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クリスマル・キャロル

2016年12月9日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋ではこの数日、冬らしい、乾燥した晴天が続いています。

いかがお過ごしでしょうか。

 

先日、スターウォーズのテレビ放送をビデオに取ることができ、久しぶりに見ました。ダースベイダ―やパルパティーンなどの悪役キャラに迫力があり、実に小気味がよいほどでした。

映画に限らず興味深いストーリーには、すごみのある悪役が欠かせないようです。

 

悪役といえば、小説『クリスマス・キャロル』のスクルージも有名です。この小説について、札幌で当会の公認インストラクターをされている森和久さんから文章をお寄せいただいたので、今日はそれをご紹介させていただきたく思います。

 

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文芸作品を神秘学的に読み解く② クリスマス・キャロル(A Christmas Carol)

森和久のポートレート

森 和久

 

 

19世紀のイギリス人作家チャールズ・ディケンズが書いた『クリスマス・キャロル』は、この季節になると取り上げられる定番の作品です。何度も映画化されていますので、ご覧になった方も多いことでしょう。

 

Charles Dickens-A Christmas Carol-Title page-First edition 1843

『クリスマス・キャロル』、原本扉、John Leech [Public domain], via Wikimedia Commons

 

スクルージという冷酷でエゴイストな老人が主人公です。彼の名は、英語で「守銭奴、利己的な人」という意味の一般名詞として使われるようにさえなりました。また、映画『3人のゴースト』の原題は『Scrooged』、つまり「スクルージな人=利己的な人」です。

 

クリスマス・イブに甥のフレッドが、クリスマスのディナーにスクルージをいつものように招待しますが、例によってスクルージはそれをけんもほろろに断ります。

その夜、スクルージは7年前に亡くなった共同経営者ジェイコブ・マーレイの亡霊と対面し、過去、現在、未来の霊それぞれの訪問を受けるだろうと伝えられます。スクルージは、それぞれの霊に連れられて町の各地を訪れ、自分と向き合い改心していくのです。

 

Marley's Ghost-John Leech, 1843

スクルージとマーレイの亡霊、John Leech [Public domain], via Wikimedia Commons

 

神秘学では7という数のことを、物質の世界の周期を支配している数だと考えています。ジェイコブという名前から、キリスト教圏の方々の多くは、神(エル)に打ち勝った者(イシャラー)を意味するイスラエルという名を授かったヤコブを思い起こします。ジェイコブが死んで一つの周期が巡り、スクルージにこのできごとが起こります。「現在の霊」が服の中に抱え込んでいたのは〈無知〉と〈欲〉という子供でした。

 

この霊(Sprit)とは何なのでしょうか。神秘学的に言えば、「内なる師」つまり「内的な自己」です。または俗にいう「守護霊」ということになるでしょう。

極悪冷徹なスクルージのような人間でも心の深い底には、情と慈愛にあふれる魂を持っているということなのでしょう。だからこそ善良な市民として立ち直れると。

 

ではスクルージほど冷酷でない私たちは、どのように為すべきなのでしょうか。それはスクルージとの対比として、甥のフレッドを通して描かれています。

フレッドの亡くなった母親、つまりスクルージの妹は、子供のころ、離れ離れで暮らしていた兄スクルージと一緒に暮らせることになったときに心底喜んだ心優しい少女でした。そんな母親の心を受け継いでいるのがフレッドです。

クリスマスツリーと流れる音楽

 

スクルージをクリスマス・パーティに誘い、断わられたフレッドはこのように述べています。

「あの人が好もうが好まざろうが、僕は毎年こういう機会をあの人に与えるつもりですよ。だって僕はあの人が気の毒でたまらないんですからね。あの人は死ぬまでクリスマスを罵っているかも知れない。」

「しかし、彼は考え直さずにはいられないでしょう―僕はあの人に挑戦しますよ―僕が上機嫌で、来る年も来る年も、『スクルージ伯父さん、ご機嫌はいかがですか』と訪ねて行くのを見たらね。」

「もし、あの憐れな使用人に50ポンドでも遺しておくような心持にしてやれたら、それだけでもなんらかの事はある訳ですからね。それに、僕は昨日あの人の心を大きく揺るがしたと思うんですよ。」

 

私たちはこのフレッドのような人に学ばなくてはならないと思うのです。誰か大切な人の「内的な自己」も目覚めるのを待っているはずです。迎えに行ってあげるのが私たちにできることなのではないでしょうか。

 

△ △ △

 

