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神秘学とは何でしょうか

2017年6月16日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京は、朝から晴れていましたが、午後になってから、どうも雲行きが怪しくなってきました。ひと雨来るかもしれません。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

私たちの働いている事務所は、板橋区の仲宿というところにあります。江戸時代の人が日本橋を出て中山道で京都に向かったとすれば、最初に通る宿場町です。

板橋に事務所を構えたのは7年ほど前で、それまでは新宿でした。新宿区では、当時、区内で事業を行っている人たちをウェブサイトで紹介してくれるというサービスがありました。

 

このサービスに申し込んだところ、区の職員の方々が、ヒアリングに訪れてくれました。

そのときに聴かれたのは、あなたがたが通信講座で扱っている神秘学(神秘哲学:mysticism)とは一体何ですか、宗教とはどのように違うのですかということでした。

 

このブログをお読みくださっている方々の中にも、「神秘学」とは一体何なのだろう、宗教とはどのように違うのだろうという興味をお持ちの方も多いのではないかと思います。

そこで、今回はこのことを、2500年ほどさかのぼって、ご説明したいと思います。

 

今、私の左側にある棚には、『神秘哲学』という題の本があります。30ヵ国語がペラペラだったという、ギリシャ、イスラム、東洋哲学の大家の井筒俊彦さんの本です。

「神秘哲学」も「神秘学」も、英語で言えば「ミスティシズム」(mysticism)であり同じものだと考えていただきたいのですが、この本で説明されていることのひとつは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといったギリシャの哲学者たちが研究し、当時の人たちに教えていたのが、まさに神秘学だったということです。

この3人はといえば、ヨーロッパの哲学の源流を作ったとされる人たちですから、神秘学というのは、何も特別なことではなく、西洋ではもともと哲学といえば、神秘学だったということになります。

『アテナイの学堂』(ラファエロ作)

『アテナイの学堂』(ラファエロ作):古代ギリシャの哲学者たちが描かれているフレスコ画。中央左がプラトン、中央右がアリストテレス。左下の書物を見ている禿頭の人物がピュタゴラス。(クリックすると拡大されます)

 

では、神秘学とは何を指しているのでしょうか。このことを理解するためのキーワードは「宇宙」(コスモス:Cosmos)です。これは、先ほどの3人の哲学者の大先輩にあたるピュタゴラス(ピタゴラス)の作った言葉です。

参考記事:『コスモスとピュタゴラス-ささやかな実習

 

現代に生きる人たちが「宇宙」という言葉によって思い浮かべるのは、無数に多くの銀河や星雲や星々が浮かんでいる空間、人工衛星が回り、国際宇宙ステーションが飛行している空間のようなものではないでしょうか。

しかし、ピュタゴラスが「宇宙」という言葉で意味しているのは、このような無味乾燥な宇宙とはややニュアンスが異なります。ですから、現代人が思い浮かべる宇宙と区別するために、ここでは〈宇宙〉と表すことにしましょう。

 

〈宇宙〉は、ピュタゴラスにとって、秩序、健全性、美しさという性質を合わせ持っている規則正しい全体のことでした。

少しわかりにくいかもしれません。具体的に説明します。

 

夜空に見られる星は、天球上で場所を変えることなく、いつも同じように美しく輝いています。一方惑星はといえば、一見複雑な動きをしていますが、長いこと観測をしていると、そこには規則正しさがあることがわかってきます。

太陽と月の動きも同じです。たとえば、日食は特定の周期で起こることが古代から知られていました。

大地には規則正しく四季が訪れ、私たちに作物の恵みをもたらしてくれます。昼と夜の長さにも、植物の花の形、葉の付き方にも、動物や人間の身体にも、その営みにも、すべてに規則正しさ(秩序)が表れており、すべてが関係して一体になっています。

 

この全体をピュタゴラスは〈宇宙〉と呼びました。〈宇宙〉は、天上の星々を表すマクロコズム(大宇宙)、人間を表すミクロコズム(小宇宙)、自然界を表すメソコズム(中宇宙)の3つに分類されますが、いずれにも見事な規則正しさが表れています。

ピュタゴラスはまた、〈宇宙〉とは一弦琴(弦が一本の琴)のようなものだと考えていました。この琴が奏でる最も低い音が物質の世界であり、最も高い音が絶対精神(神)であると考えていました。つまり、物質の世界も、精神の世界も、絶対的なものも、〈宇宙〉というひとつの全体の別の表れだと考えていたのです。

