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真善美について

2016年7月8日


 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋では、すっきりとしない梅雨の日が続いています。

そちらはいかがでしょうか。

 

このような時期に、真善美という、やや重たい、すっきりとしない感じの話題を選んでしまいました。

しかし、暑い日に熱いお茶を飲むと、かえってスッキリとするようなこともあります。最後には実用的な話もありますので、お付き合いいただければと思います。

 

さて、古代中国の人は「真」、「善」、「美」という字で何を表していたでしょうか。調べてみると、ずいぶんと重々しいイメージでした。

 

「真」の旧字体は「眞」です。この字の上の部分「匕」は行き倒れた人を表わし、下の部分「県」はさかさまになった首を表わします。「匕」は「化」の元になった字で、肉が骨に変化することも表わしています。全体として「真」は、人は必ず死んで骨になるという真実を表わしています。

「善」は、元々は「羊」の両側に2つの「言」を書いた文字だったそうです。この2つは原告と被告を表わし、「羊」は、羊に似たある神聖な動物を表わし、それを用いて裁判が行われました。善とは、勝訴した方を表わしたようです。

「美」という字は、「羊」と「大」からなります。「羊」は羊の上半身で、「大」は羊の下半身を表わし、「美」は、神へのいけにえにする羊が、まるまると太っている様子を表わします。

 

いかがでしょうか。読んでいて、梅雨の暑苦しさがずいぶんと増したのではないでしょうか。

真善美についての古代中国の観念は、これからご説明する、古代エジプトやギリシャで発展した、西洋の真善美(Truth, Goodness and Beauty)についての考え方とはずいぶんと違っています。

 

公式な歴史では知られていないような超古代に、高度に発達した文明が存在していて、その知識の一部が古代エジプトや古代ギリシャに伝えられたという言い伝えがあります。

このような話をうさんくさいと考える人もいるようですが、プラトンなどの古代ギリシャの哲学者の残した文章とか、神話とか童話とか、宗教関連の文章を読んでいると、超古代文明の存在をほのめかすような証言があちこちに散りばめられていて、それらにはある程度の一貫性があるので、あながちあり得ないことではないのではと感じられてきます。

 

そのような超古代文明の知識とされている一例ですが、古代ギリシャのピュタゴラスの学派には、太陽の周囲を地球や他の惑星が回っているという説が伝わっていました。

この説は、太陽信仰を持っていた古代エジプトの神官からギリシャへと伝わったようです。しかし、長い歳月の間忘れ去られたままになり、ポーランドの天文学者コペルニクスが地動説を唱え、それが正しいと認められたのは、2000年以上後のことです。

 

ピュタゴラスの名前で思い起こされた方もいらっしゃると思いますが、中学校の幾何学の時間には、ピュタゴラスの定理を学びます。

幾何学もエジプトからギリシャに伝えられました。そして、ピュタゴラス学派でもプラトンの学校(アカデメイア)でも、幾何学は、哲学者が必ず学ばなければならない分野とされていました。

 

私たちは学校の幾何学で、三角形の内角の和が180度であることを学びます。しかし実際には、先生が黒板に書いた三角形も、自分がノートに書いた三角形も、3つの角度を測って加えても、正確には180度にはなりません。

なぜかといえば、人が引く線は必ず少しは曲がりますし、黒板もノートも正確には平らではないからです。幾何学で考えている三角形は、黒板やノートに書かれたような現実世界にある三角形ではなく、「三角形そのもの」、つまり理想的な三角形なのです。

 

ここで、ちょっと考えていただきたいのです。この理想的な三角形とは、いったいどこにあるのでしょうか。

 

現代の私たちが普通に考えると、それは観念であるので、頭の中にあるというのが答えでしょう。

では、あなたの頭の中にある理想的な三角形と、他の人の頭の中にある理想的な三角形は同じなのでしょうか。もし少しでも違うとしたら、どちらの内角の和も180度だと、なぜ確実に言うことができるのでしょうか。

ちなみに、文明を持つ宇宙人がいたとしたら、彼らの幾何学でも三角形の内角の和は180度だということは確実です。

 

このようなことから、古代ギリシャのプラトンの学校では、理想的な三角形は頭の中にあるとは考えられていませんでした。「三角形そのもの」は「三角形のイデア」と呼ばれ、イデア界という場所にあると考えられていました。

アテナイの学堂(拡大図)

ラファエロ作の絵画『アテナイの学堂』(拡大図)。中央の左がプラトン、右がアリストテレス。

 

イデア界には、時間も空間もないと考えられていました。つまり、永遠であり無形の世界です。

そして、イデア界は現実世界のおおもとであるとされました。つまり、イデア界こそが根源的に存在する原型であり、五感でとらえている事物の世界は、そこから作られた出来の悪いコピーのようなものであると考えられたのです。

 

