こんにちは。バラ十字会の本庄です。
昨日の朝に北海道で起こった地震の被害に遭われた皆さまに、心からお見舞いを申し上げます。
私も、北海道の各地に親類と知人がいるので、気が気ではありません。停電や断水、電車のストップで、さぞやたいへんなことと思います。余震も多いとのこと、なにとぞお気をつけください。
さて、「近代哲学の父」と呼ばれることもあるフランスのデカルト(1596-1650)は、バラ十字思想について深い知識を持っていたため、当時のバラ十字会員であったか、会員と親しく交流していたと推測されています。
デカルトの肖像 After Frans Hals [Public domain], via Wikimedia Commons
このブログで以前にご紹介したことがありますが、バラ十字という象徴の中の十字は、人の体(物)を意味し、バラは人の魂(心)を意味しています。また、開きつつあるバラの花から放たれる薫りは、人生経験を経て洗練されていく人格を表わしています。
バラ十字という象徴から影響を受けたことが理由かどうかは分かりませんが、デカルトは、こう考えました。物質というものは空間の中に広がっているが、人の心はそうではないので物質とは異なる実体である。
簡単に言えば、人は物と心という2つの実体からなるという考え方であり、心身二元論(mind-body dualism)と呼ばれています。
世界には、性質の完全に異なる2つの実体(物と心)があると考えるのが二元論です。二元論を最初に本格的に唱えたのは、古代ギシリャの哲学者プラトンだとされていますが、歴史的に見ると、二元論にはおおむね人気がありません。
その理由は、性質の異なる2つの実体が世界にあるとすると、その一方が、どのようにしてもう一方に影響を及ぼすのかということを突き詰めたときに、どうしても矛盾が起きてしまうと考えられるからです。
そこで、世界にはひとつの実体しかないという一元論(monism)が唱えられてきました。一元論には、世界には物質(物)しかないという唯物論(materialism)と、心しかないという唯心論(idialism)と、その中間的な立場の中立的一元論(neatral monism)があります。
唯物論では、デカルトの考えた人の心のようなものは、機械の中に幽霊がいるというような思い違いであるか、物質によって説明されるべきものだと考えられます。
ここから物理主義(physicalism)という考え方が出てきます。原子が組み合わされて分子ができ、分子が複雑に組み合わされて細胞ができ、細胞が集まったのが生命であり、神経の細胞が集まったのが脳であり、脳の中で移動する電気や化学物質こそが、人の心の正体なのだという考え方です。
ほんとうでしょうか。興味深いことに、一流の物理学者の多くは物理主義に賛成していないようです。
参考記事:「科学的なことと非科学的なこと」
一方で唯心論は、なかなか説明が難しい考え方です。そこで、私たち人間の心の働きを、建物でたとえることにしましょう。この建物を作っているブロックは、心の働きのうちの何にあたるでしょうか。
感覚によって得られた知覚と、記憶と想像ではないでしょうか。これらはすべて、自分の心の中にあります。現在とは実際には知覚であり、過去とは記憶であり、未来とは想像なので、世界のすべては自分の心の中にあるように思えます。
今、あなたの目の前には何が見えるでしょうか。パソコンの画面でしょうか、机でしょうか。それらは、あなたの心の中にある知覚像です。触ったとしてもこの事情は変わりません。触覚という知覚像が心の中に得られるだけで、自分の心の外に何があるのかは、決して知ることができません。
このことは自分の体についても同じです。知ることのできるのは、自分の体の知覚像だけであり、自分の体自体が何であるのかは、決して知ることができません。
このことから水槽の脳という有名なパラドックスが生じます。
「実はあなたは、培養液に満たされている水槽に浮かんでいる、むきだしの脳なのです。そしてこの脳には、脳波を正確に操作することのできる電極が精密に取り付けられていて、高性能のコンピュータから、ヴァーチャル・リアリティを構成するデータの電気信号が送られています」と言われても、私たちはそれに反論できないというパラドックスです。
参考記事:「水槽の脳」
ちなみにこのパラドックスは、映画「マトリックス」制作のヒントになったとのことです。
中立的一元論とは、物でも心でもない別のひとつの実体が、世界の根本だと考える立場です。
たとえば、日本の哲学者大森荘蔵(1921-1997)は、認識という現象そのものが世界であり、物質も心も、この現象から人間が考え出した観念であり、実体ではないと考えています。
別の例としては、唯識論が挙げられます。観光の名所として有名な、薬師寺、興福寺、清水寺は、法相宗という宗派の仏教のお寺で、そこでは唯識論が教えられています。
ちなみに孫悟空に登場する三蔵法師(玄奘)は、この宗派の経典をインドから中国に伝えました。唯識論も、認識が世界であるという考え方を採用しており、「心内の影像を心外の実境とみるな」という有名な言葉があります。

唯物論と唯心論と中立的一元論は、どちらが優勢であるかが、時代と場所によって、さまざまに変化しました。たとえば、マルクス主義の影響で、1970年代の日本では唯物論が有利でした。
20年ほど前に、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズ(1966-)は、意識が物質で説明できないということを示す「ゾンビ論法」を発表しました。この論法はそれほど難しいものではなく、インターネットで検索しただけでも理解することができます。
ゾンビ論法の影響で、心もしくは意識こそが世界の実体だとする唯心論が現在は世界的にやや優勢のようですが、この議論はまだまだ尽きることがなさそうです。
デイヴィッド・チャーマーズ By Zereshk [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)], from Wikimedia Commons
バラ十字会の哲学では、物質を構成しているエネルギーはスピリット、意識を生じさせているエネルギーはソウルと呼ばれています。ですからデカルトの二元論に近いように思われますが、この2つを統一するさらに根本的なエネルギーがあり、スピリットとソウルは、この根本的なエネルギーの、振動数の違う別の現れだと考えられています。
それはちょうど、光と音という現象に似ています。光も音もエネルギーですが、振動数が違うために、電磁波の振動と空気の振動という異なる現象として現れています。
皆さんは、唯物論と唯心論と中立的一元論のどれが正しいと考えるでしょうか。あるいは、この3つとは別の考えをお持ちでしょうか。
世界は根本から謎に満ちていて実に面白いと、そう感じていただければ嬉しく思います。
では、今回はこの辺りで。
また、お付き合いください。
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