 

数学、道徳、音楽はピュタゴラスが特に力を注いだ分野ですが、数学とは〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)を研究する学問であり、道徳は〈宇宙〉の規則正しさを人の行いに反映させることにあたり、音楽は、〈宇宙〉の規則正しさを地上で表現するための方法でした。

 

哲学者(philosophia:フィロソフィア)という言葉を作ったのもピュタゴラスです。この言葉はギリシャ語の「フィロ」(愛する人)と「ソフィア」(知識)からなります。哲学者とはもともとは、〈宇宙〉の持つ規則正しい性質を研究して、そこから得られた知識を愛する人のことを指していました。

 

国はよく治められて、〈宇宙〉のように規則正しく、美しく、健全な状態にされなければならないとピュタゴラスは考えていました。ですから政治家は、必ず哲学者でなければならなかったのです。

 

話を戻します。先ほどの本のまえがきに井筒俊彦さんは、神秘学の根本にあるのは「形而上学的思惟の根源に伏在する一種の実在体験」だと書いています。

難しくて理解できないですよね。わかりやすく説明すると、次のようなことです。

 

古代からよく知られていたことなのですが、音楽に深く入り込んだり、特定の方法で集中や呼吸を行ったり、収穫祭などの儀式に参加し感謝の思いが特に高まったときに、人は日常とは異なる、忘我の意識状態を体験することがあります。

この体験は神秘体験と呼ばれています。

 

琴の弦が、特定の関係にある他の弦と同調するように、人も、ある条件のもとでは〈宇宙〉と同調することができ、そのときに神秘体験が起こるとピュタゴラスは考えていました。そして、バラ十字会で学んでいる人の多くも、私も、このピュタゴラスの意見に賛成しています。

 

神秘体験には、ちょっと気の利いた思いつきが“天から降ってきた”ように感じられるものから、体験した人の人生観を完全に変えてしまうものまで、さまざまな程度のものがあります。

しかし、どのような程度のものであっても、神秘体験を得た人には、何らかの効用や進歩がもたらされます。

たとえば、長いこと悩んでいた問題を解決する方法がわかったり、ある芸術作品のモチーフを思いついたり、人を思いやる気持ちが深まったり、エゴと恐れを手放して、人生に積極的に向き合う力が得られたりするなどです。

 

神秘学で行うことは、大まかにいえば、神秘体験を得るための条件や方法について学び、実際に神秘体験を得るための練習を重ねて、神秘体験から得た成果を、自分と周囲の人のために役立てることです。

 

では、神秘学と宗教はどのように違うのでしょうか。

実は、似ているところもあります。どちらも、人生の謎を解き明かすことや、よりよく生きることを目的としているからです。

そして神秘学は、バラ十字会がご紹介しているような、宗教でない神秘学と、宗教神秘学の2つに大きく分けることができます。

 

そしてこの2つの違いは、次のように説明することができます。

 

先ほどから話題になっている〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)ですが、その原因だと考えられるものには、歴史上、さまざまな名前がつけられてきました。

絶対精神、普遍的精神、YHVH、創造主、アラー、梵天、神などです。

そして、宗教神秘学と、宗教でない神秘学の主な違いは、この絶対精神のことを、人格であると考えるか法則であると考えるかということです。

 

ちょっとわかりにくいと思いますので、ご説明させてください。

 

たとえば、ギリシャの宗教の最高神はゼウス(ギリシャ語の「神」)ですが、当時の人はゼウスのことを、右手には雷を起こす武器を持った、ひげをたくわえた、筋肉が隆々とした男性として思い浮かべたことでしょう。

Jupiter Smyrna Louvre Ma13

1680年にスミルナにて発見されたゼウス像 By UnknownMarie-Lan Nguyen (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons

 

現代では、このような素朴な神の姿を思い浮かべる人は少ないことと思いますが、それでも、一神教を信仰する方々の多くは、神のことを威厳と慈愛にあふれた人に似た存在だと思い浮かべるようです。

 

それに対して、宗教でない神秘学では、絶対精神(ここでは神と呼ぶことにしましょう。)のことを人格であるとは考えません。神とはそもそも知ることのできない性質のものであり、ただ、〈宇宙〉のさまざまな法則(Law)の原因であると考えています。

