投稿日: 2022/05/25
最終更新日: 2023/01/11

ビル・アンダーソン(Bill Anderson)

メキシコ、テオティワカンの月のピラミッドと太陽のピラミッド
メキシコの古代都市テオティワカンにある「死者の大通り」(the Avenue of the Dead)に面して建つ月のピラミッドと太陽のピラミッド

メキシコシティの夜明けはこの日もすっきり快晴。私はホテルのロビーで、ツアー・ガイドのダニエルの到着を待っていました。彼の到着後、不規則に拡大し続ける都市部を北西に向かって車を走らせ、ナウカルパン(訳注)を過ぎると、そこからは松林に覆われた山々が続き、目を見張るような景色が何キロにも渡って広がります。山の中の待ち合わせ場所に着くと、道から少し離れたところに赤い車が停まっているのが目に留まりました。誰かが降りてきたのでダニエルが確認しに行くと、現地ガイドのクリソフェローでした。彼は「テマスカルの儀式」の間、ずっと私たちに同行してくれるのです。

(訳注:ナウカルパン(Nauhcalpan):メキシコシティの北西部に隣接するメヒコ州の都市。メキシコシティ都市圏の一部。)

「準備は万端さ」とクリソフェローは自信たっぷりに言いました。彼はこの24時間、私のためにすべての手はずを整えてくれたのでした。「テマスカルの儀式」こそ、私がこの目で見たい、できることなら参加したいと思い続けていたものであったとはいえ、メキシコシティを出発した時点では、いったい何が準備されているか、はっきりしていませんでした。クリソフェローの車に先導してもらい、私たちはフィンカ・ラ・ヴェントゥローサ(the Finca La Venturosa)に到着しました。そこは丘の中腹に建てられた儀式のための複合施設で、利用者が一夜を過ごすための、アルプスの山小屋風な華やかで洒落たコテージやレストランもあれば、テマスカル(Temazcal)と呼ばれる、この地域が発祥の丸い蒸し風呂小屋も大小2つあり、大きな方のテマスカルには30人まで入ることができます。

クリソフェローの案内でレストランへ入ると、彼は、隣接するオトミ文化センター(Centro Ceremonial Otomi)の大きな写真を広げて、敷地内のさまざまな施設と、それぞれの施設が持つ象徴的な意味について話し始めました。オトミ族の言語は、後からやって来たアステカ族などが話すナワトル語(Nahuatl)とは著しく異なります。北からナワトル語系部族が流入して定住を始めるまでの間、この一帯は1000年以上にわたってオトミ族の土地でした。オトミ族はメキシコの先住民のひとつであり、後氷期(訳注)にメキシコ中央高原(the central plateau of Mexico)に定住した大規模な部族の中で、最後まで存続していた部族の直系の子孫である可能性があります。彼らはアステカ族よりはるか昔からこの地で暮らしていたのであり、彼らの生活圏はアルティプラニシエ・メヒカーナ(訳注)であり、メキシコシティの北方と西方の広範囲に及んでいました。

(訳注:後氷期(postglacial):約7万年前に始まって1万年前に終わった最後の氷河期(ヴェルム氷期)以降から現在までの期間。)

(訳注:アルティプラニシエ・メヒカーナ(Altiplanicie Mexicana):メキシコの中部と北部の内陸を占める広大な高原。メキシコ高原。)

メソアメリカ(訳注)に見られるほとんどの象徴が、深い意味と古い歴史を持っていますが、オトミ族の象徴記号も例外ではありません。私は2人のガイドに、バラ十字会に伝わる象徴記号の一部と、今説明を受けている古代メソアメリカの象徴記号との間には、明らかな類似点があると話しました。古代メソアメリカ(現在のメキシコからベリーズ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスにかけての一帯)には様々な部族が群がるようにかつて定住していたのであり、それぞれの部族が独自の言語を持っていたにもかかわらず、文化的な着想において、部族の垣根を超えて驚くほどの一貫性がありました。しかもそれは広範囲に渡っていたのですから、「文化的エクメーネ」(訳注)とさえ呼べるかもしれません。

(訳注:メソアメリカ(Mesoamerican):中央アメリカの古代文明圏。アステカ、マヤ、テティワカンなどの高度な農耕民文化が築かれた。)

(訳注:エクメーネ(oekumene):人間が住み、共通性のある社会を形成し、経済を営み、規則的な交通を行っている生活空間。「住んでいる土地」を意味するギリシャ語「オイクーメネー」(oikumene)に由来する。)

