こんにちは。バラ十字会の本庄です。
朝晩がすっかり寒くなり、紅葉の便りもあちこちから聞かれるようになりました。
いかがお過ごしでしょうか。
私の友人で作編曲家をしている渡辺さんから、人間の自由意志についての文章が届きましたのでご紹介します。
▽ ▽ ▽
『人間は本当に自由か』
■人間の自由意志とは
「人間には自由意志があり、様々なことを自由に選択することができる」
おそらく、このことに異論を唱える方は、ほとんどおられないと思います。
では、人間の「自由意志」とは実際にはどのようなものなのでしょうか?
何事も、自分で自由に選択していると思っていたとしても、本当にそうなのでしょうか?
■選択するということ
例えば、自分の好みのコップとして、「赤いコップ」と「青いコップ」のどちらかを選ぶとき、そのような場合でも、何らかの思考によって選択を行っています。
そして、自身の思考によってどちらかのコップを手に取るのですが、このときの判断を論理的に説明することはできません。
「赤が好きだから」という理由で選んだ場合、「なぜ赤が好きなのか」ということについて、その根本の理由は、論理的に説明することができません。
「よくわからないが赤が好きだから」や「直感で赤がいいと思ったから」などという答えはできますが、「なぜ赤を選んだのか」という本当の理由は、答えることができません。
これは、どのような理由によって、どちらかのコップを選んだとしても同じことが言えます。
たとえ、自身の「論理的な判断」によって選択したとしても、「なぜ、それが論理的なのか?」、「そもそも論理的な判断をしたときの基準を選んだ理由は?」などと突き詰めて考えると、それを選択した理由を論理的に説明し尽くすことはできません。
■機械的な思考回路
では、コンピューターなどのプログラムではどうでしょうか?
この場合、「Aの場合は赤」、「Bの場合は青」というように、様々なパターン(ロジック)によってどちらかを選択するようにプログラムされます。
そして、その判断結果は、同じシチュエーションの場合、異なることはありません。
例えば、「1+1=2」とプログラムした場合、「1+1=0」や「1+1=3」となることはありません。
■人間の思考回路
このような機械的な思考回路の場合、最初にプログラムされたならば、それが変更されることがなければ、何度でも同じ答えが出てきます。
言い換えれば、最初に規定された「論理」に沿って、同一の答えが導かれます。
しかし、人間の自由意志(自由な思考)は、論理的には「1+1=2」であるとわかっていても、「1+1=0」を選択することができます。
正誤の判断ではなくても、「Aを買おうと思っていたのに、Bを買ってしまった」、「いつも決まった時間の電車に乗っているが、今日は一本後の電車に乗った」など、毎日のルーチンが決まっている(決めている)ことさえも、その日の気分によって変えることができます。
これは機械と人間の決定的な違いであり、機械は論理的に導き出した答えを自分自身で覆すことはありません。
しかし人間は、論理的に導き出したはずの答えであっても、自分自身の判断により最終的に覆すことができます。
しかし、そうではあっても、先ほどご説明したように、「なぜ変えたのか?」、「なぜ変えなかったのか?」ということについて、「直感」という言葉を持ち出すことはできても、その根本原因を説明し尽くすことはできません。
■論理的な思考回路=機械的な思考回路
では、この説明することができない「ブラックボックス」のような自由意志(自由な思考)を論理的に説明できたとしたら、どうなるでしょうか?
もしそのようなことができるとすれば、私たちの意識は「論理的な思考回路」を超える働きができないことになり、「機械的な思考回路」と同じ働きだけができることになり、本当の自由意志はなくなってしまいます。
普段、私たちは、意識という領域(意識下)において自由に物事を選択しているように思っていますが、実際には、その一段上にある「ブラックボックス」のようなものの促しによって、意識を利用して行動しているとも考えられます。
しかし、もしもこの「ブラックボックス」の回路が論理的に解明されたとしたら、それはもう自由意志とは呼べず、プログラムに沿って判断するのと同じになってしまいます。
ですから自由意志とは、この「ブラックボックス」が、論理的な意味で完全に「ブラックボックス」でなければ、自由であるとは言えないことになってしまいます。
■ブラックボックスの正体
では、意識の一段上にある、この「ブラックボックス」のようなものは、一体何なのでしょうか?
私は、「魂」や「ソウル」(soul)と一般的に言い表されているものの働きではないかと思います。
ただ、これはまだ科学的に立証されている存在や働きではありません。
しかし、人間の意識を考えた場合、唯物論的な考え方ではどうしても説明のつかない領域(ブラックボックス)が存在するような気がします。
そして、もしもこの領域を否定してしまった場合、人間の自由意志とは、まったくの幻であるというような逆説が生じるように思われます。
人間は、この「ブラックボックス」のような「魂」の領域を、昔から直観的に理解していたようにも思われます。
例えば、
・魂が震える
・魂の琴線に触れる
・魂が呼び合う
などの表現は、慣用的にも使われ、皆さんもよく実感されると思いますが、この「魂」を「日常意識」に置き換えたとしたらどうでしょうか?
・日常意識が震える
・日常意識の琴線に触れる
・日常意識が呼び合う
どうにも、しっくりきません。(笑)
ですから、私たちは、普段から「日常意識(顕在意識、客観的意識)」というものの一段上にある「魂(ソウル)」というものの存在を、認める、認めないにかかわらず、経験的に知っているのではないかと思われます。
最後に、魂に関する、有名な詩をご紹介したいと思います。
『完全なるもの』
ただそれら自体だけが、それら自体を、
そして、それら自体の同類を理解する、
ちょうど魂だけが魂を理解するように
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』より)
(原文)
“Perfections”
Only themselves understand themselves and the like of themselves,
As souls only understand souls.
△ △ △
ふたたび本庄です。
前回、スピリチュアルという言葉が、かなりあいまいな意味に用いられていることがあるということを下記の参考記事でご紹介しましたが、「科学的」という言葉もまた、あいまいな意味や、さまざまに異なる意味で用いられていることがあります。
参考記事:『スピリチュアルとスピリチュアリティ』
そのひとつとして、最もよく用いられているであろう「科学的」の意味は、「再現することのできる実験で、確かめることのできる事柄」というような内容だと思います。
これはおそらく、19~20世紀に急速に発展した物理学を応用した産業技術によって、私たちの生活が豊かで便利になったことの影響でしょう。
この意味で「科学的」であるということは、とても限定的であり、ほんのわずかな分野にしかあてはまりません。
歴史学や考古学などのほとんどの人文科学も、経済学なども、条件を統一した実験ができないため、この意味では科学的でないことになります。
また、人間の心は生まれたときから多様であり、周囲の状況も個人個人で異なり、統一した実験を行うことができず、厳密に言えば、先ほどの意味で科学的に研究することはできません。
21世紀前半の現時点においては、「科学的である」ということと「真実である」ということが、ほとんど同じ意味だと多くの人が思っていますが、よくよく考えて見ると、このことにはさまざまな問題が含まれています。
今回の渡辺さんの文章には、この問題が間接的に指摘されていたように私には思えます。
参考記事:『科学的なことと非科学的なこと- アインシュタインと神秘学』
下記は前回の渡辺さんの文章です。
参考記事:『意識と魂はどこにあるか』
それでは、今日はこの辺りで。
またお付き合いください。
追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。
コメントは受け付けていません。