反対にいえば、〈宇宙〉のさまざまな法則こそが、神の表われであると考えています。法則といえば、物質の世界を支配している物理の法則のことをまず思い浮かべる方が多いことでしょうが、それ以外にも、カルマの法則、三角形の法則(弁証法の法則)など、いろいろな法則があります。

 

また、〈宇宙〉の法則と言うよりは、「〈宇宙〉のことわり」とか、「〈宇宙〉の摂理」とか、「〈宇宙〉の性質」と呼んだほうがふさわしいようなものもあります。

その代表的なものが「愛」です。

 

多くの宗教では、人格を持つ神が、人間や他の生きものを愛していると考えます。

一方で、宗教でない神秘学では、愛は〈宇宙〉の性質である、もしくは、〈宇宙〉は愛で満ちていると考えます。

 

このことは、ちょっとした差のように思えるかもしれませんが、なかなかどうして、そうでもない場合があります。

 

もし、神のことを、ある神話に登場する何か人の姿をしたような存在であると考えるならば、その神が、たとえばA教を信仰している人を愛し、B教を信仰している人は嫌うというようなことが、容易に想像されるのではないでしょうか。

一方で、絶対精神(神)が〈宇宙〉の法則として表れていると考えるならば、歴史的な経緯から人が作ったさまざまな宗教をもとにして、神が、ある人と別の人を差別するなどということは、考えにくいのではないでしょうか。

 

マハトマ・ガンジー(1869-1948)は、次の言葉を残しています。

「神は宗教を持たない。」

 

彼はヒンドゥー教徒ですが、その考えは、宗教でない神秘学に近いことがわかります。

 

誤解のないように付け加えておきますが、バラ十字会も私も、宗教を批判しているわけではありません。

宗教は人類の歴史の中で、無数に多くの人の道徳心を支える大切な役割を果たしてきました。

しかし、大部分の宗教が、それが発祥した時代の制約を受けています。

 

たとえば先ほどの例で言えば、ギリシャ・ローマ時代の多くの人は、現代人と異なり、〈宇宙〉のさまざまな法則の原因というような抽象的な概念について考えることができませんでした。

しかしそれ以降、人類の精神はずっと進歩を続けてきました。特に、20世紀には自然科学が大きな進歩を遂げました。

現代の宗教は、これらの進歩に沿うように、根本から変化することを迫られていますし、仏教やキリスト教では、そのような試みがすでに始まっているとのことです。

 

今回、お伝えしたかったことは以上です。

いかがでしたでしょうか。最後は、かなり立ち入った話になりました。

また、お付き合いください。

 

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『朝雲』-文芸作品を神秘学的に読み解く5

2017年6月9日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、梅雨前のはっきりしない天気が続いています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、私の友人であり、当会の公認インストラクターをされている森和久さんのシリーズ記事『文芸作品を神秘学的に読み解く』のその5をお届けします。

 

参考記事(前回):『赤毛のアン

 

▽ ▽ ▽

 

文芸作品を神秘学的に読み解く(5)

『朝雲』 -川端康成 著

森和久のポートレート

森 和久

 

『朝雲』は川端康成が昭和16年に発表した短編小説です。田舎の女学校の学生、宮子が、都会から来た垢抜けた女の先生、菊井先生に、淡い恋心を抱くというストーリーです。思春期の少女の瑞々しい感性を川端文学が鮮やかに描き出しています。

 

女学生たちが卒業するときに、菊井先生は、「ご幸福を祈る」と色紙に書いてくれます。ある女学生が先生に訊ねます、先生、幸福って何ですの? 先生は答えます、「そんなこと、ご自分に聞いてごらんなさい。」

その部分を見てみましょう。宮子は文中、菊井先生のことを、あこがれを込めて「あの方」と呼んでいます。

 

Yasunari Kawabata 1938

川端康成 1938年(39歳頃) 鎌倉二階堂の自宅窓辺で See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons

 

