以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。
サン・ジェルマン伯爵
The Count of Saint Germain
ラファエル・ベルガー
By Raphael Berger
いくつもの名を持つ謎の男と言えば、真っ先に挙げられる人物がサン・ジェルマン伯爵です。彼は1712年に、現在のハンガリーにあるシャーロシュパタク(Sarospatak)で生まれ、1784年に現在のドイツのエッカーンフォルデ(Eckernforde)で没したと言われています。しかし、それはあくまで通説に過ぎません。彼については、生前からとても多くの謎めいた逸話が紡がれていたため、事の真相を確かめることが難しいのです。
伯爵に関する話は数多く存在しますが、取るに足りない事柄を事細かに描いた内容の逸話も含まれており、客観的な事実よりも当時の風俗や迷信に焦点が当てられています。それらの逸話は正確さを欠いていますが、伯爵が謎に満ちた人物として扱われるようになった背景を明らかにすることに役立ちます。一方、『オーセ夫人の覚書』(訳注、脚注1)は、これから迫ろうとする伯爵の実像についての、歴史的に見てもっとも正確で信頼に足る証言であると考えられます。
(訳注:『オーセ夫人の覚書』(Memoires de Madame du Hasset):オーセ夫人(後述)の没後にクィンティン・クロファード(Quintin Craufurd)によってまとめられ1808年に出版されたルイ15世の時代のフランス宮廷を知る貴重な史料(邦訳:島津亮二、菱山泉訳、有斐閣、『ケネー全集』第一巻所収、1951年)。)
長年にわたってルイ15世(訳注)の宮廷公認の愛妾であり続けたポンパドゥール侯爵夫人(訳注)の筆頭侍女を務めたオーセ夫人は、フランス宮廷内の裏事情に通じており、それをつぶさに記録した手記を残しています。ポンパドゥール侯爵夫人が自らその許可を与え、情報を流していた可能性もあります。オーセ夫人はサン・ジェルマン伯爵について次のように報告しています。
(訳注:ルイ15世(Louis XV, 1710~1774):ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715-1774)。18世紀のヨーロッパは、フランス(ブルボン家)、ハンガリー(ラーコーツィ家)、ドイツ(プロイセン)が、オーストリア(ハプスブルク家)と激しい対立関係にあった。ルイ15世はオーストリア継承戦争、七年戦争に参戦し、フランスの衰退を招いた。ポンパドゥール侯爵夫人は彼の公妾。)
(訳注:ポンパドゥール侯爵夫人(Marquise de Pompadour, 1721-1764):ベルサイユ宮殿に招かれた際ルイ15世の目に留まり、45年に侯爵夫人の称号を得て侯爵夫人となった。彼女の乱費は国家財政を圧迫。国政にも介入し、しばしば大きな影響を与えた。文学、美術を愛好し、サロンを開いて多くの文人や画家を招いた。)
「私は何度か彼の姿をお見かけした。年の頃は40歳ほどだろうか、体つきは中肉で、整った愛嬌のあるお顔立ちだった。お召し物はこざっぱりとしていながらもとても上品で、指には見事なダイヤモンドがいくつも嵌められていて、嗅ぎタバコ入れと時計にもダイヤが施されていた。ある日の宮廷祝賀会の席に、彼は靴のバックルと靴下留めに美しいダイヤモンドをあしらった出で立ちでお見えになった。それはそれは見事な代物で、侯爵夫人(ポンパドゥール夫人)は、国王でさえこれほど美しいものはお持ちでないでしょうとおっしゃった。」
「そこで、彼の宝飾品を詳しく鑑定することになり、彼は控えの間に行ってそれらを取り外した。ゴントー公爵(脚注2)は、他の宝石と比較し、その価値が20万フランを下らないという結論を出した。その日、彼はまた、極めて高価な嗅ぎたばこ入れと、きらめくルビーのカフスボタンを身に着けていた。このお方の並外れた富がどこからもたらされるのかは不明だが、国王様は彼を見下したり愚弄するような話を容認なさることはなかった。」
