投稿日: 2023/08/29
最終更新日: 2023/09/06

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り

すき間を見つける - 言葉と言葉の間に存在する無音の「すき間」とは
Find The Gap

アメリア
by Amelia

すき間を見つける(Find The Gap)

ロンドンを訪れたことがある人なら、きっと街の地下鉄網を覚えていることでしょう。どの駅でも、電車のドアが閉まり発車する前に、「すき間にご注意ください」(Please mind the gap.)という礼儀正しい女性の声が響き渡ります。もちろん、この「すき間」とは何のことかはお分かりでしょう。それは「電車とプラットホームの間のすき間」という、とても具体的な意味を持っています。そこには誰だって足をとられたくはありません。しかし、これとは別の種類の「すき間」があります。それは、ロンドンの地下のすき間のような「もの」ではありません。それどころか、それは、私たちが知っているあらゆる「もの」とは正反対のものです。

話し言葉の、言葉と言葉の間に存在する無音の「すき間」に注意を向けたことがおありでしょうか。あるいは、文章の語と語の間にある空白のスペースについてはどうでしょう。それらは、些細なものですが、間違いなくそこに存在しています。文字通り何百万もの「すき間」があるのですが、注意が向けられることは、まったくありません。それらはまるで…、「存在しないもの」といった具合です。意識下ではその存在に気づいているのかもしれませんが、あくまで余分なものに過ぎず、マイナスの数と同じように無視して構わないものとみなされています。というのも、プラスの数ならば、物体を数えることを通して個数として「理解」することができますが、マイナスの数ではそれができないからです。

マイナスの数が具体的な意味を持つようになったのは西暦一世紀からです。プラスの数を把握するときに、私たちは無意識に物体の個数と関連させていますが、マイナスの数を「思い浮かべる」ことは、現在でも容易なことではありません。言葉と言葉の間にあるすき間も同様です。ほとんどの人にとってそれは「存在しない」ものであり、余分なものであり、したがって考えることもないのです。

しかし、皆さんにお伝えしなくてはならないちょっとした秘密があります。言葉と言葉の間のすき間は、実際には極めて重要であり、私たちが頼まれずとも渡したり受け取ったりする、「言葉による」(訳注)情報以上に重要である場合もよくあります。話し言葉も書き言葉も、思考しているときの心の中の言葉も、元々はそこに含まれていた崇高で、ほとんど「魔法のような」内容が、そこから失われてしまいました。それは私たちの生活が、言葉、より広く言えば「情報」によって支配され過ぎているからです。言葉、すなわち情報には、3つの種類があると考えることができます。

(訳注:言葉による(wordy):英語の「wordy」という語には、「言葉による」という意味のほかに、「冗長な」、「くどい」、「口数の多い」という意味がある。)

(a)友人や、テレビ、ラジオ、ポッドキャストなどを通して聞く話し言葉。そして、当然ながら、他の人に話しかけるときに使用する言葉。

(b)フェイスブック(Facebook)やツイッター(Twitter)、電子メールやネット記事で使われる書き言葉。本や雑誌、新聞は言うまでもありません。そう、紙媒体は今でも影響力を保っています!

(c) そして最後に、思考するときに使われる言葉。「私は、何かを考えるときに言葉なんか使わないぞ」と反論する人も多いことでしょう。この意見には、もちろんわずかな真実が含まれてはいますが、おおむね誤りだと言えます。私たちは誰もが、程度の差はあっても、心の中で構成された言葉や、より広く言えば、言葉でも表現できる記号を使用して、自分の考えを形にしているからです。

言葉による情報

呟きの場合

A Case of the Mumbles

日々の仕事に取り組む際に、誰かと交わす予定の会話を想像して呟いてみたり、その内容を事細かに思い浮かべたりして、それが元で、ひどく感情的になってしまう人が意外と多いのは、ちょっとした驚きです。しかも、そうした心の中の会話の多くは、一方がいかに正しく、もう一方がいかに間違っているかといった内容の議論なのです。

こうした「内なる対話」は、実際に語られる言葉を声に出さずに心の中で喋るか、あるいは小声で呟くという方法で行われます。そして、内なる対話を構成しているのは、言葉でないときには象徴です。象徴を作り出せば、文や段落全体、あるいは大量の情報を含む本を、丸ごと表すことができます。結局のところ、そのような象徴、文、段落、本は、十分に練られた言葉のひとつひとつから構成されると考えることができます。なぜなら、それらは情報であり、いかなる種類の情報も、最も基本的なレベルでは純粋に数学的な性質を持ち、あらゆる言語も、純粋に数学的な性質を持っているからです。