この物語のスクルージの悪人ぶりも見事ですが、世界の歴史を代表する悪人に、ヘンリー8世がいます。ご興味をお持ちの方は、こちらもどうぞ。

参考記事:『イギリスの王室の大悪人ヘンリー8世

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

それでは、また。

 

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ユーモアについて

2016年12月2日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

東京板橋は、昨日の雨が上がるといちだんと寒くなってきました。

インフルエンザが流行っていることが報じられていますが、お変わりはありませんでしょうか。

 

最近は、インターネットと携帯電話が進歩したおかげで、買いものや調べものや、知り合いに連絡をとるのがとても便利になりました。

反面、煩雑な作業が増えて、忙しい師走のこの時期など、大げさにいえば、すべてを投げ出したくなるほどイライラしてしまうことさえ、あるのではないでしょうか。

 

そんなときに、良いユーモアのセンスを持ち合わせている人は、右往左往している自分を客観的にみて、ああ迷路に置かれたハツカネズミみたいだなと、くすりと笑って、気持ちを立て直すのだろうなと、ふと思いました。

 

先日、バラ十字会AMORCのフランス代表が、ユーモアについてのブログ記事を書きましたので、その翻訳をご紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

記事「ユーモアについて」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

 

笑いには望ましい効果のあることが、たびたび強調されています。笑いが体や心の健康に役立つということは確かです。ほとんど笑わない人は心の病に陥りやすいとされています。

笑いは、体の活力のためにも心のためにも、どうしても必要な要素であり、多くの人が笑うことのできる機会を求めており、そのため、お笑い番組やコメディードラマの多くが成功を収めています。

 

さまざまな緊張と悲観がはびこっている今の社会では、笑いは特に重要です。しかし、すべてを笑いのネタにして良いかということは、ひんぱんに議論されている問題です。

お笑い芸人やお笑い番組の司会者の多くは、特に問題はないのではないかと答えるかもしれません。

これらの方々は人を笑わせることが仕事であり、それで生計を立てており、そのこと自体は不道徳なことでも何でもないし、人は笑いを求めているのだから、何を笑いのネタにしようとかまわないと、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、興ざめな人であると思われてしまうかもしれませんが、私は、あらゆることを笑いのネタにして良いとは思っていません。

世の中には、からかってはならないことがあると思うからです。あるいは、笑いのネタにするとしても、その方法に細心の注意を払わなければならない事柄があると思います。

 

現在では、コメディアンの方々が人々を笑わせるために、皮肉や冷笑を用いたり、尊大さや下品さを装ったりすることが多くなりました。そしてそのような場合の多くで、対象にした特定の人を“だし”にしていますが、そのやり方は安易で、しかも適切でないように思われます。

もちろん、この種のユーモアを用いることも高く評価するかどうかも、個人個人に任されている事柄です。しかし私には、それが誰のプラスになるとも思えません。

 

おそらく私は、やや愚直すぎる人間なのでしょう。

しかし、ユーモアという名に値するユーモアは、悪意や悪口や卑猥さを含まない、より一般的に言えば、何かをおとしめる感覚を含まないものであるべきだと私は考えています。

 

そして、最も優れたユーモアは、一般的にいえば、人間の愚かさや弱さを浮き彫りにしたり、無邪気な子供のように人を楽しませたりするたぐいの、つまり、ある状況にある喜劇的な要素や、会話の機微や、人生で起こる勘違いなどに光をあてて、それを愛おしむようなユーモアだと私は考えます。

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今や、この種のユーモアは、ほとんど見られなくなってしまいました。おそらくそれらには、一朝一夕では身につかない、ある才能が必要とされるからでしょう。

 

いずれにせよ、健全なユーモアのひとつに、自分を笑いのネタにするということがあるのを忘れてはなりません。それは、うぬぼれという罠にかかるのを避けたり、過度の自尊心に対処する良い方法です。

 

残念なことに、自己中心的になりすぎるという不健全さが、現代に広くはびこっています。その主な理由は、現代社会に見られる2つの傾向だと思われます。つまり、長い間考えるばかりで行動を取らないことと、スポーツ選手やタレントのような個人が、極端な崇拝の対象になっていることです。

フランスの詩人で小説家のヴィクトル・ユーゴーは、当時の社会にすでにあったこの傾向をとらえて、戯曲『エルナニ』で、聖書の言葉をもとに次のセリフを残しています。「ある意味で奴らは、魂を売り渡したのかもしれぬ。空しい、何という空しさ、すべてが空しいのだ」。

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

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ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885) Léon Bonnat [Public domain], via Wikimedia Commons