植物の例で考えるとこうなります。咲いているひとつひとつのハイビスカスの花は、花びらの形が少し歪んでいたり、色が部分的に抜けたりしています。しかし、個別のハイビスカスのおおもとになる、完全なハイビスカスの原型があり、現実のハイビスカスは、それが物質の世界にコピーされたものだと考えるわけです。

この話から、遺伝子のことを思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。しかし、古代ギリシャ時代に遺伝子は知られていませんでしたし、もし知られていたとしても、単なる物質に過ぎない遺伝子は、イデアだとは見なされなかったことでしょう。

ハイビスカスの花

 

このイデアという考え方は、どんどんと拡大解釈されました。たとえば、「ある人の顔が美しい」ということを考えたとします。「ハイビスカスの花が美しい」という場合とは、主語が違いますが述語は同じです。

現代では多くの人が、2つの場合に「美の観念」が共通していると考えます。一方、プラトンの学派では「美のイデア」があると考えられていました。つまり、イデア界に「美そのもの」が実在し、それが美しいことの原因であると考えられました。

 

プラトンの学校では幾何学が重んじられていました。それは、幾何学の勉強がイデアを実感するきっかけとなり、最高のイデアである「善のイデア」を見ることができる訓練となると考えられたからです。

このような考え方を馬鹿馬鹿しいと感じられるでしょうか。いえ、なかなかそうとも言い切れないのです。たとえばプラトンは『国家』という著作で、イデアの考え方をもとに、民主制や他の政治システムについて検討を行なっています。そして、民主制の欠点は衆愚政治に陥りやすいことだというような、現代人にも耳が痛い内容を指摘しています。

 

ちなみに『国家』では、国を統治するのに理想的な人は、「善のイデア」を見ることができる哲学者だとされています。

関連記事:「政治について」(バラ十字会AMORCフランス代表のブログより)

http://www.amorc.jp/blog/?p=1177

 

18世紀の哲学者カントは、イデアの考え方と真・美・善の根拠を哲学的に分析して、真理については『純粋理性批判』、美については『判断力批判』、善については『実践理性批判』という有名な三批判書を完成させています。

たとえば、このうちの『純粋理性批判』によって、人類は初めて、数学的真理や、時間・空間の正体は何かということ、そして、人間の理性の限界をかなり正確に理解できるようになりました。

 

真実を知りたい、善を行ないたい、美しい心を持ちたいと誰もが思っています。突き詰めて言えば、真・善・美は、私たちが生きていく上での究極の目標にあたるのではないでしょうか。

 

このうち善については、以前に2回、テーマとして取り上げたことがあります。

関連記事:「学校の道徳の時間は退屈でしたか」

http://www.amorc.jp/blog/?p=164

関連記事:「善と悪について」(バラ十字会AMORCフランス代表のブログより)

http://www.amorc.jp/blog/?p=1058

 

真・善・美が、なぜ3つでワンセットなのかということには、テーテンスという18世紀のドイツの心理学者が一つの答えを出しています。彼は人の心の働きを知(知性)・情(感情)・意(意志)の3つに分けて考えました。真・美・善は、この順序で、知・情・意に対応している理想です。この心理学者は、先ほどのカントに影響を与えていると言われています。

 

また、ケン・ウィルバーという現代のアメリカの思想家は、インテグラル理論というモデルを使って別の答えを出しています。

このモデルによれば、世界における自己のあり方は、個人的/集合的、内的/外的という観点から、4つ(または3つ)の領域にマッピングして考えることができます。

 

個人的で内的な領域とは、自分の思考、感情、意図、心理などのことを指し、「I」(私)で代表されます。

集合的で内的な領域とは、人間関係、文化、共通の価値観などを指し、「We」(私たち)で代表されます。

個人的で外的な領域とは、自分の身体、自分の行動などを指し、集合的で外的な領域とは、環境、社会構造、社会システムなどを指します。

最後の2つの外的な領域は、まとめて「It」(それ)で代表されます。

 

このうち、「I」という領域に表れる理想が「美」であり、「We」という領域に表れるのが「善」であり、「It」に表れるのが「真実」だとされます。

 

ちなみに、人間関係で生じる問題の原因の多くは、「I」と「It」の取り違えだそうです。

あなたが大切な人に、次のようなことを口にしたとします。

「何かを一緒にやっているとき、君はいつも批判的だね。」

もしかしたらこの言葉が、ひどい喧嘩のきっかけになるかもしれません。

 

このような言葉を発してしまう場合、自分の感情・意見と事実が無意識に混同されている、つまり、「I」の領域と「It」の領域が混同されていることが多いのです。

 

ですから、先ほどの発言は次のように言う方が望ましいということが分かります。

「何かを一緒にやっているとき、君にいつも批判されているように僕は感じるんだけど。」

きっと、この方が建設的な話し合いができることが多いのではないでしょうか。

 

以上、ややとりとめのない話でしたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。少しでも、あなたのご参考になる点があれば嬉しく思います。

では、また。

 

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