私たちが生きている社会は、情報と言葉に支配されています。私たちが処理しなければならない情報の量は、遠い祖先が受け取って理解しなければならなかった情報の量に比べて、はるかに膨大です。200年前に戻って、あなたが一人で部屋にいる場面を想像してみてください。あなたは普段、何をしているでしょうか。無言で腰を下ろし、耳鳴りの音を聞いたり心臓の鼓動を感じたりしたのではないでしょうのか。おそらく、いつも通りの仕事を終えてしまえば、やるべきことは言葉を使うことくらいしか残っていないでしょう。窓の下の通りで誰かが話しているのを聞いたり、ことによっては身を乗り出して彼らに話しかけたり、あるいは本を読んだり、短い日記を書いたり、誰かに手紙を書いたり、誰もが知っている賛美歌をそっと口ずさんだり、はたまた、過去に自分を励まし元気づけてくれた言葉を心の中で思い出したりといった感じです。当時、行うべきことは数多くありましたが、正直な話、選択肢は今日ほど多いとはとても言えません。

現代はと言えば、残念ながら、リモコンに手を伸ばしてテレビのスイッチを入れ、くだらない番組を見るとか、パソコンのボタンを押して起動し、たまったメールを大急ぎで処理したり、ネットを見たり、その間、面白いけれども重要ではないポッドキャストを流したりしているのです。やることの選択肢は、昔と比べてはるかに広くなり、結果として私たちが処理したり理解しなければならない情報量は、莫大に増えました。私たちに届く情報が雪だるま式に増え続けているため、日頃から過剰な負荷がかかり、やけを起こす寸前にまで追い込まれ、「世界を止めて逃げ出してしまいたい」と切望している人もいます。元気を取り戻し、心の霧を一掃し、様々な依存症から解放され、本来の自分である心の源泉を発見することができる、「静かな内なる宇宙」を見いだすことが、年を追うごとにますます難しくなっているということに疑いの余地はありません。私はこの「内なる宇宙」を「内なる静けさ」とか「魂の静けさ」と呼ぶことを好みますが、これこそが、「言葉と言葉の間にある無音のすき間」を話題にしているときに、お伝えしたいと思っていることです。

私たちが生きている社会は、情報と言葉に支配されている

言葉は情報の断片である

Words: Bits of Information

厳密には、「情報の断片と断片」の間にある静寂のすき間と言うべきなのでしょうが、それでは、同じように十分に理解できないのではないでしょうか。まあ、この記事をお読みになっていらっしゃる方なら、私の言いたいことをきっと理解してくださっていることとは思いますが。要点を単刀直入に述べるならば、無音のすき間は「無」ではありません。先ほど触れたマイナスの数と同じように、そこにあることは分かっていても、ありありとは思い浮かべることができない「もの」です。それは役に立つ「もの」ではあるものの、「すき間とすき間に挟まれた言葉」、すなわち単語によって伝えられる情報とは完全に異なる性質を持っています。情報の断片と断片との間に存在するすき間は、情報そのものとは違います。そのすき間、つまり「内なる静けさ」の時間には、それ自体の性質がなく、言葉を通して受け取る情報とは全く似ていません。しかしそのすき間は、私たちの幸福のために決定的に重要であり、生存のために決定的に重要になることさえあります

実際のところ、このすき間こそが、私たちが使用したり酷使したりしている言葉の、まさに源泉なのです。したがってこのすき間は、私たちが受け取ったり発信したりしている情報の源なのです。その昔、おじいちゃんのおじいちゃんが若かった頃、そしてそのずっと以前も、人生はもっと落ち着いたものでした。締め切りに追われることもなければ、気を散らすような娯楽もほとんどなく、ただ「じっと座っている」だけの時間が多く、心がものごとを静かに処理できるように、時間が経つのに任せておくことができました。これに対して、自由な時間が大幅に減った現代では、心の整理のために、自由時間ではなく睡眠時間に頼らざるを得ない状況です。もちろん私たちの祖先も、戦争や疫病や飢餓など、現代と同じように恐ろしいさまざまなできごとに見舞われていましたが、それでも、「静けさ」という人間の中心を見つけることは、24時間フル稼働の現代社会よりもたやすかったに違いありません。

私たちに届く情報が雪だるま式に増え続けているため、日頃から過剰な負荷がかかっている人がいる
私たちに届く情報が雪だるま式に増え続けているため、日頃から過剰な負荷がかかっている人がいる

これが2021年です。それを、素直に認めましょう

It’s 2021 – Just Accept It!

