人、あなたが私を愛しているのだから。

あなたがそうしてほしいのなら、世界の果てへも行くわ、髪を金色に染めたっていいわ。あなたがそうしてほしいのなら、月だって取ってくるし、泥棒もやるわ。あなたがそうしてほしいのなら、国だって捨てるし、友だちも裏切るわ。あなたがそうしてほしいのなら、人が笑おうと、何でもやるわ。

もし人生のある日に、あなたが遠くへ行ってしまうとしても、あなたが死んで、私から離れてしまうとしても、あなたが私を愛してくれているならかまわない。私も一緒に死ぬから。私たちには永遠があるのだから。果てしなく広がる青色の中で、空の上では、もう何の問題もないわ。愛しい人、あなたは二人の愛を信じるかしら。

神は愛し合う二人を、再びひとつにしてくださるわ。

(和訳は筆者)

ピアフのもうひとつの代表作『ラ・ヴィ・アン・ローズ』(バラ色の人生)は、第二次世界大戦からフランスが復興をとげるときに、ドイツ占領下で傷ついた多くの人たちの心を癒したため、第2の国歌と言われるほど人気がありました。

エディット・ピアフの写真と楽譜

本名の由来と初期の悲劇

エディット・ピアフの本名はエディット・ガション(Edith Gassion)ですが、このエディットという名は、英国人の看護師イーディス・キャヴェル(Edith Cavell)から取られたのだそうです。第一次世界大戦でイーディスは、両陣営の兵士の命を差別することなく救い、ドイツ占領下のベルギーから連合国兵士が脱出する手助けをしました。

このような行いが理由で、イーディスは軍法会議で反逆罪の判決を受け、世界中で巻き起こった助命活動にもかかわらず、エディット・ピアフの生まれた1915年にドイツで銃殺刑になっています。

この話を知ったとき、かなり不思議な感じがしました。エディット・ピアフの両親はいったいどのような思いで、生まれたばかりの女の子にこの名前を付けたのでしょうか。自分の娘がイーディス・キャヴェルと同じように、人が人を愛することの素晴らしさを、命を賭けて世界中に訴えることを望んでいたのでしょうか。それとも、何らかの形でそれを予感していたのでしょうか。

ピアフの母はイタリア系の歌手、父は大道芸人だったそうですが、それ以外には、ほとんど何も知られていないようです。

ピアフは14歳から、パリの貧しい地区でストリート・ミュージシャンをしていました。彼女の人生には、さまざまな悲劇がつきまとっています。16歳のときに近所の運送店の若い配達人に恋をして、未婚のまま彼との間に女の子をもうけマルセルと名付けますが、この子は2歳のときに小児性髄膜炎で亡くなっています。

「小さなすずめ」(ラ・モム・ピアフ)の誕生

20歳のときにピアフは、パリの有名なナイトクラブ「ルプレー」の支配人に才能を認められ、その舞台で歌うようになります。身長が142センチしかなかったので、支配人は「ラ・モム・ピアフ」(小さなすずめ)という名を考えだし、最終的には、エディット・ピアフという芸名ができあがります。

飾り気のない黒いドレスを着て舞台に上がり、両手を振り上げて歌詞を強調し、全身を使って歌い上げる彼女のスタイルは、当時の流行とはまったく異なっていたため、最初は人気がなかったようです。しかし、人の心をわしづかみにするようなその歌声に徐々にファンが増え、第二次世界大戦後には、世界的なスターになっています。

ナイトクラブの誰もいないステージ

『愛の讃歌』と悲恋、二度の結婚

戦後間もなくピアフは、フランス領アルジェリア出身のプロボクサーのマルセル・セルダンと出会い、既婚の彼と恋に落ちます。『愛の讃歌』はピアフ自身が作った歌詞ですが、セルダンへの思いを表わしていると言われています。