* * *

あの方はやっと私のペンを受け取って、「御幸福を祈る。」と書いて下さった。なんて平凡な言葉、そしてほかの先生にくらべて最も短い言葉だった。小さい丁寧な字だった。

あの方はほかの卒業生たちのサイン・ブックにも、「御幸福を祈る。」とばかりお書きになった。

「先生。幸福ってどんなことですの?」と、あの方を少しからかうような調子で問いかける人があった。あの方は常になくきつい目色でその人を見ながら、「そんなこと、御自分に聞いて御覧なさい。」とおっしゃった。「でも、先生はどんな幸福を、私に祈って下さいますの?」とその人は押し返して言った。「幸福にいろんな種類があるなんて、私は考えたくないけれど。」と、あの方はおっしゃった。「私は先生とおんなじ幸福が欲しいわ。」とその人はささやいた。私ははっとした。しかし、あの方はなにげなく、「そう? そう思っていただいても、いいことよ。」と笑ってらした。(短編集『花のワルツ』より、新潮文庫、2012年、電子書籍版)

* * *

 

菊井先生がサイン・ブックに書いた言葉は、〔なんて平凡な言葉。他の先生に比べて、最も短い言葉。小さい丁寧な字。他の卒業生にも同じ言葉〕でした。ここから見てとれるのは、簡潔で、根本的で、重要な言葉と先生は捉えていたということです。

菊井先生が、常になくきつい眼をしていった言葉、「そんなこと、ご自分に聞いてごらんなさい。」

なぜ普段温和な先生が感情を乱してしまったのでしょう。それは、重要な言葉ととらえていた『幸福』について、からかうように聞かれたから。そしてこれは神秘学の格言『自分自身を知れ』に通じます。

主人公の宮子が「はっとした」のは、宮子も宮子と菊井先生だけの幸福を求めていて、それに気付かされ、そして他の女生徒もそうだったのだと知らされたから。のちに宮子は菊井先生が述べた事柄によって、幸福に満たされます。けれどそれは一時だけのことでした。

 

では幸福とは何でしょう。

多くの著名人がいろんなところで幸福について述べています。有名なところでは、アラン、ヒルティ、ラッセルの3大幸福論があります。

では、『朝雲』の菊井先生は女生徒にどのような幸福を祈ったのでしょう。

「幸福にいろんな種類があるなんて、私は考えたくないけれど。」「(生徒と同じ幸福と)思っていただいても、いいことよ。」と述べていることからうかがい知ることが出来ます。

河津七滝にある、川端康成の代表作『伊豆の踊子』のブロンズ像

河津七滝にある、川端康成の代表作『伊豆の踊子』のブロンズ像

 

ギリシアの哲学者、アリストテレスに『ニコマコス倫理学』という著作があります。彼の息子であるニコマコスが父アリストテレスの講義録を編集したので、このタイトルが付けられました。アリストテレスはこの中で「善の中の一番の善、つまり〔最高善(ト・アリストン)〕が、幸福であることに異を唱えるものはないだろう。だが、幸福というものは、人によって違うし、同じ人でも時と場合によって欲しいものは変わってくる。」しかし「善や幸福は究極の目的であり、それだけで満足できるものでなければならない。」と述べています。

つまり、女生徒たちは、それぞれの幸福を求めているのですが、菊井先生は、「究極の幸福」を女生徒たちそれぞれに祈っていたのです。

 

では、その幸福を達成するにはどうしたらいいのでしょうか。アリストテレスは述べています。「自分だけが幸福になることはできない。すべての人が幸福になること、それを目指して生きることが幸福である。なぜなら、人間の本性は共同の社会で生きるようになっているから。」

菊井先生はこう言いたかったのではないでしょうか。「皆さんそれぞれが幸福になってほしいの。誰かだけ特別ということではないのよ。」だからどの人のサイン・ブックにも同じように「ご幸福を祈る」と書き込んでいたのでしょう。

 

アリストテレスは次のようにも書いています。「「幸福な人にも、いろんな障害が生じる。それでも幸福な人は、その不運を受け止めて、それにふさわしい態度で接し、乗り越えていく。だから、幸福な人は、どんな状況に置かれても惨めな人間とはならない。」

神秘学(神秘哲学:mysticism)は論理と実践の学問といわれます。実践が伴わなければならないのです。

アリストテレスは述べています。「善い行いを積み重ねることが幸福につながる。他人に「それは偽善だ」と批判されても、善いと考える行動を続けることで、その人は『善』に近づく。幸福とは魂をすぐれた行動に導くことで、それが最も善きことである。」

 

『朝雲』の菊井先生はこう伝えたかったのではないでしょうか。

常に善い行いを心がけてください。

ひとが何と言おうと、信念をもってね。

それぞれの幸福が、全ての人の幸福になるように。

それが幸福になることですのよ。ご幸福を祈るわ。

 