この最後の言葉は、ルイ15世がこの謎めいた人物の正体を知ってはいたものの、その優れた風格ゆえに、それを秘密にすることを本人と固く約束していたという主張に合致します。もちろん、それが事実であると確認される日はおそらく来ないでしょうが、サン・ジェルマン伯爵がなぜそれほどまでに国王から気に入られていたかの説明になります。しかし、この話をさらに追究する前に、信憑性が高いとされるもう一つの資料として、後にオルレアン公ルイ・フィリップ2世(Philippe Egalite, the duke of Orleans)の子供たちの養育係を勤めることとなったジャンリス伯爵夫人(Comtesse de Genlis)の言葉を引用しておきましょう(脚注3)。
「彼(サン・ジェルマン伯爵)はやや小柄で、体格がよく、勢いのある歩きぶりであった。髪は黒く、色黒の顔をしており、目鼻だちは端正であり、表情には才気がみなぎっていた。彼のフランス語は上品で訛りもなく、それは英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語においても同様であった。」
「サン・ジェルマン氏は、私たちが知り合ってから最初の4か月間、不必要な言葉を発することがなかっただけでなく、耳慣れない言葉を口にすることも一度もなかった。彼の振る舞いと外見はとても威厳に満ちており上品であったので、私の母は、彼に備わっている不思議さについてあえて尋ねてみようとは一切しなかった。しかし、ある晩ついにその時が訪れた。私がイタリアの曲を歌うと、彼が即興で伴奏してくれた。そして、数曲を歌い終わったとき、彼は私に向かって『4、5年もすればあなたの歌声は素晴らしいものになりますよ』とだけ言い、すぐさま話題を変えたのだった。」
「この言葉がきっかけとなり、母はすぐさま、ドイツは本当にあなたの祖国なのかと彼に尋ねた。すると彼は神妙な面持ちで首を振り、深いため息をつきながら、『私の出自についてお話しできることは、7歳のときに父君とともに森をさまよっていたこと、そして私の首に報奨金がかけられていたことだけです』と答えたのである。」
「この言葉は私を震え上がらせた。私はこの重大なやりとりが真実であることを微塵も疑わなかった…。彼は続けて『逃亡の前の晩、二度とお会いすることのない母上が、ご自分の肖像画を私の腕に取り付けました』と言った。」
「『まあ、なんということでしょう!』と私は声を上げた。その言葉を聞いたサン・ジェルマン氏は私を見つめ、私の目に涙が溢れているのを見て心を動かされたのか、『これをご覧なさい』と言って片方の袖をまくり上げると、着けていたブレスレットを外した。そこには、エナメル塗料で見事に描かれたとても美しい女性の姿があった。私はその肖像画に深く心を揺すぶられた。サン・ジェルマン氏はそれ以上語らず、話題を変えたのだった。」
「彼が帰ると、彼が追放された人であり、彼の母が王妃であったという彼の身の上話を、私の母は嘲笑った。それが私にはとても悲しかった。7歳のときに彼の首に懸賞金が掛けられていたことや、父君とともに森に逃げ込んだという話から、彼のことを地位を奪われた王の子息であると私は信じていた。私はこうした並々ならぬロマンスを信じていたし、信じたいと思っていたので、この話を母に小馬鹿にされたことが、とてもショックだった。その日以降、サン・ジェルマン氏はこのような驚くべき話は一切せずに、音楽や芸術に関する話や、旅で見聞きした興味深いものごとについてだけ話をしていた。」
この話は果たして本当でしょうか? サン・ジェルマン伯爵は、ヨーロッパのある国の王位継承権を奪われた世継ぎだったのでしょうか? ジャンリス夫人の話はドラマチックで感動的ですが、このような証言を残している人は、彼女の他には誰もいません。
ラーコーツィ家
The House of Rakoczi
サン・ジェルマン伯爵は、トランシルヴァニア地方(ルーマニア中部および北西部地域)の君主を代々務めてきたハンガリーの名門、ラーコーツィ家(The House of Rakoczi)の末裔であるとする説が一般的です。この家系の最後の君主はラーコーツィ・フェレンツ2世(訳注)という人で、彼にはレオポルト・ジョルジュ(Leopold-George)、ヨーゼフ(Joseph)、ジョルジュ(George)という3人の息子がいました。長男は1696年5月28日に生まれ、4年後の1700年に死去したと公式には発表されています。他の2人の息子は、1701年にオーストリア皇帝によって両親と引き離され、幽閉されました。2人にはそれぞれ「サン・マルコ」(San-Marco)、「デラ・サンタ・エリザベッタ」(Della-Santa-Elisabetta)という称号が与えられ、ウィーンの宮廷(ハプスブルク家)で厳しい監視下に置かれて育ちました。彼らは代々続いた家系の痕跡をすべて放棄し、ラーコーツィという名前さえも捨てなければなりませんでした。ヘッセン=カッセル方伯領の君主であったカール方伯は、この話を聞かされたときにサン・ジェルマン伯爵がこう言ったと伝えています。「ならば私めは、サンクトゥス・ゲルマヌス(訳注)、聖なる兄弟と名乗ることにいたしましょう!」