1949年に、ピアフはコンサートのためにニューヨークに滞在していました。このコンサートでは、新作『愛の讃歌』が発表されることになっていました。同地での試合が決まったセルダンにピアフは、「とても待てないの、早く会いに来て」と手紙を書きます。セルダンは船の予約をキャンセルして飛行機でニューヨークに向かい、あろうことか、事故に遭って亡くなってしまいます。

飛行機の墜落が、親友の女優マレーネ・ディートリッヒからピアフに知らされます。『愛の讃歌』には、あなたが死ねば私も死ぬという内容の歌詞が含まれるため、ディートリッヒは親友のピアフのことを案じて、歌うのを止めるように頼んだそうです。しかし、ピアフは予定通り公演を行ない、この歌が発表されました。

1951年にもピアフを悲劇が襲います。自身が自動車事故に遭ったのです。そのとき鎮痛剤として使ったモルヒネの影響で、ピアフはその後の長期間、モルヒネ中毒で苦しむことになります。

ピアフは二度結婚しています。最初の相手は歌手のジャック・パルで、二番目の夫はテオ・サラポです。サラポは彼女より20歳年下で、ピアフが亡くなる一年前に彼女と結婚し、最後まで添い遂げています。ピアフは48歳のときに亡くなり、一本のバラを胸に抱いた姿で埋葬されました。

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エディット・ピアフの墓 By Adrian Pingstone (uploaded to English Wikipedia June 14, 2003) [Public domain], via Wikimedia Commons

真実のピアフ像

このようなエディット・ピアフの生涯は、「愛と悲劇の人生」と呼ばれることがあります。

そして、私たちは時としてピアフのことを、愛に生き、愛に傷つき、酒と薬に溺れ、激情に任せて人生を駆け抜けた、理性的というよりは感情的な女性とステレオタイプに考えてしまいがちです。

しかし、すべての人と同じようにピアフにも、複雑で深い様々な側面があります。

このことは、考えてみれば当然のことかもしれません。人の心をわしづかみにするような深みのある歌で世界的に名をとどろかせた人の心の奥に、その表現の背景となる深い思いや考えがないとしたら、それは、かなり不可解なことではないでしょうか。

たとえば第二次世界大戦のときにピアフは、ドイツに占領されていたフランスで、レジスタンス活動に手を貸していたことが知られています。その姿には、最初にご紹介した看護婦のイーディスと重なるヒューマニストとしての側面があります。

彼女のセンセーショナルな姿ではなく、真の姿に迫ろうとしている伝記作家が何人もいます。フレデリック・ブラはそのひとりです。彼の父である作詞家のジャン・ドレジャックはピアフの親友でした。フレデリック・ブラは、ピアフについてこう書いています。

エディット・ピアフはマスメディアに、しょっちゅう取り上げられます。この数年、彼女の伝記が多く書かれましたし、彼女を扱った映画『ラ・モム』は世界的な成功を収めました。この衝撃的な映画は、刺激を求める現代的風潮に合わせて作られ、彼女の生涯があまりにも歪められてしまいました。この映画を見た後に、エディット・ピアフについて観客は本当に知ることができるだろうかと私はいぶかしく思います…。監督は才能があるにもかかわらずエディットのことを、薬物中毒で恋愛中毒の、またたく間にスターに上り詰めた、思い上がったストリート・ミュージシャンとして描いています。しかし別のエディットが、知られていない秘密の彼女がいます。彼女の意志力、心のもろさ、成功、失意、事故、健康問題、数々の恋愛、復活劇という表面的な要素の背後には、深い信念と高い教養を持ちあわせた、生きることの価値と人生の神秘を常に探ろうとしていた一人の女性がいるのです。

この文章に出てくる『ラ・モム』は、2007年にフランスで製作されたピアフの伝記映画で、日本での公開名は『エディット・ピアフ-愛の讃歌』です。ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