2021年に入り、すさまじい新型コロナの大流行がやっと収まりつつあることに感謝して、それを喜ぶべきだというのに、私ときたら、またまた不平をもらしてしまいました。私は、「先進」社会に暮らすことの、あらゆる快適さと利便性を手にしていながら、なぜ「古き良き時代」にこだわるのでしょう。実際のところ、良き時代は、「今」「ここ」にあるというのに。遠い過去が好ましくかつロマンチックに映り、現在が味気なくありきたりに思われるのは、なぜなのでしょう。おじいさんのおじいさんが生きていた200年前は、内なる静けさの瞬間を見つけるチャンスや時間は今より多かったかもしれませんが、それを見いだすことは、現代の私たちと同じように、簡単ではなかったのかもしれません。内なる静けさを見つけることは、どの時代でも厄介で困難なチャレンジだったに違いありません。それに、ひょっとしたら、私たちは絶え間ない喧騒やあれこれの活動と共存しなくてはならないからこそ、真の「内なる静けさ」に浸る得がたい瞬間を、心から大切だと感じるのかもしれません

ですから、おじいちゃんのおじいちゃんやその当時の人は、静けさに浸る時間がないということが何を意味するかさえ知らなかったことでしょう。一方、今の私たちは、それを知ってはいるものの、どうすることにもできずに苦しんだり、あるいは、それ以上何もしないのです。ですから、今の騒々しくて忙しくて、活気とチャレンジの機会に満ちあふれる世の中に感謝し、ありのままに受け入れましょう。歴史上のどの時代にも、その時代なりの課題がありました。そして現代人である私たちの課題は、言葉と言葉の間にある無音のすき間を見極め、その有益な使い方を学ぶことです。これほど価値のある「すき間」は他にあるでしょうか。私は一つもないと思います。

ほとんどの人が、静けさ(もちろん「心の中の静けさ」です)を見いだす方法を知りませんが、それが望ましいものであることを本能的に確かに知っていて、一度経験すればその真価を認めます。この点から考えると私たちは、自身のスピリチュアリティ(spirituality:内面の崇高さ)を真に開花させてくれる、ただ一つのものに、生まれつき固く結びつけられているのではないでしょうか。調和と真の創造性に満ちた、静かで穏やかな生活に戻り、自然本来のバランスと自身の内的なバランスに戻るために必要な地図を、とても多くの人が探しています。私は、長年にわたりバラ十字会についての講演を行い、その学習内容が、いかに生活をより良いものに変えることができるかというお話をするという、幸せな機会を数多く与えられてきました。そのような場では、日々強いられている騒々しく激しい競争ではない別の何か、もっと価値あるものを見つけたいと心から願っている方々が、客席の中に少なからず見受けられます。それらの方々の目には、深い誠意と真剣さが燃えさかっており、私はその表情を目にして、涙がこみ上げそうになることもあります。そして、私が「言葉と言葉のすき間」のたとえを用いて「心の中の静けさ」の話をするたびに、会場は、まるで明かりが灯ったかのように、新たな理解が生じ、熱気あふれる、さまざまな質問を受けることになります。

すき間はどこにあるのか

So Where Are The Gaps?

それでは、この貴重な「すき間」をどうやって見つけたらよいのか、また、それ以上に重要なことですが、この「すき間」を有効に活用するためには何から手をつけたら良いのでしょうか。もちろん、真っ先にやらなければならないことは、情報を受け取って処理する方法を筋道立てて見直すことです。そして、その第一歩としてお勧めしたいのが、言葉の使い方を改善することです。私たちは、社交的であろうとするあまり、実際には話すことなどないのに、強いて会話をしていないでしょうか。もしそうであれば、考えてみてください。それは本当に必要なことでしょうか。言葉を口にするときには、言葉を書くときや言葉を使って思考するときよりも、より細やかで洗練された、ワンランク上の言葉遣いをする必要があります。