ではここで、これを書いている私(森)はどうだろうと考えてみます。決して日々毎日、善行に励んでいるとは言えません。本当のところ、楽をしたり、サボったりの繰り返しです。私以外にもそういう人はいるでしょう。しかし、一気に聖人になれなくとも目指すことはできると思っています。

まず、アリストテレスの言う、批判ばかりする側になるのは止めたいと考えています。むしろ、批判されたり嘲笑されたりしながらも信念を貫いている人を応援したいと思っています。ですから、人それぞれのレベルで、少しずつ、しかし着実に進んでいければいいのではないでしょうか。

それがいつしか大きなうねりとなって、理想が樹立されるのを願って。それは恋い焦がれる主人公、宮子のようでもありますが… (空にたなびく白い雲を眺めて記す)

 

△ △ △

 

川端康成の短編小説といえば、『夜のさいころ』を思い出しました。何十年も前に読んだのですが、ある一場面をはっきりと覚えています。ネタバレになるので背景のご紹介だけですが、こちらは、母の形見の5つのサイコロを振る、浅草の踊り子の話です。

 

では、今日はこの辺で。

 

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動く木の枝

2017年6月2日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今朝、東京板橋の北の空には、元気の良さそうな入道雲が出ていました。このブログが公開される頃には、ひと雨来ているかもしれません。

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、一軒家の庭で園芸を楽しむ人はガーデナーと呼ばれますが、庭のない家に住みベランダで草木を育てている人の通称は「ベランダー」だそうです。

私も3年ほど前から、ベランダーのはしくれをしています。

先週は、プランターに撒いたアサガオの種5粒がすべて芽を出しました。1ヵ月もすると、薄い青の花が咲くはずです。いい年をしたオヤジが、アサガオの双葉を眺めながら、遠い目をしてニヤニヤしているのは、実に、サマにならない絵であることでしょう。

 

昨日の朝のことですが、ベランダのレモンの木を見ていて、木の中ほどに、5センチほどの枯れ枝があるのを見つけたのです。何でここだけが枯れたのだろうかと、しばらく考えていました。

するとその枝の一部が、突然、少し柔らかくなったように感じたのです。びっくりして部屋に戻り鉛筆を取り出してきて、そっと横からつついてみると、案の定それは、枯れ枝にそっくりの虫でした。

 

インターネットで調べてみたところ、シャクトリムシでした。シャクガと呼ばれる蛾の幼虫です。シャクトリムシには、緑色と薄茶色の虫がいますが、薄茶色の種類は木の枝に擬態します。

 

彼(彼女?)は、見れば見るほど枯れ枝に似ています。うすい茶色の体には樹皮を思わせる模様があります。体の一方にある、いぼのような足で、レモンの枝にしっかりとくっついているのですが、その部分は、木の枝の根元にあるふくらみに形がそっくりです。

体は真っ直ぐに伸ばして硬くしています。体の反対側には、こちらにも「いぼ足」があるのですが、デザイン全体が、乾いた枝先とそっくりです。

木の枝へのシャクトリムシの擬態

木の枝へのシャクトリムシの擬態

 

アニメや絵本によく登場するのでご存じのことと思いますが、体の両側近くにあるこの「いぼ足」を使って、彼は、ギリシャ文字のΩの形と真っ直ぐになることを繰り返して前に進みます。彼の名前の由来です。

 

シャクトリムシには「土瓶落とし」という別名があるそうです。農作業の合間にお茶を飲もうと土瓶を持ってきた人が、木の枝と間違えて掛けて割ってしまうからだそうです。彼の擬態は、まさにこの名にふさわしいほど巧みです。

 

昨年は、このレモンの木でアゲハチョウの幼虫が育っていました。ずいぶんとチョウやガに好かれる木です。葉から良い香りがするからかもしれません。

アゲハチョウの幼虫はといえば、こちらも擬態の名人です。小さなころは、焦げ茶色と白の混じった色をしています。鳥のフンのまねです。そして、鳥のフンにはありえない大きさに育つと、緑色に変身して葉と同じ色になり、捕食者の鳥から姿をくらまします。

鳥のフンに擬態するアゲハチョウの幼虫

鳥のフンに擬態するアゲハチョウの幼虫

 

成長したアゲハチョウの幼虫

成長したアゲハチョウの幼虫

 

シャクトリムシもアゲハチョウの幼虫も、なんと賢いのだろうかと感心します。

 