(訳注:ラーコーツィ・フェレンツ2世(Ferenc Rakoczi II, 1676-1735):ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。現在はハンガリーの国民的英雄とされている。なお、ハンガリー人の姓名は本来、日本と同じく「姓・名」の順である。)
(訳注:サンクトゥス・ゲルマヌス(Sanctus Germanus):サン・ジェルマン(Saint-Germain)にあたるラテン語。サンクトゥス・ゲルマヌスと呼ばれた聖人は何人も存在する。)
どの記録を見ても、サン・ジェルマン伯爵の振る舞いには、王家の人を思わせるところが確かにあったとされています。また彼が、自分の弟たちをラーコーツィ一族の裏切り者だと考えていたことも確かです。もしサン・ジェルマン伯爵が、生後4年で死去したとされている行方不明のラーコーツィ家の王子だとすれば、他の方法では説明のつかない多くの不可解な謎が解決します。たとえば、伯爵の巨万の富は、彼の超自然的な能力のおかげだとする必要がなくなります。ラーコーツィ家の財産は、1652年で1000万フローリン(訳注)だったと推定され、当時としては莫大な富でした。
(訳注:フローリン(florins):14世紀中頃から発行されたオーストリアの旧金貨。)
ラーコーツィ・フェレンツ2世の遺言書には、3人の息子の名前が挙げられています(脚注4)。3人目に挙げられている息子は、現在まで正体がよく知られていないのですが、遺言執行人の特別な監督下に置かれていました。ブルボン公(Duke of Bourbon)、メーヌ公(Duke of Maine)、トゥールーズ伯( Count of Toulouse)という、王家の血を引く3人の諸侯が遺言執行人だったのですが、このうちトゥールーズ伯は、サン・ジェルマン伯爵に特別な支援を行っていました。ですから、この3人目の正体不明の息子が、死去したとされていた長男レオポルド・ジョルジュであったに違いありません。彼が死んでいないという噂はウィーンの宮廷にも届き、フェレンツ2世の後継者が強力な敵になる可能性があると考えたオーストリアの皇帝が、彼の首に賞金をかけたというのであれば、ジャンリス夫人の語った逸話に合致します。
この推理に従えば、フランス国王ルイ15世がサン・ジェルマン伯爵によく配慮を払い、彼を認めていたという点も理解できます。伯爵の財産が前述の3人の貴族によって直接管理されていたとすれば、ルイ15世が彼の出自の秘密を知っていたことはほぼ確実であり、高い地位と高貴な生まれが理由で、サン・ジェルマン伯爵に深い敬意を払い尊重していたことに十分に納得がいきます。国王が伯爵に与えた特権の一部は、宮廷に仕える人たちの間で大きな話題になり、サン・ジェルマン伯爵の家柄について知らなかった彼らの嫉妬を引き起こしました。1758年にルイ15世は、ロワール川沿いに建つ極めて壮麗な城である、広大なシャンボール城の広々とした居室を、サン・ジェルマン伯爵に与えました。伯爵はここに錬金術の実験室を設け、たびたび、国王と長い時間を過ごしました。彼らがどんな研究や実験を行ったのかが知られることは決してないでしょう。このことにまつわる数々の逸話がありますが、そこには、実話と認めるにはあまりに空想じみた話が混ざっています。