哲学的な議論が終わると、クリソフェローが立ち上がり、私とメキシコシティから一緒に来たガイドに、厳粛な落ち着いた声で、ついて来てほしい特別な場所があると言いました。そこには、これまで滅多に人を連れて行ったことがない。これから見せるものの価値を見抜き、畏敬の念を抱くに違いないと思える人でない限り連れて行かないからだと言うのです。私たちは彼のすぐ後ろについて、上り一辺倒の道を延々と歩き続けました。そこは松の新鮮な香りが漂う森で、柔らかい松葉が一面に厚く堆積しており、それを踏みしめるようにして登っていきました。松の素晴らしい香りは、不思議な活気を与えてくれました。長く急な坂道を歩くと、私は普通なら数分で息が切れてしまうところですが、疲れを感じるどころか、何かとても特別なものが見られそうだという期待感でいっぱいでした。

開けた場所まで来ると、クリソフェローが、隣接する谷間にある遠く離れたオトミ文化センターを指差しました。あっという間に登ってきたことを知り、我ながら驚きました。私たちはさらに上り続けました。今度は、腰の高さにまで伸びた草をかき分けながら、遠くに見える岩を目指して進みました。ひとつに見えた岩は、実は大きな3つの岩であり、ひとつが他の2つの岩の上に乗っているのだと分かりました。クリソフェローは立ち止まって、この3つの岩は、その昔オトミ族にとって神聖なものであり、特定の人しか近づくことを許されていなかったのだと説明してくれました。

メキシコの地図
メキシコの地図。丸で示した所は、オトミ語が使用されていたおおよその地域

聖なる岩

Sacred Rock

3人は岩の上によじ登って腰を下ろしました。私がずっと疑問に思っていたことについて、クリソフェローが説明してくれました。メキシコには多くの遺跡があり、古代都市テオティワカン(訳注)の一部や、他の遺跡が発見されている場所にオトミ族が暮らしていたことが分かってはいるものの、他の文化と違って、彼らにとって大切であるはずの神殿がいまだに発見されていないのです。その疑問に対するクリソフェローの答えは、オトミの神殿は他のメソアメリカのいくつかの神殿と同じように、ヨーロッパの教会のようなものではなく、山がその役割を果たしていたというものでした。その山には、賢者や極めて限られた者だけが登ることを許されていました。クリソフェローのオトミ族についての説明は、ずっと後の時代になってから生じ、現代の私たちが伝え聞いている「野蛮な生け贄の儀式」(訳注)という話とはかけ離れています。

(訳注:テオティワカン(Teotihuacan):メキシコシティの北東50kmに位置する巨大な宗教都市遺跡。アメリカ大陸最大の規模を誇るテオティワカン文化の中心を担った。紀元前200年頃から西暦750年頃まで繁栄。テオティワカンは「神々が集う場所」もしくは「人が神になる場所」を意味し、アステカ族はこの地を太陽と月が生み出した聖地と考えていた。1987年に世界文化遺産に登録。)

(訳注:野蛮な生け贄の儀式:太陽のピラミッドの頂上では、人間の生け贄の血を太陽に捧げていたという説がある。)

私は、前回メキシコを訪れた際に、マヤ文明(訳注)の遺跡のピラミッドの頂上に登ったときのことを思い出しました。そのときそこは一面に生い茂った草木を伐採したばかりであり、あたりに穏やかな雰囲気が漂っていたので、私は瞑想をしました。私たちは時には、ベールの向こう側、これらの神聖な建造物の背後に隠されている本当の意味を知る必要があります。クリソフェローは、オトミ族の賢者たちが集まって開いた集会の話をしてくれました。彼らは、アステカ人が勢力を増しており、自分たちも征服されて彼らの帝国に取り込まれるのも時間の問題であることに気づいていましたが、さらに後の時代には、アステカ人も別の民族によって征服されるだろうと考えていました。オトミ族は自分たちの遺産を守るために、自分たちの最も神聖な場所を、それを損なうであろうすべての人の目から隠すことに決め、決行したのでした

(訳注:マヤ文明(Maya civilization):紀元前300年頃から16世紀頃まで、ユカタン半島からメキシコ、グアテマラ、ホンジュラスにかけてマヤ族によって展開された都市文明。巨大なピラミッド型神殿や、高度な暦法(マヤ暦)、独自の絵文字(マヤ文字)などを特徴とする。300年~900年頃に最盛期を迎え、1200年以降に衰退した。)