チョウやガは一生の間に、卵から、幼虫、さなぎ、成虫と姿を変えていきます。以前にご紹介したことがありますが、この完全変態には、6億年前から今までの地球の生物の歴史が関係しています。

参考記事:『アゲハチョウの幼虫と進化

 

そして、チョウやガの幼虫たちのデザインの元になっているのは、5億年前に生息していたアイシェアイアという、ムカデやゴカイに似た生きものだという説があります。

彼らの姿に、古代の生きもののたくましさが感じられないでしょうか。東宝映画『モスラ』の影響かもしれませんが、私は、大きく育ったコガネムシの幼虫に、悪夢の中で襲われそうな恐ろしさを感じます。

 

人類が登場したのは600万年前ぐらいですから、地球の生物の歴史の中で私たちは、新参者中の新参者にあたります。

ですから、私たち人間は、先輩の生きものたちに深い敬意を払って生きていかなければならないように思います。

 

以前に、アイヌの方々の精神文化について調べたことがあります。アイヌの方々は、クマ、オオカミ、シャチ、トド、毒ヘビ、フクロウ、鹿、シャケなど、他の多くの生きもののことを、自分たちよりも上位のランクの魂を持つ「神々」として敬ってきました。

この考え方のおかげで、北海道のいたるところで、美しい自然が長い歳月の間、守られてきました。

人間のことを「万物の霊長」と呼び、自然環境にひどい負担をかけて生活をしている、現在の先進国の多くの人たちよりも、よほど健全な生き方のように感じます。

参考記事:『アイヌ-日本の北方先住民族

 

 

ベランダに置いた植木鉢で、草木を育てているだけでも、自然が一体であることを感じます。ネットワークのような、さまざまな生きもの同士の関係の一端を知ることができます。

また、当会がご提供している神秘学(神秘哲学:mysticism)の通信講座の教本の言葉を借りるならば、〈宇宙意識〉の知性面が、生命を通して表現されているのを感じることができるように思います。

 

では、今日はこの辺りで。

また、お付き合いください。

 

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笛の世界(その2)

2017年5月26日

 

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

今日の東京板橋は、しとしとと雨が降っていて、濡れた新緑がそこここで鮮やかです。

いかがお過ごしでしょうか。

 

祭りの笛の世界にどっぷりとはまった、山形にお住まいの親しい友人からの寄稿を、一か月ほど前にご紹介させていただきました。

今回は、その続きです。

 

前回記事『笛の世界』(その1)はこちら:

http://www.amorc.jp/blog/?p=1430

 

▽ ▽ ▽

『笛の世界』(その2)

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

さて、2年目(平成8年)の祭りも無事に終了。それから5年後の平成13年のある日、『和太鼓教室開校』のポスターを見つけました。何気なく見ますと『横笛・津軽三味線・日舞の教室も同時開校』とあります。

そのとき思いました、「この機会に本格的にプロの指導を受けてみよう」と。早速に入校を申し込み、説明を聞くと、横笛と津軽三味線の教室は同じ講師で、月一回、2日間、青森から来られて和太鼓教室の建物の一室を借りて行われるとのこと。

教室は9月から開始で時間は予約制でマンツーマン形式でした。さて、講師が青森に在住の方と聞いた時に予想はしていたのですが……やはり講師の喋りは百パーセント津軽弁でした(笑)。ならば、こちらは山形弁で対応です(笑)。

 

それから確か二ヶ月後だったと記憶しています。いつもの様に『よろしくお願いしま~す』と教室のドアを開けると直ぐ目の前に三味線を抱えた女性が立っています。『えっ!!』と驚いてパニック状態に。実はこの方、私の若い頃の知り合い……ご想像にお任せします(笑)……にソックリだったんです。

正直、ひっくり返るほど驚き、固まってしまいました。すると講師が『お~山下さん。新しい生徒のY・Sさんだよ、仲良くしてくれな』。

ところでこのSさんこと自称「よっちゃん」、とにかく明るく楽しい方で直ぐに良き友となりました。その後しばらくして、講師の提案でよっちゃんに、私の横笛教室の手伝いをやって貰うことになりました。

講師と一緒に三味線で私の笛の伴奏です。それからは実に賑やかな楽しい日が続きました。

津軽三味線

 