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。本稿はそのブログからの一記事。

△ △ △

 

いかがでしたでしょうか。お読みになって、現代社会に欠けている点について、また反対に、優れたユーモアや、ユーモアの本質について考えさせられたのではないでしょうか。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

ではまた。

 

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以心伝心について

2016年11月25日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今朝の東京板橋は、陽が射しているにもかかわらず、身が引き締まるような寒さでした。いよいよ本格的な冬の始まりのようです。

そちらはいかがでしょうか。

 

今日は、バラ十字会で神秘学を学ばれている親しい友人から聞いた、ちょっとした話を紹介させていただきます。

 

ある朝、彼は自宅から職場へと向かう道すがら、ある思いにふけっていたのだそうです。彼はお父様を4年前に亡くされたのですが、その日はちょうど命日にあたり、当時のことを懐かしく思い出していたのだそうです。

彼のお父様は癌を患われ、余命を告げられ、ベッドの上で過ごす生活になっていたのだそうですが、親類や家族の方々のご協力で、お父様から日々感謝の言葉を聞くことができる、良い最期の日々を過ごすことができたのだそうです。

 

私の友人は歩きながら、そのころのことに思いを馳せていました。そうしているうちに、~理屈じゃないんで説明できないんだけど~人間だけでなく地球上のすべての生きものの命への愛おしさで、心が一杯になったのだそうです。

 

ちょうどそのとき、彼は、川沿いの橋を渡っていたのです。ふと気づいて目を上げると、手の届くほど近くの欄干に、灰色と白の胴体に黒色の頭部が鮮やかな、小鳥の「オナガ」が何羽もとまっていました。

ふだんは警戒心が強く、すぐに飛び去ってしまうこの鳥が、どうしたことだろうと不思議に思った瞬間に、小鳥たちは飛び去っていったそうです。

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この何日か後のことですが、彼は通勤のときに、タゴールのある言葉のことを考えながら歩いていました。

「すべての嬰児は、神がまだ人間に絶望してはいないというメッセージをたずさえて生まれてくる」

 

ちなみに、宗教とは一線を画しているバラ十字会のような神秘学派では、神のことを、人格を持つ存在ではなく、この宇宙に働いているさまざまな法則の源だと考えています。

ですから、この考え方を採るとすれば、「絶望していない」という言葉は、擬人化されていない意味にとらえ直さなければなりません。

そう考えると、私の友人の思索の内容は、なかなか複雑だったことでしょう。

タゴールとヒマラヤの山々

ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)

 

ともあれ、深い思いに浸っていた彼が顔をあげると、目の前に保育園の先生と小さな子供が数人いたのだそうです。そして、そのうちのひとりの2歳ぐらいの子供が、道に落ちていた落ち葉をひろい上げて、彼の前に差し出しました。

彼が「くれるの」ときくと、すくっと立ったまま、当然のような顔をして黙っています。彼はその子供のことを、まるで哲学者のように感じたそうです。

彼がそっと手を出すと、その子は彼の手のひらに落ち葉を乗せ、彼が「ありがとう」というと、笑顔を残して先生の所に去っていきました。

 

不思議なこともあるものですね。

 

今回は、心が心に通じたのではと感じた、ちょっとした話のご紹介でした。

ではまた。

 

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閻魔大王と天秤とカバラ

2016年11月18日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京板橋は晴天に恵まれています。日に日に寒くなりますね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、次のような言い伝えを、お母さんやお父さんは、今でも子供に向かって話しているのでしょうか。嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれるという話です。私は小さいころに、祖母や母からときどき諭されました。あなたにも、そのようなご経験がおありではないでしょうか。

調べてみると閻魔大王のもとになったのは、インドのヤマという名の古い神だそうです。この神は最初に死んだ人間であり、死者が向かう楽園を見つけだして、その楽園の王になったのだそうです。

古代のインドには、死者が地獄に行くという考え方は、元々はなかったようです。

参考記事:「天国と地獄

 

ところが時代が下ると、ヤマ神は、死者の生前の行いを裁いて罰する恐ろしい神に変わっていきました。

そして、この神をモデルにした閻魔大王も、あの世を治め、浄玻璃鏡(じょうはりきょう)という鏡で死者の生前の行いを映し出し、悪行を重ねた者を地獄に落とし罰を与えるとされています。

 

死者が何かに裁かれるという言い伝えは、古代エジプトでも知られていました。

古代エジプトの『死者の書』は、葬儀に使われた書物ですが、死者の魂が体を離れてから、死後の楽園にたどり着くまでの様子が書かれていて、その途中で、オシリス神が天秤によって裁きを行ないます。