この3つの特別な石は、”偉大な霊”と同調するための崇拝の場所として古代に用いられていたのだとクリソフェローは話してくれました。“偉大な霊”とは、現代の西洋人の用語で言えば“神”に近い何かなのでしょう。この場所では、ことさら特別な何かが感じられます。壮大で重々しく、しめやかな存在感、神聖な雰囲気、そして、苦悩を抱えてこの地を訪れた後に、精神的に深い安らぎを胸にして帰って行く幾千もの巡礼者のささやき声の残響……。クリソフェローが、私たちに靴も靴下も脱いで、足の裏を岩の上につけてみるよう促しました。ダニエルは足の裏から何かが入ってくるのを感じて、とても驚いていると言いました。それは、前日に私からバラ十字のヒーリングを短時間受けたときの感覚に似ていたそうです。それは、彼が何も言わなくても私には分かっていたことでした。私も最初から、彼が話したのと同じ癒しの力が足の裏から入ってくるのを感じていたからです。

その岩の上で、私たちは正三角形になるように向き合って座り、古代メソアメリカの宗教信仰について一時間近く話し合いました。クリソフェローの説明によると、テオティワカンの「太陽のピラミッド」、「月のピラミッド」と現在呼ばれているものは、実際には太陽の神や月の神を祀ったものではありません。この2つの名前は、このピラミッドの本来の意味をほとんど知らないまま受け継いだアステカ人が後からつけたものでした。アステカ人がこの地にやってきたのは、これらのピラミッドや、それよりはるかに小さな礼拝の場所が、今日では知り得ない理由で放棄されてからおよそ500年も後のことだったからです。

私たちが「太陽のピラミッド」と呼んでいるものは、現在では誰でも頂上に登ることができますが、クリソフェローによるとそれは、トラロック(Tlaloc)とウェウェテオトル(Huehueteotl)と現在では呼ばれている神々に捧げられたものでした。トラロックは男性的な水、つまり天から降り注ぎ大地を肥沃にする雨を象徴しています。ウェウェテオトルはおそらく、壊滅した都市クイクイルコ(訳注)の生き残りの人々によって伝えられた神です。この都市は、西暦245年から315年(一説では紀元前一世紀)に起きたキシレ火山の噴火で溶岩に覆われたのです。ウェウェテオトルとは太古のエネルギーという意味です。テオトル(Teotl)はヨーロッパの人が神と呼ぶようなものを意味しているのではなく、エネルギーや影響力を指していたと考えられ、古代エジプト人が神の影響力をネテル(Neteru)と呼んだのと良く似ています。ウェウェテオトルは、その起源から火山との関係が深く、生命を授けたり取り上げたりする存在として、長い歳月にわたって崇拝されてきました。この神の姿は、平たい火山を背負って座っている老人の姿として描かれます。

(訳注:クィクイルコ(Cuicuilco):メキシコ盆地南西部にある遺跡。多数のピラミッドがあり、特に4層の円形ピラミッドが有名。)

ウェウェテオトルの像
ウェウェテオトルの像(Rosemania, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons)

月のピラミッドは、後にチャルチウィトリクエ(Chalchiuhtlicue)という名で知られるようになった女神に捧げられているのだそうです。この名は「翡翠のスカート」を意味し、女性的な水、すなわち、湖や池、川、さらに大地から湧き出る泉の女神でした。このピラミッド型神殿は、背後に立つ山の形を忠実に反映するように造られています。月のピラミッドの足元の前方には広場があり、13の神殿がその広場の三方を取り囲むように並んでいます。広場の中央には「クインカンクス」(Quincunx:サイコロの五の目型)と呼ばれる謎めいた建物の遺跡があります。この建物に注意をひかれた私は、それがとても風変わりだったのでその役割についてあれこれと考えてみたことがあります。

メソアメリカの宗教の真の意味について深く知ることには、人の心を奪うような魅力が溢れています。ヨーロッパの人々は、その奥深くに秘められた意味を理解することができずに、間に合わせの表面的な説明をしているように思われます。岩を離れる前に、クリソフェローが私たちに岩を叩いてみるよう言いました。驚いたことに、空洞があるような響きがして、中が詰まっているようには思えませんでした。その後、私たちは背の高い草の中を歩き、ふかふかな松葉の絨毯の上を通って丘を下り、施設のレストランに戻ったのでした。