フェレンツ2世の長男の死が偽装であったと考えることに、それほど無理はありません。というのもこの偽装は、ラーコーツィ一族のすべての人にとって重大な脅威であったハプスブル家の迫害から、皇太子の命を守るための方策であった可能性があるからです。同様に、1626年のフランシス・ベーコン卿(訳注)の死去を偽装だと考える主張もありますが、こちらは事実ではなさそうです。ラーコーツィ家にまつわるこの仮説を裏付けるさらなる証拠として、サン・ジェルマン伯爵が1774年にシュヴァーバッハ(Schwabach)でブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯に謁見した際に、ツァロギーという名前を用いたことが挙げられます。「ツァロギー」(Tzarogy)は、ラーコーツィをドイツ語式に綴った「Ragotzy」のアナグラム(文字の並べ替え)だと考えられるからです。
(訳注:フランシス・ベーコン卿(Sir Francis Bacon, 1561-1626):イギリスの哲学者。イギリス経験論の創始者。)
サン・ジェルマン伯爵が自身の出自について語った相手には、他にプロイセン王フリードリヒ(King Frederick)の姪のアンナ・アマーリア王女(Princess Anna Amalie)がいます。彼は「私は外国人を支配者としたことのない国の出身です」と話しました(脚注5)。この発言は、サン・ジェルマン伯爵がラーコーツィ家の末裔であるという説に対する反論の一つであり、伯爵が、スペインのカルロス2世(訳注)の未亡人であるマリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク(Maria Anna von der Pfalz-Neuburg)王妃と、カスティーリャ王国(訳注)の提督(The Admiral of Castille)のメルガル伯爵(comte de Melgar)との間に生まれた私生児であるという説を支持しています(脚注6)。トランシルヴァニア地方(Transylvania:ルーマニア中部から北西部地方)には1571年まで国家元首がいなかったと言われています。しかし、ジャンリス夫人の語った話はこの言葉とは矛盾せず、伯爵の誕生年は1698年頃だと特定することができます。王妃は1740年にグアダラハラ(Guadalajara:スペイン中部、グアダラハラ県の県都)で亡くなったのですが、これは、32年間追放されていたフランスのバイヨンヌ(Bayonne:フランスの大西洋岸、スペイン国境に程近いバスク地方の中心都市)からの帰国を認められた2年後のことでした。また提督は、1705年にポルトガルで亡くなったようです。オランダ語の資料(脚注7)には、サン・ジェルマン伯爵がスペイン系の家系の出身だと、直接示唆されています。「彼は高貴な生まれのスペイン人のような風采で、時折感情豊かに母親のことを話し、ときおり自身の名前を『Pr. d’Es』と書くことがある」。この署名は「スペインの王子」(Prince d’Espagne)を意味していると言われています。
(訳注:カルロス2世(Carlos II, 1661-1700):ハプスブルク家最後のスペイン国王(在位1665-1700)。スペインは、1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が誕生したが、カルロス2世の死後、スペイン継承戦争(1701-1713)により衰退。新たにブルボン家が王位に就き、スペイン・ブルボン朝が成立した。)
(訳注:カスティーリャ王国(Admiral of Castille):1035年から1715年まで、現在のスペイン中部にあった王国。)
芸術世界における功績
Artistic Achievements
サン・ジェルマン伯爵の芸術上の功績は、同時代の人々から高く評価されていましたが、それを示す痕跡はほとんど残っていません。音楽の分野では、いくつかの曲が彼の作品であるという証拠が残っているものの、絵画作品はこれまで見つかっていません。フランス革命中に消失したり破壊されたりしたのではないかと思われます。その理由は、彼の絵の題材が、宝飾品をつけて着飾った貴族たちだったからだとされています。
どこかの屋根裏に、伯爵の絵のひとつが隠れていて、いつか見つかるという可能性はゼロではないどころか、十分起こり得ることです。伯爵が自分の作品にサインをしたかどうかは知られておらず、しなかった可能性が極めて高いのですが、彼の絵の独特な色使いが当時大きな反響を呼んだので、もし時の経過による損傷に耐えていたなら、特定するのは比較的容易なことでしょう。伯爵の芸術への功績に関して、前述のジャンリス伯爵夫人は次のように語っています。
