投稿日: 2022/12/20
最終更新日: 2023/01/24

ラルフ・M・ルイス(Ralph M Lewis)- バラ十字会AMORC世界総本部元代表

アンゼルム・フォイエルバッハ作
『プラトンの饗宴』(1869 年)
アンゼルム・フォイエルバッハ作(Anselm Feuerbach, 1829-1880)
『プラトンの饗宴』(1869 年)

詩の世界では、長い間、愛こそが人間の最高の感情であると賞賛されてきました。しかし現実の愛は、昔も今も、詩人のナイフが切り取った高尚な側面ばかりだったわけではありません。愛は、性的な欲求や野心、物質的な利益の追求など、人間の性質のあまり高級とは言えない動機と渾然一体になっています。「聖杯」や錬金術の「賢者の石」と同じぐらい熱心に、愛の真の性質が探し求められてきました。

愛とは神の恵み、すなわち神からの贈り物なのでしょうか、達すべき至高の法悦の世界なのでしょうか。それとも生物学的な衝動、あるいは不可解な心理的現象なのでしょうか。愛について初めて語ったのは古代ギリシャの哲学者たちではありませんが、愛に対して知的な探究を行ったのは、彼らが最初でした。紀元前5世紀のエンペドクレス(Empedocles, 紀元前493-433)は、宇宙の活動についての理論を提唱しました。彼よりも年配であった哲学者のパルメニデス(Parmenides, 紀元前520-450)は、「存在しないものは存在しないのであるから、宇宙には空虚な空間などというものはない」と語り、それゆえに、物質が空間を移動する(運動する)ことを否定しました。これに対してエンペドクレスは、物質は土、火、水、空気という4つの元素から成り立っており、元素の運動は、愛と争いによって引き起こされると考えました。愛は元素同士が引き合う力であり、争いは元素同士が反発する力であると考えたのです。このエンペドクレスの理論では、宇宙の力と人間の性質の間に類似した関係があるとされていることが見て取れます。愛によって元素は調和のとれた結合を作り、争いによって元素は徐々に分離するとされていました。

対話篇のひとつである『饗宴』の中で、著者のプラトンは、ソクラテスが愛の本質について長い演説を行う場面を描いています。この演説のどの程度までが、ソクラテスが実際に語った言葉なのか、それともソクラテスの熱心な弟子であったプラトン自身の言葉なのかという点には、大いに疑問の余地があります。私のこの記事の狙いは、愛とは何かを手際よく明確にすることですので、この長い対話の中のいくつかのポイントにだけ触れていきましょう。愛についてソクラテスは次のように問いかけます。「第一に愛とは、自分に欠けている何かに対する愛ではないだろうか。あるいは、自分に欠けている何かに関連することではないだろうのか」。ここでは、愛とは突き詰めて言えば、自分が持っていない何かに対する欲求であるとされています。それは、人々が克服しなければならないと感じたり考えたりしている自身の不完全さです。では、裏を返せば、もし人が自分に満足していれば、愛することはないのでしょうか。愛とは、永遠に何かを求める状態なのでしょうか。それとも、求める対象や状態を手に入れてしまえば、泡のように消え失せてしまう移ろいやすいものなのでしょうか。

愛の特性

Qualities of Love

『饗宴』の中で、ソクラテスは愛の本質の説明として、人間の性質のいくつかについて語っています。「愛が美しいものを求めるとき、それは良いものを求めている」というその中の一節を、身体的な欲求や肉体的な魅力だけを意味していると解釈すべきではありません。ここには、道徳的な意味合いも含まれています。またこの一節には、次の疑問が暗に含まれています。つまり、「愛が求めているという『美しいもの』、『良いもの』とは何か」という問いです。さらにこの対話では、「人間という不完全な存在の中には、美という良さに向かって一歩一歩進んでいきたい、身体、精神、魂、さらには神の美である絶対なる美へと向かうあこがれがある」と述べられています。

ここで示されている重要な考えは、自己の各カテゴリー、つまり身体、精神、魂のそれぞれにおいて、未完成、不完全であるという自覚があるということです。そこで人間は、自己のそれぞれのカテゴリーの完成にあこがれます。それぞれのカテゴリーの完璧なあり方が、「良い」状態であり「美しい」状態です。「美しい」状態とは、完成が実現したことから生じる調和であり、その極致は「絶対的な美、すなわち神の美」であると述べられています。この至高の美しさとは神と一体になることであり、私たちが知覚することができる現実のすべての側面を包み込む調和です。この愛は、他のいかなる愛も超越することを意味します。

プラトンが愛と密接な関係にあるとした「美しいもの」と「良いもの」というテーマに、再び目を向けてみましょう。私たちは通常、何を美しいと見なすのでしょうか。何が私たちに美しいと思わせるのでしょうか。私たちが満足を感じる場合、私たちは必ず「美しいもの」、「良いもの」を経験しているのではないでしょうか。たとえば、私たちが視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚を通して何かを知覚しているとき、何であっても、それが自分にとってとても喜ばしいものであれば、それはそのものの「良さ」です。同時にそれは、その物の「美しさ」でもあります。なぜなら私たちは、その物やその状態の特定の性質に、調和があると見なすからです。