このとき、天秤の右の皿には女神マアト(Ma’at)の真実の羽根が一枚置かれ、左の皿には、壺に入れられた死者の心臓が置かれます。

生前に悪事を重ねると、心臓は重くなるとされています。心臓が羽根より軽ければ、死者は死後の世界に進むことが許されますが、もし重いと、頭がワニ、上半身がライオン、下半身がカバである幻獣アメミットに魂を喰われてしまうことになっています。

羽根一枚との重さ比べですから厳しい裁きですね。私などは、とても合格する気がしません。

 

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中央の左がアヌビス神で、その右が幻獣アメミット。天秤の左右の皿には心臓と羽根が置かれている。 By National Geographic, Ancient Egyptians (Book of the Dead) [Public domain], via Wikimedia Commons

 

 

カバラにも、この天秤が登場します。

カバラとは、古代ヘブライ人の秘伝哲学にあたります。エジプトなどの古代の思想の核心の部分が、かなり忠実な形で伝えられていると考えられるため、過去のバラ十字会員の多くがカバラを研究していました。現在のバラ十字会の通信講座のカリキュラムにもカバラの学習が含まれています。

参考記事:『カバラについて

 

カバラの極めて重要だとされる書物に、『セーフェル・イェツィラー』(形成の書)、『ゾーハル』(光輝の書)があります。

『セーフェル・イェツィラー』は短い文章です。A4の紙6枚ほどにすべてが納まります。しかし、後で実例を示しますが、ヘブライ語のアルファベットや単語には何重もの意味があり、『セーフェル・イェツィラー』には、表面的な意味だけでなく、隠されたいくつもの意味が込められていて、その全容を理解するためには一生がかかるとさえ言われています。

 

天秤の話は、『セーフェル・イェツィラー』では次のように書かれています。

「アレフ、メム、シンが置かれているのは、恩恵を乗せる皿と、義務を乗せる皿と、その間にある、決定をくだす指針である。」

 

アレフ(Aleph)、メム(Mem)、シン(Shin)というのは、ヘブライ語のアルファベットの中でも母字と呼ばれる、最も基本的な3文字です。その中でもアレフは、他のすべての文字がそこから生じたとされています。

アレフという文字には、それ単独で空気・バランスという意味があり、メムという字には、水・賞賛という意味、シンという字には火・非難という意味があります。

 

つまり、天秤の一方の皿には賞賛されるべき行為(善行)が置かれていて、他方の皿には非難されるべき行為(悪行)が置かれていて、この2つの間のバランスが、針によって保たれているわけです。そして、もし善行の方の皿が下がれば、水によって象徴される幸せが生じ、悪行の皿が下がれば、火によって象徴される試練が生じるということになります。

さらに、幸せは恩恵として与えられるものであり、試練は、何らかの義務を果たすためのものであるということがほのめかされています。

たった一行あまりの文に、これだけ豊かな内容が詰め込まれていることに驚きます。

 

さまざまな証拠から、古代エジプトでも、天秤がもともと表わしていたのは、犯した罪は必ず償わなければならず、一方、善行には必ず報酬がともなうという考え方だったと推測されています。

しかし、このような概念はやや抽象的で、古代エジプトの多くの人々には理解が難しかったか、人気がなかったのでしょう。そこで、死者が裁かれて、その行き先が天国と地獄のいずれかに定められるというような分かりやすい話に変化したのだと思われます。

 

ところで、天秤の針を表わすヘブライ語の「ラッション」には、舌という別の意味もあります。

最初の閻魔大王の言い伝えとの奇妙な一致にはっとさせられます。

 

『セーフェル・イェツェラー』には、他にも興味深い部分がたくさんあります。たとえば、生命の樹が登場します。この樹は、聖書の『創世記』でエデンの園に植えられていたとされていますが、カバラでは神が物質世界を創った際に経た10の段階を表わすと言われています。

カバラの樹(生命の樹)

生命の樹(カバラの樹)

 

そして、先ほどの3つの母字、アレフ、メム、シンは、この樹の中央と右と左にあたります。

 

生命の樹などのことも、いずれご紹介できる機会もあると思いますが、今日はここまでにします。

ではまた。

 

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喜びと快楽について

2016年11月11日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、朝から冷たい雨が降っていました。

お変わりはありませんでしょうか。

 