「彼(サン・ジェルマン伯爵)は物理学に精通しており、優れた化学者でもあった。彼は油絵の具を用いて描いたが、噂されていたような最高の画風とまでは言えないとしても、極めて卓越した腕前であった。彼は色彩に関する実に素晴らしい秘密を見いだし、それが彼の絵に驚くべき効果を与えていた。彼は歴史的なテーマを華々しく表現し、女性の衣服を必ず宝石で装飾した。その際、彼ならではの色使いがされることによって、エメラルド、サファイア、ルビーなど、いずれの宝石も、本物と見まがうばかりの輝きを放った。」
「ラ・トゥール、ヴァンロー(脚注8)など、これらの絵を見た画家たちは、彼の技法が持つまばゆいばかりの色彩による驚くべき効果を高く評価した。その反面、この色彩のせいで人物が目立たなくなってしまう上に、宝石が本物そっくりであることで、絵が醸し出す幻想的な雰囲気が損なわれるという好ましくない効果が生じた。それにもかかわらず、装飾的なスタイルでは、これらの色がうまく用いられてきたのであろう。サン・ジェルマン伯爵は、その秘密を明かすことを決して承諾しなかった。」
文学の分野では、サン・ジェルマン伯爵の作とされるフランス語で書かれた神秘的なソネット(十四行詩)があります(脚注9)。その内容は間違いなくヴェーダ(Veda:バラモン教の聖典)を意識して書かれており、涅槃(Nirvana)の思想が色濃く表れています。それがいつ作られたのかは不明ですが、伯爵は何度か東洋を旅しているので、そのいずれかの旅の途中で書かれた可能性があります。伯爵自ら、ハンガリーのランベルグ伯爵(訳注)に次のように書き送っています(脚注10)。
(訳注:ランベルグ伯爵(Count Lamberg):フランツ・フィリップ・フォン・ランベルク伯爵(Count Franz Philipp von Lamberg, 1791-1848)。ハンガリー出身で、オーストリアの軍人、政治家、陸軍元帥。1848年のハンガリー革命では短い期間だったが重要な役割を果たした。)
「私が宝石の融解を発見したのは、1755年にワトソン海軍中将の指揮の下、ロバート・クライヴと共にインドへの2度目の航海に出たおかげです。最初の旅行では、このすばらしい秘密についてほんのわずかな知識しか得られませんでした。ウィーンやパリ、ロンドンで私が試みたことはどれも実験に過ぎなかったのです。この航海は、賢者の石を見つけるために私に与えられた素晴らしい機会でした。」
以下に、詩の韻と行の長さを考慮せずに意訳した、彼のソネットを載せておきます。
哲学的ソネット
Philosophical Sonnet
「あらゆる自然をつぶさに観察した好奇心旺盛な私は、偉大なる森羅万象の始まりと終わりを知った。私は、鉱床の奥深くにある、力にあふれる黄金を見た。私は、その本質を把握し、変化を与えるその働きを理解した。」
「いかなる技術によって魂が母親の脇腹に宿り、生きていくのかを、私は説明することができる。そして、一粒の麦や一粒の葡萄の種が湿った地面に落ちたとき、それらがどのようにして麦穂や葡萄の木へと成長し、最後にはパンとワインになるのかを説明できる。」
「何もなかった……、神が命じた、すると無が何かになった。」
「だが、私はそれを疑い、宇宙の基礎に何があるのかを探った。すると、宇宙の均衡を保つものは何もなく、それを支えるものもなかった。そしてとうとう、賞賛と非難という基準を用いて、私は〈永遠なるもの〉を測った。すると〈彼〉は、私の魂を呼び、私は死に、私は崇拝し、私はそれ以上何も知らなかった。」
三重の叡智
Threefold Wisdom
次に、現存する極めて貴重な秘伝哲学の文書である『至高の三重の叡智』(The Most Holy Threefold Wisdom)について触れておきましょう。この本の作者はサン・ジェルマン伯爵であるというのが通説です。しかし、その歴史をたどってみると、伯爵の創作であるという証拠はほとんど見あたりません。分かっているのは、彼が一時原本を所持していたことと、彼自身が間違いなくそこに描かれている入門儀式を経験したということだけです。