ウォルター・デ・ラ・メア(訳注)はこう言いました。「生きた言葉の使い方を学ばない限り、我々は蓄音機から流れる言葉を喋る蝋人形であり続けるだろう。」この言葉は、蓄音機に蝋管(訳注)が取り付けられていた時代のものですが、表されている原則は、100年前も今も通用します。言葉を発するときには、明確かつ簡潔であり、誠実であり、そして何よりも聴き手とその場の状況を考慮しなければなりません。聴き手との目に見えない心のつながりがあってこそ、メッセージの趣旨が伝わります。古くさい蓄音機の、蝋が塗られたシリンダーに前もって録音された、演出が加えられたメッセージよりも、生の声の方がはるかに勝っています。実際にリアルタイムで話された言葉が持つ、生き生きとした感じ、活力、心と心の絆に、録音は決して及びません。また、たとえほんの一瞬であっても「静けさに浸る」ことができたときに感じられる、言葉のすき間の持つ「生き生きした躍動感」は、常に予想外のものです。

(訳注:ウォルター・デ・ラ・メア(Walter de la Mare, 1873-1956)英国の詩人、小説家、童話作家。)
(訳注:蝋管(was cylinder):初期の蓄音機に用いられた録音用の媒体。ワックスが塗られた円筒形の紙や、円筒形のワックスであり、そこに音声情報が彫り込まれた。)

言葉は、考えていることを最も具体的に表現する手段です。言葉は小さな封筒のようなもので、そのひとつひとつに、静けさの中で生じた、形がまだ与えられていないけれども意味を持つ思考が含まれています。そして、ひとつひとつ注意深く選ばれた言葉は、美しい含蓄のある文章へと組み立てられた場合は特に、他の人たちとのコミュニケーションや、自然との交流に秩序をもたらすことを助け、究極的には、ハイヤーセルフ(higher self:高次の自己)との意思疎通に役立ちます。「まさに、息を呑むほど感動した」という言い回しを聞いたことがきっとおありでしょう。あなたも私と同じように、話し言葉であれ書き言葉であれ、ある人の言葉があまりに深く感動的で、文字通り息が止まるような瞬間を経験したことがあるのではないでしょうか。そのような瞬間は真に貴重なものであると同時に、私に次のことを確信させてくれます。優れた話し言葉や書き言葉は、内なる静けさの一瞬から、つまり「言葉と言葉の間の無音のすき間」からしか生じず、私たちはこの一瞬の間に、丸ごと「メッセージを理解」します。それはまるで、インスピレーションが、ごくりと一息に流れ込んでくるようなものです。

「考えもせずに発する言葉は、筋肉のない足のようなものだ」(アブラハム・イブン・エズラ)
「考えもせずに発する言葉は、筋肉のない足のようなものだ」
(アブラハム・イブン・エズラ)

アブラハム・イブン・エズラ(訳注)は、「考えもせずに発する言葉は、筋肉のない足のようなものだ」と記しています。考えもなしに語られる言葉は、力がなく、要領を得ず、命が宿らず、心の奥に開示されたいかなる情報から湧き出たものでもありません。

(訳注:アブラハム・イブン・エズラ(Abraham ibn Ezra、1089-1167):スペイン生れのユダヤ教学者、聖書注釈者、新プラトン派哲学者、詩人。数学、天文学、哲学、医学にも多くの書を著わした。)

一般的に言えば、人生の他の多くの事柄と同様に、「すき間」を見つけるためには、ちょっとした訓練が必要です。まず最初に、静けさというすき間が、日々の生活の中に実際に存在するということに対して敏感になる必要があります。さらに、心の中の完全な静けさという幕間(interlude)は、手に入れることができることを知る必要があります。この点を理解して受け入れたら、心の中の静けさの瞬間に浸る試みを始めましょう。最もよく知られた方法は瞑想を学ぶことですが、方法は他にもあります。あらゆる時代の精神世界の指導者が、蓮の花のポーズで座りマントラを唱える技術に代わる、独自の方法を編み出しており、活発に体を動かすなどもその一例です。静けさにたどり着く方法がどうであれ、大切なことは結局、静けさにたどり着くということです。ですから、まずはそこに至る方法を探してみましょう。どうしても見つからない場合には、瞑想の方法を学びましょう。効果が実証済みの数多くのテクニックがありますので、そのひとつを選びます。じっくり時間をかけて努力すれば、あなたの心の中にある静けさの入り口は必ず見つかります。すると、絶え間なくあなたに降り注ぐ情報の断片の間に潜んでいる、「静けさ」というすき間を体験することができます。あなたには、かけがえのない瞬間が訪れることになります。