今日は11月11日です。1が4つ並んでいて、NHKの朝のニュースで紹介されていましたが、きりたんぽの日、麺の日だそうです。また、私たちはNHKでないので平気で商品名を出すことができますが、ポッキーとプリッツの日だそうです。

実は3年ほど前から、健康のために炭水化物を控えているのですが、甘いものを食べる喜びにはときどき負けてしまいます。一昨日は外食をしていて、美味しそうに焼き上がったフランスパンに敗北し、おかわりをしてしまいました。

 

つい先日、バラ十字会AMORCのフランス代表が、喜びと快楽についてのブログ記事を書いていますので、その翻訳をご紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

記事「喜びについて」

現代社会は、さまざまな心配ごとにあふれていて、多くの人が、ふだんの喜びを失ってしまっているようにも思えます。もちろん、さまざまな種類の困難に直面している人、たとえば仕事が得られなかったり、生活費が不足していたりする場合には、幸せや心の平安を感じることが、不可能とまでは言わないまでも難しいということは事実でしょう。

一方、心配ごとなどひとつもないというのでは、現実を見ていないか、他の人たちに対する同情心が欠けている場合さえあるかもしれません。イスラム過激派によって起こされているテロはもちろんのこと、世界各地で起きている戦争や衝突に心を悩ましたり、心配を感じたりしないことが、どのようにしたらできるというのでしょうか。

 

現在の状況に対して、多くの人が心を悩まし、悲しいことだと感じているのは理解できることです。しかし、マスメディアが社会や経済や政治などのマイナス面をひっきりなしに報道することで、この風潮を助長していることを承知していなければなりません。このような報道が世の中の暗いムードに油を注ぎ、不信、疑惑、悲観主義、敗北主義などがはびこり続ける原因になっています。

確かに、社会でどのような問題が生じているかを知らせることはマスメディアの責任でしょう。しかし少なくとも、元気やインスピレーションを与えてくれる肯定的な情報を伝えることで、バランスを取るべきではないでしょうか。そのようにすれば間違いなく、多くの人が明るい気持ちになり、心に落ち着きを取り戻し、おそらくは今より幸せになることに役立つことでしょう。

笑顔の家族

 

もちろん、気持ちが暗くなるような情報を、読んだり、聴いたり、視聴することが強制されているわけではないのですから、世の中の暗い風潮をマスメディアだけの責任にすることはできません。さらにいえば、ある個人が、必需品を手に入れることができないことも、職業や家庭などで問題をかかえていることも、マスメディアの責任ではありません。

しかしそうだとしても、喜びは心の状態ですから、何よりも心全体のあり方に左右されます。ですから、貧しい人や病気の人の中にも、あふれるような喜びを感じている人がいます。

参考記事:『楽観的な人と悲観的な人

 

先ほど、「喜びは心の状態ですから、何よりも心全体のあり方に左右されます」と言いました。なぜでしょうか。それは喜びが、知性的な働きを司る大脳ではなくて、人の心の奥底に根ざしているからです。そのため喜びは、人が感じ、表現し、伝えることのできる、極めて高貴な感情のひとつです。

それに対して快楽は、むしろ身体や大脳が満足した結果です。そのため、尊いところがなく向上もない気晴らしや活動であっても、そこから快楽を得ることができます。自分本来の性質を無視し、自分自身を傷つけていることにもかまわず、快楽を得ようとする人もいます。

 

一方、喜びというものが、心の奥深くにある魂そのものに根ざしているということを認めるならば、スピリチュアリティ(spirituality:心の深奥にある美しさと高貴さ)にとって喜びが欠かせないということを理解することができます。

参考記事:『スピリチュアリティについて

 

人はスピリチュアリティのために喜びを探求することができますし、そうしなければなりません。広く言えば神秘家、特にバラ十字会員の多くはそのようにしています。また、スピリチュアリティのために喜びを探求するということは、適切な快楽を拒絶した生活をするということではありません。人生で出会うさまざまなことがらを通して、人は自分を完全な状態に近づけていくのだと神秘家は考えています。

人生で体験することは、とても困難だったり、挑戦的なことだったりしますが、そのような体験を、内面を成長させる機会として活用し、それと同時に、他の人たちと親しく交流する機会だととらえて、できるだけ幸せな人生を過ごすことに、多くの神秘家が努めています。

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。本稿はそのブログからの一記事。

△ △ △

 

この文章を読んで、たとえ忙しくても、喜びを感じる心を鈍らせてはいけないと反省しました。

あなたのご感想は、いかがでしたでしょうか。

 

最後までおつきあいくださり、ありがとうございます。

ではまた。


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