心地よく感じる食べ物に対して、私たちは「これは美しい」とは言わずに「これはおいしい」と表現しますが、言おうとしている内容は同じであり、「おいしいもの」は「良いもの」だと見なされています。従って、「美しい」と「おいしい」という2つの言葉はいずれも、私たちが「良い」と考える価値を共通に表しています。「美しい」とか「おいしい」という言葉が習慣として用いられない場合には、直接「良い」という言葉が用いられます。たとえば、良い道具、良い楽器、または数学の問題の良い解法というような具合です。

純粋に理論的な心理学では、愛というテーマが詳しく取り上げられることはありません。扱われるとしても、本能的な愛と親の愛という2つのカテゴリーに限定されています。基本的な本能としての愛は、子孫を残すために必要な要素であり、性的に相手を惹きつける力であると説明されます。この本能的な欲求がなければ、性的関係は魅力よりも嫌悪感を抱かせると、心理学者の一部は考えています。このような肉体的な意味での愛は、栄養を摂ることが必要であるのと同様に、生体としての欲求を満たすものに過ぎません。そして、その欲求を満たしてくれる対象が、良いもの、美しいものとして理想化されます。

親の愛とは、心に内在する自己拡張であり、これも本能的な愛の一種です。

親の愛とは、心に内在する自己拡張であり、これも本能的な愛の一種です。単純化して言えば、子どもは、その子ども自身のためだけに愛されるのではありません。意識の最も深いところで、親は知らず知らずのうちに自己を子どもにまで拡張しています。つまり子どもは、親の身体の不可欠な一部であると見なされています。より端的に言えば、母親は本能的に子どものことを、自分自身の親しい一部分として愛しています。これは、母親による過保護という形で極めて頻繁に見受けられますが、自分ではないものを自分だと見なす心理学的な現象の一例です。母親は、理性的には子供を独立した存在として受け入れているつもりなのですが、無意識のうちに我が子を自分自身の一部として愛しています。

「精神的愛」(spiritual love)と呼ばれている、別の種類の愛があります。この愛の最も純粋な形は、「神秘学的愛」(mystical love)と呼ぶことができます。神秘学的愛という観念を理解するために、まず、その代表的な例をいくつかご紹介しましょう。

神秘学的愛

Mystical Love

ニネヴェのイサアク(Isaac of Nineveh, 613-700)は、『神秘学論文集』(Mystical Treatises)という有名な著作を残しています。この作品は、「神秘学の道」を探究する人々の指針となることを目的として書かれています。その中から、次の格言をご紹介しましょう。この言葉は、膨大なこの著作の他の部分の特徴をよく表しています。

「創造主に対する真の愛は、常に利害を越えている。この愛はそれゆえに、愛することに利益があっても増すことがなく、愛することに見返りがなくても減ることはない。」

この言葉には、深い意味が込められています。神秘学的愛という至高の愛は、愛する者に生じる利益という観点から捉えるべきではないと、この格言を解釈することできます。創造主を敬虔に愛することで、その人は法悦の喜びや、その他の感情面や健康面への利益を得ることができるかもしれません。しかし、それは必ずしも神秘学的愛の成果でもなければ、神秘学的愛をさらに深める要因にもなりません。この純粋で至高の愛は、その外的な表現に何の報いが与えられなくても影響を受けることはありません。また、この至高の愛をある人が強く心に保持しているのであれば、その人がその愛を外的に表現しないとしても、その愛が弱まることはありません。

8世紀の卓越したスーフィー(イスラム教の神秘家)であるビシュリ・ヤシン(Bishri Yasin)は多くの著作を残しています。次の言葉は、彼の著作の全体を通して表現されているテーマをよく表しています。

「至高の愛とは、神との関わりから自己の利益を取り除く努力である。」

神に捧げられる絶対的な愛は、個人的な利益を得たいがために神に執りなしを求める単なる嘆願とは区別されなければならない、つまり、個人的な利益を期待せずに捧げられる愛であると、この言葉を解釈することができます。それは、愛の本質的な部分、つまり愛するという行為そのものを追求する愛です。東インドのある神秘家はこう主張しています。

「敬虔な人の愛は、つかの間の表面的な嘆願を捨て、言葉では表すことのできない唯一の実在に向けられる。」

この言葉の意味が、あるキリスト教神秘家の次の言葉と関連していることは明らかです。

「自己が欲望に執着している限り、自己の真の性質は見えない。自己の性質は、思いを凝らす唯一の対象が神だけになったときにだけ明らかになる。」

神秘学的愛という至高の愛は無私のものである、すなわちこの世の生活が持つ性質を一切含まないと、これらの2つの言葉を解釈することができます。このような愛の価値は、愛そのものにあるのであって、人間の生活に関係する、常に変化する価値のいずれとも無関係です