月のピラミッド。後にチャルチウィトリクエ(翡翠のスカート)という名で知られるようになった女性的な性質の水を司る女神に捧げられていたと推測される。このピラミッド型神殿は、背後に立つ山の形を忠実に反映するように造られている

テマスカル体験

The Temascal Experience

テマスカルの儀式の時間になりました。私たち3人は、レストランから芝生を通り抜けて石焼き炉(訳注)に向かいました。ダニエルと私は、2つある「キヴァ」(kiva)のうちの大きい方に入って水着とサンダルに着替えました。適切な言葉が見つからずに「キヴァ」と言いましたが、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれません。米国南西部に見られるキヴァとは、プエブロ族(Pueblo)と呼ばれるアメリカ先住民族たちが、昔も今も式典や集会、精神的な儀式に使っている部屋のことです。通常は地下にありますが、ここのテマスカルは2つとも地面より上にありました。

(訳注:石焼き炉:テマスカルに使う石を熱するために掘った浅い円形の穴。)

私たち3人は、テマスカルと石焼き炉の近くにある小さな空き地に集まりました。地面には、クリソフェローが置いた香炉などのいくつかの品物がありました。私たちは、この”プロナオス”(訳注)で正三角形に整列させられました。プロナオスと呼びましたがこの空地は実際に、神殿であるテマスカルへの入り口としての機能を果たしています。さらに、私たちとテマスカルと石焼き炉も正三角形を構成していました。テマスカルの外で行われた儀式で、私たちは東西南北の4方向と、上の天空と下の大地に向かって腕を伸ばしました。クリソフェローが私たち一人ひとりを回ってコーパル(copa:熱帯産の種々の木から得られる天然樹脂)のお香で私たちを清めた後、テマスカルの中へと私たちを案内してくれました。

(訳注:プロナオス(Pronaos):古代エジプトの神殿で、聖所(naos:ナオス)の前にある部屋。最も聖なる場所に入る心の準備をする場所。)

メキシコのテマスカルが描かれた古い時代の版画
メキシコのテマスカルが描かれた古い時代の版画

テマスカルは円形で、小さな出入口がついています。腰をかがめて中に入ると、地面の中央に窪みがありました。その横には水盤が一つ置かれ、中には甘い香りのするハーブが浮かんでいました。屋根に空けられた穴から一筋の光が差し込んで、窪みを照らしていました。私は一瞬、アクナテンの時代の絵に見られるような上方から射しているアテン(訳注)の光線のことを思い起こしました。中に入ると、冷たい石のベンチが壁を一周するように備えられていました。私たちは自然に、互いに距離を取って座り、ふたたび正三角形ができ上がりました。突然、頭上の排煙口が閉じられ、唯一の明かりは入り口の扉の隙間から入ってくる光だけになりました。

(訳注:アテン(Aten):アメンホテップ4世(アクナテン)により唯一神として宣言された古代エジプト神話の太陽神。アテンから発する光線は、太陽神の恵みを表すために、先端が手の形として描かれている。)

外にいた2人の助手が、24時間ほど熱し続けた石を、外の石焼き炉から運んできました。その石は、メキシコのこの地域にある多くの火山のひとつで採れた色の濃い玄武岩でした。石は全部で13個あり、部屋の中央の窪みにひとつずつ置かれました。13という数は、コロンブスが到着する以前の時代のメキシコで重要な意味を持っています。当時使われていた2種類の暦のうちのひとつに記されている「トレセーナ」(Trecena)と呼ばれる13日の期間に一致しているからです。メソアメリカの260日周期の暦「トナルポワリ」(tonalpohualli)では、この周期が20のトレセーナに分割されていました。

その後、扉がほぼ完全に塞がれ、扉の下のすき間から光が細く差し込む以外、室内は真っ暗になりました。暗闇の中で座っていると、窪みの中の石の周りのかすかな光に目が慣れてきました。次にクリソフェローが石に水をかけると、蒸気が大量に立ちのぼりました。その蒸気を最初に感じたのは顔ではなく背中で、後からそれが全身に伝わってきました。これには驚きましたが、どうやら蒸気はまず天井に上り、そこから壁を伝わって降りてくるようでした。