バラ十字会への入会

エディット・ピアフは、40歳のときにバラ十字会AMORCに入会しています。彼女の申込書には、入会の動機がこのように書かれています。

「私は真実を探求すること、また、神を身近に感じ、神の驚くべき神秘を深く理解しようとすることに、とても大きな喜びを感じます。」

エディット・ピアフの入会申込書
エディット・ピアフの入会申込書

親友の作詞家ジャン・ドレジャックによれば、入会時にピアフは、バラ十字会の学習が、自分が興味をいただいている探究の役に立つかどうか、あまり確信を持っていなかったようです。

しかし、現在の当会の世界中の多くの会員と同じように、ピアフも月に4冊の教本を受け取り、その後の8年間、神秘学(mysticism:神秘哲学)と形而上学の学習を続け、生涯の最後まで会員であり続けました。

これは私の想像ですが、〈一なるもの〉などと呼ばれている絶対存在、顕在意識と潜在意識と身体のメカニズム、誕生と死、カルマの法則と人生の意義の関連などを含む、首尾一貫した考え方に触れたのは、彼女にとって初めての体験だったのではないでしょうか。

ピアフは1957年に、フランス本部のバラ十字会員と自分の秘書と一緒に米国本部を訪問し、記念の写真を残しています。

エディット・ピアフとバラ十字会AMORCの米国会員(1957年)
1957年にエディット・ピアフ(下段中央)が当会の米国本部を訪れたときの写真

変容

また同じ時期に、ジャン・ドレジャックに、バラ十字会員になったことで得た喜びを象徴的に表わす歌詞を書いてくれるように頼んでいます。そして、次の曲が生まれました。

『突然に、谷間の景色が現れて』(歌詞)

あなたは世界を駆け巡った。何も見つけることができなかったと思った。そして突然、谷間の景色が、あなたの前に、深遠なる平安のために現れた。

幸せが宙に漂うのにまかせ、あなたは夢を使い果たした。そして突然、谷間の景色が現れて、そこで友の声が聞こえた。

雲の下を歩き、闇の中に迷い、嵐の真っただ中で一人、雨に打たれ、あなたは底知れぬ後悔と、妬みと秘かな悔恨を引きずっていた。そして突然、谷間の景色が現れ、人生が始まると知らせる。

愛と善で、広大な空が輝く。全生涯にそして永久に、太陽を。決して見つけることはないと、希望を持たずに、あなたは無限の幸せを夢見ていた。

そして突然に、谷間の景色が現れ、希望と愛が始まる。

そして突然、谷間の景色が現れ、希望と愛が生まれた。

フレデリック・ブラによれば、この時期、バラ十字会での学習に加えて、ピアフは自身の教養と哲学の知識を深めることに、かなりの時間を割いていたそうです。作曲家のフィリップ・ジェラルドは、ピアフについてこう語っています。

私たちは、何度も真剣な会話をしました。彼女は自分が読んだ本のことを語るのです。私にはかなり意外でしたが、彼女はプラトンを読んでいました。そして、哲学や神秘学のさまざまな理論に、とても興味を持っていました。そして、魂が不滅であるかどうかというようなテーマについて議論しました。

ピアフが圧倒的な迫力でシャンソンを歌い上げているとき、いったいその背後にはどのような思いがあったのでしょうか。

結び

友人のジノー・リシー(Ginou Richer)にピアフは次のように語ったことがあるそうです。「きっと昔の人生で、私は良いことをたくさんしたに違いないわ。神がこの声をくださるほど」。

ピアフは、このような言葉も残しています。「私は、神と愛を信じています。私は神を愛していますし、私が何かを愛することができるのは、神のおかげだからです」。

この言葉は、ピアフが当会に入会する以前のものですが、宗教の語る人格神というよりは、神秘学で扱われる、作用と法則の源泉としての〈存在〉が表わされているように感じられます。

エディット・ピアフの、これらの言葉のことを考えると、彼女がバラ十字会に出会い、その考え方を深く愛するようになったのは、何か必然のできごとであったような気がしてきます。