創造の源泉

The Origin of Creation

イスラム教の神秘家は数多くの見解を表明していますが、その一つに「愛が人間の源泉かつ原因、すなわち物質に宿る魂の展開の源泉かつ原因であるなら、それはまた、人間の内面的進歩と〈一なるもの〉への回帰を促す起爆剤でもある。」という言葉があります。この言葉を次のように解釈することができます。つまり、神の愛は、物質世界を最初に生じさせただけでなく、物質に「生命」と「意識」を与えたのであり、それゆえに神の愛という非物質的なこの衝撃は、人間に内在する神の性質を、人間の意識に理解させる手段としても用いられるはずであるという意味です。神秘体験とは、〈一なるもの〉への回帰、〈一なるもの〉とひとつになることです。

絶対的な愛もしくは至高の愛という神秘家の概念は、時代や場所、宗教観の違いに関係なく、基本的に同じです。僭越なことですが、この普遍的な概念を、神秘家がどのように捉えているのかを紹介させてください。第一に、原初の〈一なるもの〉、つまり、何らかの種類の神、何らかの至高者、あるいは宇宙の根源から万物が生じます。すべてのものの本質は同じですが、それぞれの現れ方は異なります。神すなわち宇宙の源は、完成度の低い状態で外部に流出し、ある周期的な展開をたどります。そして、それらすべてのものは、再び〈根源〉へと回帰し、その周期が完了します。したがって、死を定めとする人間は、自らの神聖な起源を、自己の意識の中に完全に実現し気づいている状態に必ず戻ることになります。これこそが、私たち神秘家が追求している、〈根源的実在〉すなわち〈絶対なるもの〉との究極の合一です。〈すべてであるもの〉と意識が再び一体になるためには、いかなる仲介も必要でありません。この概念を、次の図形で象徴することができます。ある一点から一本の線が、徐々に輪が広がる螺旋を描きながら上方に伸びていきます。しかしこの螺旋は(逆説的なことですが)、元の一点にたどり着きます。

では、ここまでの内容をまとめてみましょう。愛にさまざまな形があることは確かです。しかし、このテーマを細かく見ていくと、すべての愛の根底には一つの共通点があることに気づきます。それは、「愛は願望である」ということです。さまざまな愛がありますが、それらはすべて願望の集合です。愛とは、特定の感覚や体験を求める願望です。

願望にはさまざまな種類がありますが、いずれも、何らかの幸せや喜びを得ようとする意欲です。これこそが愛の実体です。愛には階層的な序列があり、この序列を尺度として、あるひとつの愛が至高のものと見なされます。この序列は固定的なもので、それが持続している間の強さと持続期間の長さに基づいています。最も下の序列の愛は感覚的な欲求です。この欲求は移ろいやすいものであり、それを満たすためには絶えず刺激を与え続けなければなりません。それは痒みと同じようなものであり、掻かないうちは満足できず、そのくせ一度掻いてしまえば、その満足感はたちまち過ぎ去ってしまいます。このように、感覚的な欲求のすべてには、一過性という性質があります。

欲求の階層において、感覚的な欲求よりも上の序列に属するものに、知的な愛があります。ここには、創造する欲求、知識を手に入れることへの欲求、様々な技術や技能の達成する欲求が含まれます。また、精神の能力を奮い立たせて、自身の置かれた状況を克服するために知性を働かせることが含まれます。

創造する欲求

知的な愛は、感覚的な欲求とは異なり、満足が次第に薄れていくようなことがありません。知的な欲求が満たされるたびに、精神の働きが刺激されて、力量がより優れていきます。こうした欲求が満たされることで得られる喜びは、飽き足りることがなく、さらに増していきます。この種類の愛は、知恵への愛でもあります。自由という理想、存在の神秘、自然現象の探究といった抽象的なものに対する愛もここに含まれます。

階層の頂点にある欲求は、魂から発する動機です。この動機は、他のどの欲求よりも非個人的なものです。この種類の愛では、自己が自分自身のために望むものは何もありません。自己が望むのはただ一つ、自身が〈究極の超越〉だと見なしている〈全体であるもの〉との合一を体験することです。〈全体であるもの〉は、神、宇宙、絶対なるもの、普遍的精神などとも呼ばれます。この合一がなし遂げられたときの喜びは、言葉では表すことのできない不可解な忘我の法悦です。理論的には、この愛が宗教の目標だと言うことができます。それは神秘学の神髄であり、真の宗教の愛です。しかしそれは、宗教の主観的な側面です。もし宗教が、それ以外の欲求を教義に取り入れてしまえば、神への至高の愛も、人間の欲求の階層の中の低い序列の愛へと逆戻りしてしまいます。

愛とは幸せへと向かう願望であり、繰り返しになりますが、幸せとは喜びです。喜びに勝るものはありません。各階層の欲求のひとつひとつが、人類の幸せに寄与する固有の価値を持っています。もし、いずれかの愛とその喜びにだけ自分自身を限定してしまうと、愛の階層の全体を体験することを自分に禁じることになってしまいます。

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