ところが、時を同じくして私は壁に突き当たってしまったのです。講師の吹く笛と、私の吹く笛がどこか違うのです。テクニックや音色の差はさて置き、何かが違うのです。散々悩みました、考えました、奏法の研究も色々とやって見ました。しかし、どうしても分かりません。

諦めかけたその時、突然ひらめきました。講師の笛のメロディーは津軽弁のイントネーションなのです……。分かりやすい表現で説明します。歌手の吉幾三さんや福田こうへいさんの唄い方、と言えば分かってもらえるのではないでしょうか……。

早速に対策を考え、実行に移しました。講師に色々と喋ってもらって、津軽弁のイントネーションを自分の身体にたたき込もうという魂胆です(笑)。次々と楽しい話を聞くことができました。そしてついに、津軽弁のイントネーションで笛を吹くことに成功。

 

ところがそれから約2年後の平成15年の夏、講師の仕事の都合で横笛・津軽三味線の教室は終了となってしまいました。夢を見ていたような二年間でした。

夏祭りの笛

 

講師ともよっちゃんとも会うことは無いだろうなと思っていたある日のこと、突然、よっちゃんから『山下さん、笛の教室で使ってた楽譜、コピーで良いですから譲ってもらえませんか』という連絡が入りました。

楽譜は全部保管してましたので、『良いですよ~。直ぐに送ります。ところで、今どうしてます? 元気ですか?』と聞けば、今度は講師の住んでる青森まで出かけて指導を受けているのだとか。

 

さらに『笛の斡旋販売を始めたよ、特注も受け付けるから、良かったら声かけてね』と。さて、それから数ヶ月後、特注で笛の注文をファックスで送信しました。すると返ってきた返事が『これだけの説明では分からない、もっと詳しい説明が欲しい、電話くれ!!』。

そして『電話は午後10時~午前2時頃の間にください、その時間帯以外は電話に出られません』と。おいおい、一体どんな生活しているんですか…(笑)。

とにかく電話しました。まずは『元気~?』、すると『元気だよ~!!』。後は用件そっちのけで。今、こんなことやってます、こんなこと計画してますの話しで盛り上がってしまいました。

 

ところが……何かが変なのです。電話の向こうにいるのは間違いなくよっちゃんなのですが……よっちゃんとソックリな声の他人(?)と話しているような感じなのです。でも、間違いなくご本人です。『う~ん。これは何事?』と思った次の瞬間、はっと閃きました。

すかさず『ちょっと待って。ところでさ~。よっちゃんの喋り……津軽弁のイントネーションになってるよ(笑)』(ちなみに、よっちゃんは青森の生まれではありません)。

すると受話器の向こうで、小さく『えっ?』と言う声。つぎに『あっはっは~。んだば、これがらは津軽弁でえぐが~(笑)』。楽しく愉快な友人を持ちました(笑)。

 

ふとしたことがきっかけで入ることになった笛の世界。もし、笛を手にすることが無かったならば出合うことのなかった友人、知人、大勢のお祭り仲間。

さらに、絶対に経験することのなかったであろう、笛の音の醸し出す心地よい異次元空間の世界。運命の女神に感謝です。

△ △ △

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

人生の折々に、出会った人たちに影響を受けて、思ってもいなかった道に進んでいたという経験が、誰にもあるのではないでしょうか。

人と人の出会いは不思議ですね。

では、また。

 

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調和という女神

2017年5月19日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

今日の東京板橋は、初夏を思わせる陽気です。自転車を漕いでいると汗ばんできます。

そちらでは、季節の進み具合はいかがでしょうか。

 

さて、ハーモニー(harmony)という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。まず思い浮かべるのは、合唱での心地よい音の組み合わせのことではないでしょうか。英語の辞書を引くと、「調和」、「協和」というような訳が載っています。

「協和」は、人間関係における調和ですが、このことを重んじるのは、日本社会の著しい特徴のように感じられます。

 

当会のフランス本部代表のセルジュ・ツーサンが、「調和」にまつわるギリシャ神話を紹介し、前回このブログでご紹介した〈自然の法則〉と「調和」の関係について論じています。今回はその翻訳をご紹介します。

参考記事:『自然のリズムについて

 

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バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

記事「調和について」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

 

調和にあたる英語は「ハーモニー」(Harmony)であり、その語源になっているギリシャ語は「ハルモニア」(Harmonia)です。ギリシャ神話で調和を司る女神ハルモニア(Harmonia)は、戦いの神アレースと愛の神アフロディーテという、正反対の性質を持つ2体の神の間にできた娘です。