アステカのテマスカルを表す絵文字
『マリアベッキアーノ絵文書』(Codex Magliabechiano)の中にあるアステカのテマスカル(蒸し風呂)を表す絵文字

それから後の2時間半の間に、ドアがさらに2回開かれ、中央の窪みに積まれた焼石の山に熱い石が追加されました。さらに水がかけられることで、蒸し風呂の体験が続くようにされました。皆が考えごとをしながら黙って座っている時間もあれば、時々クリソフェローがメソアメリカの歌を歌ったり、詩を暗唱したりする場面もありました。私は彼に、なぜ母国語であるオトミ語ではなくナワトル語で歌うのかと尋ねました。私はナワトル語を多少かじったことがあったので、それと分かったのです。オトミ語よりもナワトル語の方が詩的で叙情的だから、歌や朗読に合うのでそうするのだと彼は答えました。

ナワトル語は美しい言語だといつも私は思っていましたが、それは蒸し風呂の儀式のこの体験全体に比べればそれほど重要なことではありませんでした。この儀式は、古代の崇高な意識との深遠な結びつきを私に残してくれました。この儀式がこれほど深い精神的な感覚を残したことに、私は驚きませんでした。なぜなら、歴史を辿って世界のどこを旅しようとも、こうした体験ができる土地が、少なくとも2つや3つは間違いなく見つかるからです。そうした土地では、精神的な目覚めのための深遠な探求がかつて行われていて、その探求に用いられていた歌や詠唱、儀式、あるいは単に美しく語られる言葉が、遠い昔に失われた場所や時間の神聖さに通じる意識の扉を開いてくれます。

長い間無言のまま内省していると、小屋の片隅にホタルが点滅しているような黄色い光が見え始め、不思議な気分になりました。またある時には、小屋の半分ほどが紫色の光で満たされているのを見て、すべてが順調なのだと安堵しました。3回目の時間が終わった後、出入り口が開かれました。私たちは再び強烈な明るい日差しに出ると、服をかき集めて、近くのシャワー棟にある、施設利用者が自由に使えるシャワーへと向かいました。儀式に参加した大昔の人は、近くの川や湖に頭まで浸かったのでしょうが、冷たいシャワーが同じ役割を果たしてくれました。

アメリカ先住民のスウェット・ロッジ
伝統に忠実に沿って作られた、現代のアメリカ先住民のスウェット・ロッジ(蒸し風呂)

回想

Reflection

自分ひとりになれる時間があり、今回の体験を、全体を通して振り返ることができました。そして、メキシコの人々の生活にかつて根付いていた神秘を、自分が理解し始めているように感じました。それは、メソアメリカ文明全体や、そこに暮らす人たちが精神的な慰めを求め手に入れる方法が、コンキスタドール(訳注)の侵入によってほとんど破壊された時代の、はるか以前の神秘です。古代における彼らと周囲の自然界との密接なつながりは、その大部分が何世紀もの間キリスト教の思想に覆われてしまいました。しかし、彼らの祖先が精通していた宇宙とのつながりが完全に断ち切られることは、今日に至るまで決してありませんでした

(訳注:コンキスタドール(Conquista-dores):16世紀にアメリカ大陸やカリブ海を征服したスペイン人たちの総称。)

今回の日帰りの旅は、展開が予想できないものだったのですが、印象深く長く記憶に残るものになりました。人里離れた聖地を訪れ、浄化の儀式を体験する機会を得たことで、はるかに昔の世代の人々がたどった精神的な旅に加わることができたのです。そのおかげで、ほとんどの人がすでに失われたと考えている世界についての洞察を得ることができました。私たちの誰もが知っているように、実際のところ本当に失われるものなど何もありませんし、研究や瞑想を通して私たちは、その世界とつながることができるのです。この旅を通じて改めて実感したことは、私たちが世界のどこにいようとも、私たちは皆つながっているのだということです。この旅の最初から最後までが、私の人生の中で最も素晴らしい経験のひとつになりました。

ボルボニクス絵文書より13番目のトレセーナ
『ボルボニクス絵文書』(Codex Borbonicus)の原本の13 ページに掲載されている13番目のトレセーナ(13 日の期間)。このトレセーナを司るのは女神トラソルテオトル(Tlazolteotl:穢れと浄化と癒しの神)であり、はぎ取った皮を着た姿で、シンテオトル(Cinteotl:トウモロコシの神)を産んでいるところが左上に描かれている。このトレセーナの13 の日々を表す記号は、1日目が地震、2日目が火打石もしくはナイフ、3日目が雨と続き、そのひとつひとつが下段と右側の縦列に示されている

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