静けさというすき間が、日々の生活の中に実際に存在するということに対して敏感になる必要がある。さらに、心の中の完全な静けさという幕間は、実現することができるということを知る必要がある
静けさというすき間が、日々の生活の中に実際に存在するということに対して敏感になる必要がある。さらに、心の中の完全な静けさという幕間は、実現することができるということを知る必要がある

言葉という環境

Word Environment

私たちにとって極めて重要である、言葉によるコミュニケーションの世界の中で、あらゆる方向から押し寄せる言葉の洪水が、ほとんどいつでも、文字通り私たちに降り注いでいます。そして、そうした言葉のすべてが、私たちの注意を引こうと競い合っています。メディアは、紙媒体と電子媒体のいずれもが、その好例です。ツイッターやフェイスブックなどを使った電子的なコミュニケーションが話し言葉に取って代わりつつあり、そこでは、いわば「単なる思いつき」による他愛もない一言が、例外どころか主流になっています。まれに、目の醒めるような絶妙な一言が登場することもありますが。現代は、人目を惹く華やかな動画も含めて、コンピューターに依存する時代ですが、それでもやはり言葉は、私たちのコミュニケーションや知識の最も重要な源泉です。言葉はまた、あらゆる他のものと同じように、良いことにも悪いことにも使われます。言葉や文章には、すき間から生まれるものもあれば、そうでないものもあります。

ですから、言葉を正しく使い、日常生活の中に調和を保ちたいと思うなら、言葉に関して私たちに行うべき必要があることは、ただ、静けさというすき間から、言葉が出てくるように、できるだけ心がけるということだけです。携帯電話を使った文字メッセージのやり取りは、コミュニケーション手段として極めて一般的な手段になっていますが、人間同士が直に触れ合う機会がかなり減ったために、深刻な精神疾患や深い孤独に陥ってしまう人もいます。ある友人はこう言いました、「紙のスパゲッティじゃ、スパゲッティとは呼べないわ!」。

話し言葉、手書き文字、タイプ文字、コンピュータテキストなど、どのような形であれ、言葉は慎重に選び、言葉と言葉の間の無音のすき間から言葉を探し出し、できるだけ少ない語数で、メッセージをはっきりと正確に伝えましょう。言葉は、あなたの内的体験が表に現れ出るときの姿なのです。もしあなたが、私的で干渉されたくない事柄を明かそうとしているのであれば、考えを表明するときには、必要最低限の言葉だけで伝えましょう。自分の考えの核心を理解してほしいのですから、「紙のスパゲッティ」ではなく「本物のスパゲッティ」を差し出してください!考えを、明確で、簡潔で、正確なものにしてください。信じられないかもしれませんが、ほんの数語で十分でしょう。カバラの賢者はこう言いました、「口数を減らし、行いを増やせ」。

自分とは、自身が抱く考えであり、自身が発する言葉です。私たちが発する言葉は、内なる自己をさらけ出します。ですから、無駄なおしゃべりで自分の周囲を汚さないようにしましょう。自分が気づいているかどうかにかかわらず、言葉によって、内的な自己に向けた呼びかけが行われています。自分自身を他の人に明かそうと、無意識の呼びかけが行われているのです。自分の思考の質は言葉に変換され、内に秘めた真実が表に現れることになります。ですから、あなたの考えを必要以上にさらけ出さないように気をつけましょう。それは、あなたが思っているよりもはるかに素早く、口やキーボードを叩く指先から滑り出してしまうものなのです。

内的な自己が、あなたに喋ってほしいと望んでいることの正確な意味を、瞬時に見いだすことができるように、あなたから溢れ出る言葉と言葉のすき間にある静けさを用いる能力を磨いてください。また、そうするために的確な言葉を用いることができるようにしてください。言葉と言葉の間に生じる静寂のすき間は、言葉の部分と同じくらい重要ですし、時には言葉以上に重要な場合もあります。静けさの持つ潜在的な力に対する意識を高めることは、言葉を上手に伝えるために不可欠です。念入りに整えられた注意の行き届いた言葉遣いは、多くの面で役立ちます。言葉から生じる効果が増すだけでなく、単なる思い込みにではない、物事の実際の姿を、より合理的に理解できるようになります。巧みに、正確に、必要なときに最小限の言葉を発することで、話したり書いたりするときの精神的な労力が節約できます。また、静けさの時間を通して、調和のとれた有益な人生を過ごすための潜在能力が高まります。私たちが何かを話したり書いたりしなければならないとき、静けさの力は、自分自身にも、また多くの聞き手や読者にも恩恵をもたらしてくれます。このことを、私がかつて読んだある記事を例にして説明したいと思います。その記事の著者が子供の頃に体験したこの出来事には、何かを語るときに無駄な言葉を省くことの大切さが示されています。

