投稿日: 2018/01/19
最終更新日: 2022/12/09

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

寒い日が続いていますが、道端にサクラソウが咲き始めました。春が待ち遠しいですね。

いかがお過ごしでしょうか。

今週の始めに、ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のベアトリス・フィン事務局長が、長崎と広島を訪れていました。

NHKのニュースで見たのですが、広島の高校生が彼女に、こんな素晴らしい質問をしていました。

「国際的にとても望みが薄い状況の中で活動を続けていて、前向きな気持ちをどのようにして保っているのでしょうか。」

フィンさんは、こう話していました。

「自分たちが歴史の正しい側にいることを忘れてはならないと思います。」

(I think we have to remember that we are on the right side of history.)

これは傲慢な発言でしょうか。

私はそうは思いません。

私ごとですが、昨年末に広島の平和記念資料館を訪れる機会があり、被爆された方のお話を直接聴くことができました。

そのおかげで、原爆が引き起こした惨状をわずかですが思い浮かべられるようになりました。

原爆ドーム
原爆ドーム

現在世界に配備されている核兵器は、一発あたり、おおむね広島型の数百倍の威力があります。

人殺しのためだけに作られたこの兵器をなくそうとすることは、私は、理屈抜きに正しいと思っています。

広島の平和記念資料館を、まだ訪れたことがありませんでしたら、ぜひ訪れてみることをお勧めします。

さて、今回も偶然ですねと話したのですが、山形県に住む私の友人の山下さんから、このブログに寄稿をいただきました。

▽ ▽ ▽

記事:『頑固おやじの反戦メッセージ』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

私ごとですが、昭和41年に工業高校を卒業。その後、地元の自動車ディーラーに就職。その2年後に家業(自動車整備・販売業)を継ぐために退社。

それから約半世紀、大勢の人と出会いました、忘れられない思い出もたくさんあります。今回はその中でも特に忘れられない思い出のひとつです。

ある日のこと、六十歳代と思われる男性の方がふらりと事務所に。

開口一番「私、隣町のKの父親です、息子がお世話になってます、私は車の運転免許は持ってませんが息子のこと、よろしくお願いします」と。

なんと、顧客の親父さんが挨拶に来られたのです。

実は、Kさんは私と同じ高校の出身で後輩にあたる方、少し前に縁あって我が工場の顧客になってくれたのです。

これを機に親父さん、時折ふらっと現れては毎回のごとく駅前駐輪場での仕事の話や(ほとんどぼやき話でしたが…)、近くに住む同級生たち(私も良く知ってる方々でした)の若かった頃の話を実に楽しくにぎやかにご披露。

これは爆笑ものでした。たとえば「最近の高校生の自転車通学のモラルは全くなっとらん。思いっきり叱るんだが、さっぱり言うことを聞かん。まったく今時の若い者は何考えてるんだ!!」と、怒りながらも笑顔でまくし立てるのです(笑)。

でも親父さん、そう言われても昔も今も高校生ともなれば、素直に「はい!!わかりました」などとは言いませんよ。私も当時はそうでしたから(笑)。

そんなある日のことです。仕事でKさん宅を訪問すると親父さんが茶の間で退屈そうな顔で座っています。

私が「こんにちは~」と声をかけますと。「お~!! 山下さん。急ぎでなかったらお茶でもどうだね」。

そうですね、と茶の間に上がらせてもらうと……まずは恒例の「ぼやき節」から始まり、話題が車のことになりました。

すると何時もの恵比寿様のような笑顔が消え、遠くを見るような目になり。「実はね、私は戦時中に軍隊で車の運転やってたんですよ。

そして戦争が終わってしばらく後、申請すれば正式な運転免許証を交付してもらえるという通達が入ったんだけど、私はその話を蹴ったんですよ……」。

それを聞いて、私は「えっ!? 何故ですか、もったいないことを」。

広島の平和記念公園にある平和の鐘
広島の平和記念公園にある平和の鐘

すると、こんな話を聞かせてくれました。

戦時中に陸軍で自動車運転の任務に就いていたのだそうです。

そして戦況も怪しくなってきた頃、所属する部隊に広島と長崎に新型爆弾が投下されたとの情報が入り、その数日後、広島行きの命令が下ったのだそうです。

詳しい情報も何もなく、とにかく行ってみると広島市内は一面焼け野原、さらに黒焦げとなった遺体……。

まさに地獄絵図だったそうです。そして広島での任務は、遺体をトラックに乗せ、火葬場に送り届けることだったのだそうです。

あまりの悲惨さに涙はおろか声も出ず、頭の中は真っ白、パニック状態、放心状態のままハンドルを握り、必死になってがれきの中を走り続けたのだそうです。

それからしばらくして終戦、任務を解かれ故郷の山形に。しばらくして世の中が落ち着きを取り戻してきた時だったそうです。

「戦時中に軍隊で自動車の運転に従事した者には特例として無条件で運転免許証を交付する、よって交付を希望する者は申し出るように」といった通達が入ったのだそうです。

ところが親父さん「なまじっか車の運転ができたためにとても言葉では言い尽くすことのできない辛い経験をすることになってしまった。もう二度と車のハンドルは握らない、握りたくない」、とかたくなに言い張り、申請しなかったのだそうです。

親父さんはもう亡くなられましたが、今になって思えば、あの時に聞かせてもらった話は戦争のない平和な世界を願う「頑固おやじの反戦メッセージ」だったのでしょうね。

△ △ △

下記は、前回の山下さんの記事です。よろしければ、どうぞこちらもお読みください。

参考記事:『常識が崩れた瞬間

今日はこの辺りで。

また、お付き合いください。

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