現在フランスのトロワ図書館(Librairie de Troyes)に保管されている美しい写本には、当時流行していたエジプト風の装飾が施されていますが、これはあくまでも伯爵が書き写したものにすぎません。原本は、彼が、とある航海のときに破棄したのです。この深遠な文書についてここで検討しようと考えたとしても、手をつけることさえできません。というのもこの文章には、ヘルメス哲学、カバラ、錬金術の知識が完全な形で含まれており、この3つが『三重の叡智』を構成しているからです。
サン・ジェルマン伯爵が書いたとされる著作には、他にも『聖なる魔術(The Sacred Magic):モーセに明かされ、エジプトの遺跡で再発見され、翼のある龍の意図のもとに、東洋で保持されていたと思われる魔術』という題の謎めいた作品があります。この文書は、極めて単純な暗号を用いて書かれた儀式的魔術の式典書で、「3つの奇跡を起こす方法」という説明が添えられています。
・ 地球の大変動で海に没した物を発見する。
・ 地球の中心にあるダイヤモンド、金、銀の鉱床を発見する。
・ 一世紀以上、たくましく健康に長生きをする。
作曲家としての顔
Musical Composition
伯爵が音楽家として秀でた才能を持っていたことは多くの本に書かれていますが、サン・ジェルマンという名前は、どの音楽事典にも見あたりません。しかし、彼は別の名前で記載されています。それは、ルクレール(訳注)の弟子で、1782年に没したイタリアのバイオリニスト兼作曲家のジョバンニーニ(Giovannini, 生年不明)です。
(訳注:ルクレール:ジャン=マリー・ルクレール(Jean-Marie Leclair, 1697-1764)。フランスのバイオリニスト、作曲家。独自の様式を持つバイオリン・ソナタと協奏曲を作曲して、フランスの器楽曲の興隆に貢献した。作品に「バイオリンと通奏低音のためのソナタ」、「バイオリン協奏曲集」などがある。)
『グローヴ世界音楽大事典』(Grove’s Dictionary of Music and Musicians)によると、ジョバンニーニは1745年、半生を過ごしたベルリンを離れ、ロンドンに移り住みました。そしてサン・ジェルマン伯爵という仮名で『期待外れの不貞』(L’lnconstanza delusa)という題のパステイッチョ(さまざまな作曲家の作品を混成したオペラ)を書き上げました(1745年4月7日にヘイマーケット劇場にて上映)。この作品のアリアは喝采を浴びたとあります。他にも、『バイオリンのための7つの独奏ソナタ』(通奏低音伴奏付きの完全なソナタ)や、多くの歌曲も作曲しています。しかし、最も重要な作品は、1750年頃にロンドンのウォルシュ(Walsh)という人物によって出版された『2挺のバイオリンと、チェンバロまたはチェロのための6つのソナタ』(Six Sonatas for two violins with a bass for the harpsicord or violoncello)のようです。
ウォルシュは『6つのソナタ』の表紙の下部に、同じ作曲家の別の作品についてのフランス語の小さな広告を印刷しました。「この芸術作品が持つ本当の味わいを愛する英国淑女向けに、良識に従って考え抜かれた音楽」。興味深いことに、サン・ジェルマン伯爵がボヘミア(現在のチェコ共和国の中西部一帯)のロウドニツェ城で、友人でありパトロンでもあったロプコヴィッツ王子に献呈したこの作品の写譜の一つに、伯爵がフランス語でまったく同じフレーズを書いているのです。ランベルク伯爵は、前述の本の中で、「サン・ジェルマン伯爵は、1745年にロンドンで知り合ったフェルディナンド・ロブコヴィッツ王子に再び会うためにウィーンへ行くつもりでいた」と述べています。この言葉によって、ロンドンの『6つのソナタ』の出版者が、ロブコヴィッツ王子に献呈された「考え抜かれた音楽」というフレーズをどうして目にすることができたのかという疑問も解消されます。
極めて特筆すべきことに、サン・ジェルマンという名前の直前にある謎の記号を、『6つのソナタ』の製版者は正確に再現しています(脚注11)。この記号は、どのような頭文字なのかがはっきりせず、今もって意味が解明されていません。大英博物館には、1735年に伯爵がハンス・スローン卿(訳注)に宛てた、「P M de St Germain」という署名入りの手紙があります。これこそが、ジョバンニーニ(Giovannini)が書いたとされる音楽の作者が、実は、自らをサン・ジェルマン伯爵と名乗る偉大な神秘家であったことを示す有力な証拠です。