「私の祖父の次の言葉が、私の生涯を通して、ずっと重要であり続けています。『お前が一生のあいだに使うことのできる言葉の量は決まっていて、それはお前が生まれる前にすでに与えられているのだよ。宇宙の言葉銀行に預けたお前の言葉の預金といったところかな。だから、自分の言葉を使う時には、くれぐれも気をつけるのだよ。控えめな口調で話し、自分の言いたいことを正確に話しなさい。お前が使う言葉はすべて、宇宙銀行にあるお前の口座から引き出される。だから、一言発する前には、口の中で舌を7回回しなさい(訳注)。そうしないと、お前の割り当て分は、若いうちにすっからかんになってしまって、それから先は口がきけなくなっちまうのさ!』」

「この言葉は私に強烈な印象を与えました。私の受けた影響がとても大きかったからでしょうか、後に私は、無意識のうちに芸術上のライフワークとして「沈黙劇場」(訳注)に入る道を選びました。そこでの経験によって、私の人格が形作られ、私に落ち着きが与えられ、私は話す前に考えるようになりました。そして、慎重に選んだ言葉を通して祖父が私に授けてくれた知恵は、価値ある宗教や哲学のすべての核心に見いだすことができる、古代の知識のように、今日の私には思えます。」

(訳注:「よく考えてから物を言いなさい」という意味のフランスの慣用表現 「Il faut tourner sept fois sa langue dans sa bouche avant de parler.」)
(訳注:沈黙劇場(Theatre du Silence):1972年にジャック・ガルニエ(Jacques Garnier)とブリジット・ルフェーヴル(Brigitte Lefevre)が設立したダンスカンパニー。)

すき間にただ注意するだけでなく、進んですき間を見つける

熟考のための格言

Thoughts for Contemplation

数多くの情報源から、一部は現代のものですが、大半は年月を経た古びた書物から、皆さんに熟考していただきたい格言をご紹介します。

● 言葉を選ぶ前に、その言葉が真実であるか、必要であるか、親切であるかという3つのテストに合格していることを確認しなさい。もし事実をありのままに描写していなかったり、その状況では必要でなかったり、親切心とともに語られるのでなければ、その言葉を口にしてはなりません。
● あなたの言葉は、矢のようでなければなりません。瞬時に正確に的を射なさい。
● わずか一言から戦争が始まることもあれば、別の言葉が終わらせることもある。
● 言葉は強い薬のようなものです。控えめに用いれば人を癒します。惜しみなく用いれば人を毒します。
● 経験豊かな者は、言葉を節約して使う。愚か者は、不正に得た利益を浪費するように、言葉を浪費する。
● 財産を大切に手元に留めておくように、言葉を控えなさい。
● 言葉は頭の中だけでなく、あなたという存在の全体から生じる。それゆえに、心の中の知恵と、魂の無言のささやきに従いなさい。あなたが、あなた自身の言葉を通じて他の人たちを真に癒すことができるように、「内なる師」の導きに従い続けなさい。言葉を用いるときの、注意の行き届いた思慮深い態度は、それが話し言葉であれ書き言葉であれ、光、命、愛へと至る道になり、あなたと類似するカルマ(訳注)を持つすべての生きものが恩恵を受ける。
● 自分の言葉が、他の人たちの人生に良きこと(good)をもたらすことができることを真に自覚し、良きことを届けるためにだけ、自分の言葉を使いなさい。
● 理解の前に発せられる言葉は空虚である。理解の後に発せられる言葉は力強く、説得力を持ち、癒しとなる。
● そして最後に、道教の祖である中国の老子の言葉です。「信頼に足る言葉は美しく飾られていない。美しく飾られた言葉は信頼に値しない。優れた人は激しく言葉を戦わせることがなく、激しく言葉を戦わせる人は優れていない。本当の知者は博識ではなく、博識な者は本当の知者ではない。」
(訳注:カルマ(karma):もともとは、サンスクリット語で「行為」を意味する語。思考、発言、行為から生じる未来の幸不幸への影響を意味する。)

これらの名言への、ちょっとした付け足しとして、覚えていてください。「すき間にただ注意するだけでなく、進んですき間を見つけましょう!」(Don’t just mind the gap, find the gap!)

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