ハルモニアは、都市国家テーバイの始祖カドモスと結婚しましたが、神と人との結婚であったにもかかわらず、結婚式には神々が訪れ、貴重な品々を贈ったとされています。その中には、カドモスが受け取った貴重な木製の竪琴や、ハルモニアが受け取った豪華な首飾りがありました。

伝説によれば、この首飾りは盗まれ、後に多くの人の手に渡ったのですが、手にしたすべての人が不幸になったとされています。このたとえ話によって語り伝えられているのは、調和を損なった者は、遅かれ早かれその報いを受けるという教訓であり、カルマという考え方がそこから連想されます。

CadmusHarmoniaEvelynMorgan

カドモスとハルモニアー (イーヴリン・ド・モーガン/画、1877年) Evelyn De Morgan [Public domain], via Wikimedia Commons

 

「調和」とは一般に、「ある全体、特に、ある芸術作品の全体と、その部分との間にある望ましい関係(形、色、音、リズムなど)」であるとされます。彫刻や絵画、音楽などの芸術作品がどのようにあるべきかを、この定義は端的に示しています。

しかし残念なことに現代では、芸術であると称している作品の一部は名ばかりで、調和という要素がまったく見られません。みっともなさ、不釣り合い、耳ざわりなことを売り物にしている作品さえあります。このことから考えると、芸術には互いに補い合う次の2つの要素が必要不可欠であることに思い至ります。それは、美しさと審美眼、つまり、美しいものを美しいと認める能力です。

 

「調和」には、「あるグループとそのグループ内の人たちの間に、考えや好みや意図の一致の結果として成り立っている関係」という別の意味もありますが、このことを私はとても興味深く思います。

この定義によれば、調和が完全に失われたときに生じるのは、仲違いであり、ひいては争いや戦争です。世界の現状は、調和した状態からはほど遠く、さまざまな国の内部の人と人との関係も、国と国の関係も、調和ではなく混沌に支配されていることを私たちは認めざるを得ません。

しかし、希望を失わないでいましょう。表面的にはそうは思われないかもしれませんが、人類は協調へと向かって徐々に歩みを進めています。

 

人と人との関係において調和を育んでいくことが重要であるとすれば、私たちひとりひとりが、自身の心の中に調和を育んでいくことも必要不可欠です。

このことは、神秘学(mysticism:神秘哲学)で知られている人間の4つの側面のすべてでなされなければなりません。身体面においては、健康に十分に注意を払わなくてはなりません。精神面においては、健全な思考を保つ必要があります。感情面においては、美しいものごとを尊び、肯定的な気持ちを保つように努力しましょう。

そしてスピリチュアルな面においては、人格を高めることに取り組み、〈絶対なるもの〉についての自身の観念と同調するための時間を定期的に設けることが挙げられます。

 

この4つの側面のそれぞれに調和を実現したときにだけ、私たちは根本的な心の平安を知ることができます。バラ十字会の哲学では、この平安のことが〈深遠なる平安〉(Peace Profound)と呼ばれています。

 

しかし私たちは、外側にも目を向けなければなりません。自然界がなかったとしたら、私たち人類は一体どうなってしまうでしょうか。人間という生命は、歴史的に見て自然界から生じましたが、人類が今後も存続できるかどうかは、自然環境が健全に保たれているかどうかにかかっています。

自然は、地球上に住むすべての生き物の母であるだけでなく、先ほどの4つの側面を通して私たちが密接に結びついている母でもあり、日々の生活を支えてくれている母です。

宇宙全体と同じように自然界も、いわゆる〈自然の法則〉に支配されており、自然の法則には、常に建設的だという性質があります。私たち人類が幸せで豊かでいられるかどうかは、自然の法則を尊重し、それと調和して生きることができるかどうかにかかっています。

ですから私たちは、このことについて学ばなければなりません。バラ十字会AMORCの会員が、この会から提供される教材を用いて行っていることのひとつに、自然の法則についての学習が含まれるのはそのためです。

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。本稿はそのブログからの一記事。

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アフロディーテは、ローマ神話のビーナス(Venus)にあたり、アレースはローマ神話のマールス(Mars)にあたるので、「調和」(Harmony)は金星と火星の間にできた娘だということになります。面白いですね。

では、また。

 

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