いかがでしたでしょうか。今回、この文章書くために調査をしていて感じたのは、私自身もずいぶんと映画に影響されて、エディット・ピアフについてステレオタイプな見方をしていたということです。これからは彼女のシャンソンを、今までとは違う感覚で楽しめるように思えます。

以上のささやかな文章が、何らかの形で少しでもあなたのご参考になれば、心から嬉しく思います。

下記は、当会の研究家がピアフについて書いた文章です。

区切り

関連記事:『エディット・ピアフ-小さなすずめ』

 彼女は『ラ・モム・ピアフ(小さなすずめ)』と呼ばれていたが、本名をエディット・ガションという。1915年にパリで生まれた。幼少期は孤独で、親戚の家を転々とする不安定な生活を送った。ほとんどの時間を一人で過ごし、流行歌の歌詞を覚えることに熱中していた。

 13歳の時、彼女は親戚宅での肩身の狭い生活を離れ、パリの路上で歌う道を選んだ。その後、生涯を通じて離れることのなかった異母弟のシモンと共に暮らし始めた。パリの中でも裕福とは言えないピガール地区の路上で、観光客や住人を相手に歌い、使い古しの帽子で小銭を集める生活を何年も続けた。

 屋根のあるキャバレーで歌えるようになるまで、エディットは長い下積み時代を過ごした。店で歌い始めた頃、ある興行主から『エディット・ガション』ではなく『ラ・モム・ピアフ』に変えてはどうかと提案され、こうして『エディット・ピアフ』が誕生した。

 たった一着の簡素な黒いドレスを身にまとい、両手を掲げて言葉とフレーズを強調する彼女のスタイルは、華やかなショーガールが流行していた当時は異質であり、最初、観客の反応は必ずしも芳しいものではなかった。いくつかのキャバレーで経験を積んだ後、ようやくパリ近郊の高級ナイトクラブへと移り、ついにはアメリカへ渡った。そこで彼女の名声は高まり、熱心なファンを獲得していった。

 歌手としてのキャリアを始めた頃、エディットは幼い娘マルセルを髄膜炎で失っている。その死に深く傷つき、何年もの間、娘の誕生日が来るたびに嘆き悲しんだ。その後、彼女が子供を持つことはなかった。

 エディットが歌う歌詞の多くは様々な作詞家によるものだが、作曲のほとんどは一人の女性、彼女が「ゲーテ」と呼んで信頼したマルグリット・モノーによるものだった。しかし、ピアフの代表曲『ばら色の人生(ラ・ヴィ・アン・ローズ)』については例外である。モノーが歌詞を「低俗だ」として作曲を拒んだため、この名曲は原案から作詞、作曲に至るまで、すべてピアフ自身の手によって生み出された。

 自身の公演に加え、エディットは周囲の才能ある人々の芸を磨くことにも大きな喜びを感じていた。フランス人歌手の幾人かは、スタイルや歌唱法をピアフから学んでいる。彼女は自分のスタイルを押し付けて劣化コピーを作らせるのではなく、その人独自のスタイルを確立するよう促した。名歌手イヴ・モンタンも、彼女が見出した最初の弟子の一人である。

 エディット・ピアフは1955年から亡くなる1963年まで、バラ十字会に在籍し学んでいた。彼女がこの世を去った時、人生の喜びと悲しみを歌い上げた一人の偉大な芸術家の死を世界中が悼んだ。彼女は、一本のバラを胸に抱いて埋葬された。

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執筆者プロフィール

本庄 敦

本庄 敦

1960年6月17日生まれ。バラ十字会AMORC日本本部代表。東京大学教養学部卒。
スピリチュアリティに関する科学的な情報の発信と神秘学(mysticism:神秘哲学)の普及に尽力している。
詳しいプロフィールはこちら:https://www.amorc.jp/profile/

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