(訳注:ハンス・スローン卿(Sir Hans Sloane, 1660-1753):アイルランド王国出身の医師、収集家。ニュートンのあとを継いで王立アカデミーの会長を務め、王立医科大学の学長も兼ねた。美術品をはじめ動植物・鉱物の標本や多くの蔵書を収集する熱心なコレクターであり、自身のコレクションをイギリス政府に遺贈し、それが大英博物館の礎になった。)
『グローヴ世界音楽大事典』のジョバンニーニの項には、「あなたの心、我に与えずや」(Willst du dein Herz mir schenken)という曲の作者は、ジョバンニーニではなく、ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)であると考えられていると書かれています。その理由は、この曲が、バッハの妻のアンナ・マグデレーナ(Anna Magdelena)が所持していた2つの楽譜集のうち、曲数の多い第2集から発見されためです。、ページの余白には「ジョバンニーニのアリア」(Aria di Giovannini)と記されていました。学者たちはこれを、バッハのファーストネームである「Johann」をイタリア語風に綴ったものだろうと考えたのですが、それ以降、広く論争が続いています。アルフレッド・ホイス博士は、「もし実際にジョバンニーニがこの曲を書いたのであれば、彼はそれを自慢し、自分が作曲者であることを世間に知らせ、他の曲と一緒に出版したに違いない」と主張しました(脚注12)。
ジョバンニーニの正体が、この手のカモフラージュがお手のものであったであろうサン・ジェルマン伯爵であると考えるならば、ホイス博士のこの主張には説得力がありません。伯爵は、自尊心にとらわれた人ではなく、どんなに恥ずべき状況にあっても、決して自分の振る舞いや行動の言い訳をしない人でした。また、ある作曲家が、尊敬する他の作曲家の作品を写譜することはよくあることで、バッハでさえ、たとえばヴィヴァルディのような同時代の著名な作曲家の曲を写譜していたことも指摘しておきましょう。
この曲には確かにバッハらしい趣がありますが、それがバッハの作品である証明にはなりません。なぜなら、それはサン・ジェルマン伯爵の他の作品にも見られる特徴だからです。サン・ジェルマン伯爵の音楽は、繊細で優美で魅力的ですが、極端に深遠であったり独創的であったりするわけではありません。しかし、ある独特な特徴があり、長短さまざまな作品を通して、その特徴を容易に感じ取ることができます。彼の音楽は、もし本当に彼の作品である場合、間違いなくこの時代の典型的なものであり、上品で穏やかでありながら、退屈になったりありふれたものになったりすることがありません。
彼の音楽は、J.S.バッハのように最高峰を極めたものではありませんし、ノスタルジックな美しさと独創性でモーツァルトに匹敵するわけでもありません。しかし、テレマン、クヴァンツ、C.P.E.バッハ(訳注)といった同時代の作曲家に勝るとも劣らないものです。J.S.バッハ、ハイドン、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェンといった音楽の巨匠たちの陰に隠されて、サン・ジェルマン伯爵の音楽はすっかり影を潜めてしまいました。またそのせいで、『あなたの心、我に与えずや』が彼の作品であることさえ疑われています。世界各地にある大きな図書館は、美しい音楽の宝庫です。そして誰かが埋もれた名曲を再発見し、蘇らせるのを待っています。いつか、間違いなくサン・ジェルマン伯爵が作曲した作品が現れるかもしれません。
(訳注:C.P.E.バッハ(C.P.E. Bach):カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ。J.S.バッハの二男。)
紛れもない事実
Fact Not Fiction
