こんにちは。バラ十字会の本庄です。
朝のニュースで紹介されていたのですが、春の空の色は空色(そらいろ)というのに対して、夏空の色は紺碧(こんぺき)、秋と冬の空の色は天色(あまいろ)と言うそうです。天色は空色よりも少しだけ澄んだ鮮やかな薄青です。
今朝の東京板橋の空は、まさに天色でした。
いかがお過ごしでしょうか。
さて、正義という言葉は、どうも最近、あまりいい意味で使われることが多くないのではと感じています。あまり根拠もないのに、自分の意見を大上段に振りかざすというようなイメージでしょうか。
真実は立場によって異なると考える、最近の傾向の影響かもしれません。
当会のフランス代表が正義について書いた文章を翻訳しましたので、今回はそれをご紹介します。
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『正義について』(À propos de la justice)
バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン
辞書を引いてみると、正義(justice)は哲学的な理想であり、法的なシステム(訳注)でもあると書かれています。
訳注:フランス語や英語の単語「justice」には、正義という意味と司法という意味がある。
私にとって明らかに思われるのは、自分や他の人にとって何が正義で、何が不正かということを判断する内的な感覚が、すべての人に備わっているということです。このことを確認するためには、不当な扱いを受けたときに子供が示すふるまいを観察するだけで十分ではないでしょうか。
たとえばある子供が、実際には何も悪いことをしていないのに、何かを言ったり行ったりしたとされて叱られたような場合です。その子は激しくそれを否定し、途方に暮れて泣きじゃくりながら、自分の正しさを主張することでしょう。
すべての人が、正義についての内的な感覚を持っているのは、なぜなのでしょうか。バラ十字哲学の観点から言うと、それは人間には魂(soul:ソウル)があるからであり、魂は「正義の感覚」と一体だからです。
同様に、人間の行動の中で何が原則として善であり、何が原則として悪であるかを、すべての人が心の奥で知っているということも私は確信しています。このことについても、それを裏付ける子供の行動を、あなたもきっと見たことがあるのではないでしょうか。
ある子供が、“悪い”ことだとはっきり知りながら、それを行った場合、伏し目がちになり、口ごもりながら、おどおどとしています。残念なことに教育は、多くの場合にこの資質を守り育もうとはしないので、多くの人が徐々に“道徳感覚”を失い、自身の良心に耳を傾けなくなってしまいます。
別の疑問も生じます。もしすべての人に正義についての内的な感覚が備わっているのであれば、世の中にこれほど不正が多いのはなぜなのでしょう。その理由は、自分の魂の促しではなく、エゴの衝動の影響のもとに行動する傾向が人にあるからだと思われます。
エゴは自分の関心と利益を動機にしがちであり、時として、いえ、あまりにもしばしば、他の人たちを軽視します。私たちはその結果、自身の正義の感覚と道徳の感覚に反するようにエゴにけしかけられ、不正な行ない、あるいは悪の行ないにさえ導かれてしまいます。
全般的に言えば、私たち人間には間違ったことでさえ行う自由があります。ここでは話題として詳細には取り上げませんが、この自由は私たち人間にとって重荷であるのかそうでないかなど、自由意志について、興味深いさまざまな疑問を検討することができます。
人は周囲の人に対して不正なこと(非難、名誉毀損、攻撃、搾取、束縛など)をしてしまうことがあり、その犠牲となった人にはさまざまな否定的な影響が生じるので、人間社会は正義を維持することを目的として司法という制度を作るようになりました。
司法制度は、時とともに発達して複雑になり、現在では多数の職業(警察、検察官、裁判官、弁護士など)を含む全体的なシステムになっています。そして、不正の犠牲になった人がその損害を補償されるためには、長い手続きを経る必要があります。
司法制度のことを私は大切なものだと考えていますが、あらゆる種類の煩雑な手続きと、それ自体に生じている不正のために、このシステムはもはやボロボロになっているのではないかと感じています。
残念なことに、さまざまな不足、特に教育の不足、そして物質を偏重する(心を軽視する)傾向と個人主義が原因で、不正な行ないがますます増え、社会に不公正が広がっています。
人間の性質のうちの最良の部分の促しのもとに行動する能力こそが、個人と集団の幸せの基礎であるということを多くの人が理解し、人類が全体として協調するようになることを私は心から願っています。
バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン
著者セルジュ・ツーサンについて
1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。
多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。
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再び本庄です。
この文章に示されているような、人の本来の性質は善であるという考え方は、性善説と呼ばれています。
そして、その正反対は性悪説だと一般的には考えられていて、性悪説の代表的な思想家は荀子だとされます。
ところが調べてみると、「人の性は悪なり、その善なるは偽なり」という荀子の言葉は、二重に誤解されているようなのです。
多くの場合この言葉は、「人の本来の性質は悪であり、善だと考えるのは偽(いつわ)りである」などと解釈されています。
ところがこの言葉の前半の部分は、人間の本質について述べているのではなく、「人間は環境や欲望によって悪に走りやすい傾向がある」ということを指摘しているのだそうです。
さらに、「偽」という漢字に「いつわり」という意味が生じたのは後の時代のことで、この当時の意味は「変化したもの」もしくは「作為によって成立したもの」だったそうです。
ですから、この言葉の後半は、「善は、(悪に走りやすいという傾向を)教育や訓練という作為によって変化させたものである」というような意味になります。
人間の本質を深く追究した優れた思想家には、それが悪だと考える人はいないのかもしれません。興味深いことです。
下記は、前回紹介したセルジュ・ツーサンの文章です。ご参考まで。
では、今日はこの辺で
また、お付き合いください。
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