私は、伯爵について、真実であることが判明している絶対確実な事実だけをご紹介し、疑わしい情報や軽薄なゴシップはすべて捨て去ろうと努めました。しかし、確固たる事実を突き止めようとする世界で最も強い意志を持っていた私の先人たちにとっても、私にとっても、それはほとんど不可能な仕事でした。この謎に満ちた人物の人生のさまざまな側面が、完全に明らかになることは決してないでしょう。彼の著作からだけでも、彼が高度に熟達した神秘家であることが分かり、ルイ・クロード・ド・サン・マルタン(Louis Claude de Saint Martin)に似た性質と洗練を思わせますが、しかし、彼が本当のその著作を書いたのか、それとも、彼よりはるかに深遠で謎に包まれた誰かの影武者にすぎなかったのか、それを確実に見極めることは誰にもできません。
(訳注:ルイ・クロード・ド・サン・マルタン(Louis Claude de Saint Martin, 1743~1803):フランスの神秘家。「名も無き哲学者」というペンネームで、伝統マルティニスト思想についての著作を行った。)
フランス皇帝ナポレオン3世は、サン・ジェルマン伯爵に関する完全な調査書類を作るよう命じましたが、気の遠くなるような努力が費やされた後に、この偉大な人物に関する文書の山はすべて、結論の信憑性を立証する貴重な証拠や資料とともに、保管していた建物もろとも炎に包まれてしまったのでした。それはまるで、彼の秘密が保たれることが、運命として定められていたかのような出来事でした。彼が優れた神秘家であったということを事実と考えるべきなのか、それともそれは、単にあいまいな事柄だと見なすべきなのか、正直なところ、私には分かりません。しかし、伯爵が書いたとされる、文章の奥深さと音楽の美しさによって、真の神秘家の修練を積み、深遠な体験を得た一人の、あるいは複数の人物の存在が示されていることは、紛れもない事実です。
脚注
Endnotes
1. Collection des memoires relatifs a la revolution francaise (Paris 1824)
2.ゴントー公爵(Duc de Gontaut)は、ショワズール公爵(Duc de Choiseul)の義弟で、サン・ジェルマン伯爵に支援されていた。
3. Memoires inedits de Madame la Comtesse de Genlis, depuis 1756 jusqu’a nos jours, Vol. 1, 2nd edn (Paris 1825).
4. Genealogischer Archivarius aus dem Jahr 1736.
5. Dieudonne Thiebault in Mes souvenirs de vingt ans de sejour a Berlin (Paris 1804).
6. Paul Chacornac in Le Comte de Saint-Germain (Paris 1947)
7. G・J・ファン・ハーデブルークの回顧録の1762年3月の記述(Gedenkschriften van Gijsbert Jan van Hardenbroek, (1747-1787), uitgegevan en toegelicht door Dr F J L Kramer, Amsterdam 1901)
8.ラ・トゥール(Maurice Quentin de la Tour, 1704-1788)は、ルイ15世や王室の人たちの肖像画で有名。ヴァンローという名前の有名な画家は2名(Jean Baptiste (1684-1745) と Carle (1705-1765))いるが、ジャンリス伯爵夫人が言及したのは後者であると思われる。
9. Poemes philosophique sur l’homme, Mercier, Paris, 1795.
10.Le memorial d’un mondain by J M Comte de Lamberg (Au Cap Corse 1774).
11.名前の冒頭の「サン」の部分は通常「Saint」と綴られるが、サン・ジェルマン伯爵は省略して「St」とだけ書くのを好んだようである。
12.Zeitschrift fur Musik (March 1925, Leipzig)
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